市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

「改革、待ったなし」という言葉の意味

 内田樹氏が関西のMBSラジオに出演しているようで、その放送の模様がネット上に置かれている「MBSラジオ 辺境ラジオ」
 この12月25日放送分を聞きながら自分なりに思った事をつらつらと書いてみたいと思う。(※4)

 といっても、放送の感想ではないし、放送は大阪なので橋下の問題に触れており、河村の「か」の字も出てこないが、私の問題意識は河村と名古屋の状況にあるので、そういう意味で歪んでいる。まあなんにせよ、この文章よりも放送コンテンツの方が「ため」になることは間違いないだろうと思う。

 ジャクソン流民主主義においてもそうだが、河村−橋下−小泉などの一連のアジテート型政治屋に共通する「やりくち」というものがある。それは「抵抗勢力」を想定してそれを否定することで、自身に対する政治的求心力を得ようとする政治手法と言っていい。

 つまり社会にある不満の元が「コレダ!」と指差すことであるとみなせる。

 彼等は経済政策においては市場原理主義を信奉している。この政治的手法には市場原理、つまり「商法」からヒントを得ているのではと思える。

 「コンプレックス商法」というものがある。人々の劣等感を刺激して商品を買わせるという手法だ。容姿や能力、性格などありとあらゆる物を取り上げては、あたかも「それが満たされなければ、人生において幸せをつかむことはできない」とでも言わんばかりに不安を煽り、その不安につけ込んで商品やサービスを売り込んでいく。これは何も昨今の流行ではなく、古くは古代ローマ帝国の資料にも「劣等感を種にして物を売り込む」という例が見られたと言う。
 更にこの「コンプレックス商法」が発展していくと「アイデンティティ商法」(※1)に行き着く。様々なブランドやアイコンを提示して、それに寄り添わせる事によって自分が定義できると思い込ませる。その昔は「シャネルのスーツ」が働く女性のアイデンティティを形成していたのだろうし、やがてその座をプラダが奪い「プラダを着た悪魔」という映画がそのイメージを強化した。今で言うとスマートフォンiPad がステータスとなり、何に使っているかは不問のまま、とりあえず「持つこと」に意味があるかのように見うけられる。それらのガジェットで何をするかではなくて、それらのガジェットを扱う自分を作りたいのだ。

 最近ではここに「ギルティフリー商品」というものまで生まれてくるようになったそうだ。消費というのはヒトにとっては原罪である。ヒトは他の生命を食べなければ生きていくことすら叶わない存在である。「ギルティフリー」などという言葉自体が論理矛盾であり欺瞞でしかない。フェアトレードには意味があったかもしれないが。しかし、こういったものをすぐに商売に変える奴等が出てくる。消費そのものに備わっている「心のやましさ」を消費のエネルギーに替える。

 これら「コンプレックス商法」「アイデンティティ商法」「原罪というべきヒトの在り方」の問題は、それぞれの個人の内にあって、自己の在り方の問題でしかない。もっと言うと、それは自己の問題ですらない。自分自身は在りのままで良いのであるから、それを問題として捉えてジタバタする必要など実は最初からないのだ。

 太っていようが痩せていようが、それが自分自身であるし。何を着たり身に着けたりしようとも自己の本質に変わりはない。ブランドや商品に備わった「属性」が自分を変える事はなく、変わったと思えても、単にそれは振り回されているのに等しい。

 このように自分自身の欲求、不満、不安は自己の中にあり、外部に解決を求めても解消されない。消費社会は欲望を駆り立て、不満や不安を煽り、それらが商品やサービスといった外部のナニモノかによって解決と繰り返し語りかけ、その商品を売りつける。(※2)

 これを政治的に現出させたのが、「改革」を標榜する人たちなのではないだろうか。

 社会における不安や不満を掻き立てる。
 その原因はこれだ!と言い当てる。
 それをぶっ壊せ!と煽る。

 自分の人生が辛かったら、それは誰かのせい。または何かのせいなんだ。
 「国や地方の制度が悪い」「官僚や議会が既得権益を守るために非効率な制度を改革させないからだ」「自分たちよりも上の世代が既得権を手放さないからだ」

 だから、それを壊せ!

 小泉の郵政。橋下の二重行政や教育委員会
 そして、河村の行政や議会や増税

 郵政を民営化して、で、社会の何が変わったのか?

 怒りを掻き立てて改革を標榜し、人々の怒りのエネルギーを結集して破壊に向けるのは簡単だ。

 そして、こういった人々に共通する言葉がある。
 「〜の改革は待ったなしです」
 果たしてそうだろうか。
 そもそも「なぜ、待ったなし」であるのか。その説明を聞いたことがない。そして、ぶち壊して、作り直すに値するか否かの情報も充分には与えられていない。情報を充分に与えられていないまま、それでも判断を求められる。

 「待ったなし!」
 こういった類の言葉には気をつけたほうが良い。

 この度の大阪の選挙を見ると、大阪の人々は橋下に「何かかえてくれる」と期待している。名古屋の人々も「河村なら何かやってくれる」と期待する。
 しかし、この期待する中身については誰も知らない。(※3)

 漠然とした不安や不満を掻き立てられると、それを掻き立てている者ならばその不安や不満の種、原因を知っているのだろうと思ってしまう。そして、原因を知っているのなら解決策も知っているのだろうと考えてしまうのか。

 しかし、そもそもその不安や不満は、それぞれの各人の中にあるのであって、原因と名指された物も的外れなら、その解決策として打ち出された方策も、良くて「口からでまかせ」でしかない。

 この社会には、何故ソレがあるのか。既に誰にも判らなくなっているような「仕掛け」というものは無数に有る。そのような「仕掛け」の相互作用とバランスの中で社会は今の様にある。そういった広くて深い視野と人間理解、慎重な態度などがなければ、こういった「仕掛け」と「仕掛け」の関連性すら理解できないだろう。
 それを、「費用対効果」だとか「古臭い因習」というような乱雑な態度でぶち壊してしまったり、短期的な視点(※5)から否定してしまっては制度自体だけではなく、社会が成り立たなくなるのかもしれない。




※1:
田中康夫氏の「なんとなくクリスタル」はこのような商品と個人の間の問題を主題にしていた。自身のアイデンティティの喪失を商品のアイデンティティによって同定していく。こういった在り方が今では当たり前になっている「私ってヴィトンって言うよりも、ロエベって人じゃないですか」「私って原宿ストリート系の青文字系ですね」とかといった言説は、この傾向が今にも続いている事を表す。(というか、こんな台詞を聞くと回し蹴りを決めたくなるが)
 自己のアイデンティティを、これらの商品/商品群に求め、それらに囲まれる事でアイデンティティが確立するかのように幻想を抱く。しかし、実際はそれらの商品に自己が埋没するだけで、自身のアイデンティティはいよいよ希薄になるだけなのである。そうやって希薄になった自身のアイデンティティはより一層の不安を募らせ、さらに商品/商品群を購入するように仕向ける。このように空しい消費の自己運動が続くのである。

※2:
糸井重里はこういう消費を喚起するためのコピーライターである。彼はこういった不安、不満の究極の言葉として「命短し」を提案していた。
「命短し、今こそ○○」というように煽ればそれが究極の「売り言葉」になるのではないかと。

※3:
いったい誰が橋下の「大阪都構想」を説明できるのですか?「中京都」ってなんですか?
 私はこういった言葉を「マクガフィン」と喩えましたが、まったく間違っていない。
 逆に「大阪都構想」というような漠然としたナニカを振り回している橋下に求心力があって、減税という具体的な施策を打ち出した河村はその正体が露呈してしまっている。
 こういった呼び込み文句は具体性を持たせない方が良いということになる。
 そう、具体性、実体を持てば批判が当たる。
 実体が無い「大阪都」には批判も加えられない。

※4:
本文中で触れる隙間がなかったので補足しておくと。
 内田氏はマイケル・サンデルに懐疑的だそうだ。確かに立論の立て方や、その論法は彼等が批判するリバタリアンなどと同様の文法を使っている(これは、ロールズなども同じ)しかし、それはサンデルやロールズが、リバタリアン功利主義者の論法から、それらの功利主義が成立しない矛盾を導き出して、功利主義から共同体主義へと視点を変えさせる為とみなすことができるのではないだろうか。

※5:
放送中に有りましたが。「私企業は四半期(三ヶ月)程度の先しか考えない」というのはその通りです。企業は一日でも資金繰りがショートすればアウトなのですから、よほどの余裕がある企業以外は三ヶ月先で済んでいたなら幸せかもしれない。
 毎月の支払期日に頭を悩ませているのが今の経営者なのかもしれない。

 また、政治家は次の選挙の事程度しか考えていない。というのもそうかもしれない。
 そういった「次の選挙」を考える人々が「増税」の船から逃げ出していく。

 国民に負担を求める「増税」は難しい。「増税」を語って選挙に勝った政治家は居ない。
 だから「減税」を語って選挙を戦う事を「ポピュリズム」というのだ。