市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

「税とは何か」再考

 少し前のエントリーにコメントをいただいた。このコメント間のやり取りをきっかけに、「税とは何か」を再度考えてみたいと思う。
 今「名古屋の街は汚染されている」という人が居る。不幸な東北の震災と、その後の原子力発電所の事故を契機に、日本国中が「公共性」について再考している時に、遠く離れた名古屋の街が、浮かれたように「減税」を議論し、あたかも税が悪いものであるかのように、その負担から逃れようとしている。
 最大の不幸は、名古屋における圧倒的シェアを持っている新聞社(※1)が、この「まったく誤った」また「根本的に時代遅れ」の税議論から脱しない事にある。

 それが為に市政に対する市民の方向性を過っている。
 税に対する市民の認識を、低いままに留めている。(※2)

 この新聞社の記者には、ぜひ神野直彦氏の本でも読んでいただいて、税の本質論を捉えた常識的な記事を書いていただきたい。河村市政の「失われた4年」程度は直ぐにでも取り返せるだろうが、この間、名古屋市民に与えた誤解、誤った税のあり方という意識は、名古屋市民の公共性を毀損し、名古屋市の公共圏に深い傷を残すだろう。

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 そのコメントとはこれである。

 まず、ある人物が次のような投稿をした。

 税は経済弱者に負担にならなければ全て増税でいいと思います。神野直彦先生は「日本国民は貯蓄性向が高すぎる、1400兆円という個人資産に大きな税金をかけて政府が使ってやれば投資需要が増える」と言ってる。

 生産性のない貯蓄には富裕税をシッカリかけて国内消費をすべきだと、国が「鼠小僧治郎吉」をやればいいのですよ。金持ち増税は正しい、市場原理主義経済の間違いは今のアメリカを見れば納得です。


 これに対して次のような投稿がなされた。

 それではみんなが”平等に”貧乏になっていくと思いますよ。

金持ちがみんな正しいとは言えないかもしれないですが、努力して創意工夫を重ねて成功していく人からたくさんとって、仕事しない人に分配することがすばらしい社会だとは思えません。


 この投稿の中で私が取り上げたい違和感は3点となる。
1―1)(上のような貯蓄に対する課税は)みんなが”平等に”貧乏になっていく原因となるか。また、(1―2)「みんなが”平等に”貧乏になっていく」ことは否定されるべきことか。

2)「金持ちがみんな正しいとは言えないかもしれないですが」という言葉には、言下に「(正しいものには)課税をしてはいけない」=「課税をする対象は、課税されるだけの(正しくない)理由をもたなければならない」という課税に対する否定的なメンタリティはないか。

3)「成功していく人からたくさんとって、仕事しない人に分配することがすばらしい社会だとは思えません」という言葉は、所得の再分配を否定する言葉だが、これで正しいか。

 つまり、これらが、河村が振りまいた時代遅れの「粗野な新自由主義」の言説であり、中日新聞が意識もしないままに拡散させた「精神汚染」であるだろう。

 そんなに新自由主義で、市場経済が正しいと思うのであれば、行政など即座に解体してしまうが良い。河村は「市役所は赤字部門だ」と言い続けているが、本当にそう思うのであれば行政改革だとか、減税などと言うヌルい事をいっているのではなく、市役所自体を解体、解散し、全て市場競争に叩き込んでしまえばいいのだ。


 上の議論で(1―1)については私には回答は出せない。以前にも書いたように、私は経済理論は「昨日の事は説明できても、明日の事は何も語れない」と思っているので、貯蓄に対する課税が、今の日本の局面で経済を収縮させるのか拡大させるのかは判らない。
 ただ、(1―2)の問いかけには答えられる。もしも、それで「平等」が実現されるのであれば、「貧しく」とも成功だろう。
 逆を考えてみればいい。豊かであっても不平等な社会が良いといえるのだろうか。
 この件については後にたっぷりと論考する。(※3)

 (2)は河村が振りまいている害毒である。税は徴収される者が悪いことをしているから徴収されるのではない。税は能力によって負担する「応能主義」か、社会から受益を受けているものが負担する「応益主義」か、どちらにせよ先ず無条件で負担すべきものとしてある。
 それは、財産の私的所有を保障している市場社会における政府の捉え方とは矛盾している。税とは、私有財産から強制的に無償で貨幣を調達する制度である。
「政府収入の基軸は、依然として租税である。ところが租税の本質は、強制性と、租税債権者からの反対給付が存在しないという無償性にある。つまり、租税とは反対給付の請求権の無い、強制公債なのである」(「財政学」p.153 神野直彦

 河村の根底にある新自由主義の理論では、この無条件の強制性を説明もできないし、整合もできない。河村の理論を真摯に受け止めれば受け止めるほど、租税と言う制度自体に否定的な意見を醸成せざるを得なくなる。つまりそれは公共性の毀損でしかない。

 そういった暴論の一つに、河村は減税の逆進性に対して「納税者への敬意」という奇異な理論を持ち込んでいるが、取得した税を返すことで「敬意」を表すというのは誤っている。敬意を表すのであれば、そのような制度を作るなり、そもそも税に含まれている納税者に対する敬意を持って、「公費」として扱えばよい。
 そもそも税とは公債であり、反対給付が無いし、無くてよい。
 無いから受け取った国や地方公共団体は「公費」として一般の財貨よりも重く扱うのであろう。
 河村が言うように「敬意」をもって「返金」するのであれば、その「敬意」と「負担」という関係性自体を、受け取っている地方公共団体自体が否定し、その関係性を細めているに過ぎない。

 さて(3)の課題だ。「「成功していく人からたくさんとって、仕事しない人に分配すること」は間違っているだろうか。

 ここで、思考の補助線を引いてみたい。映画「乱」におけるラストシーンにこめられた黒澤明のメッセージという問題なのである。このラストシーンで黒澤はめしいた登場人物を高い城郭跡の石垣の、崖際に立たせる。市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を!-乱
 映画「乱」シェイクスピアの「リア王」に題材を求めた事は周知のことであろうと思うが、それを日本の戦国時代に移し、一代で一国を築いた「一文字秀虎(仲代達也)」が、人生の後半生で為した選択によって、悲劇的な結末を迎えるという物語である。(リア王自体がコモンセンスなんだろうから、これぐらいはネタバレになりませんよね)
 最後にめしいた登場人物が、このように危うい状態に放置されるというのは、人間というのは本質的に誰も一歩先のことなど予見できない。という黒澤のメッセージであろう。

 リア王/ 一文字秀虎の判断は、どこかで「間違い」があったのだろうか。
 罪を受けねばならないような「悪い事」をしたのであろうか。

 そもそも「盛者必衰、会者定離」とはこの世の定めであり、「勝っている者」も必ずいつかは負ける。これが新自由主義、原始的な資本主義、自由市場主義の見落としているところである。資本主義には必ず景気変動の波動は組み込まれているのであり、自由市場における競争というのはトーナメント制であれば、最終的な勝者は一人しかいない。更に、その競争が毎年、毎月、毎日、毎時間行われているとするならば、そこで勝ち続けられると思っている方が「おめでたい」としか言いようが無い。
 新自由主義であるとか自由競争を肯定する者には共通性がある。この勝負に負けたものはこの制度を肯定しない。「勝っている者」か、本質的には勝負に参加していない者だけがこの制度を肯定する。(ここで、「勝っている者」が明日も勝てるという保障はいったい何処にあるのか?私はニヤニヤしながら見ている)

 支持する者たちの属性が一定であるということは、属性に促されて社会の有り様を語っているに過ぎないのではないだろうか。

 つまりは、自分の都合の良いような社会の有り方を求めているという事でしかない。

 そして、もし負けたらどうするか。河村ならこうするらしい。

「『挫折したときは世の中が悪いと思え』とね。人生再挑戦のためには、社会も変えないかん。制度も変える必要があるんです」


 今は、自分が勝っているからこの勝負を続けよう、でも、負けがこんできたら別の勝負をしよう。と言っているに過ぎない。

市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を!-AfterGame
 社会の有り様を自分の都合で決める。これほど、わがままで、自己中心的な考え方は無い。こんな考え方を「幼稚」と言わずに、何を幼稚と言えば良いのか。

 こういった問題に対して、ロールズ「無知のヴェール」であるとか、「公正としての正義」とは何かといった議論が導かれてくる。そして、人間の社会は、それを前提として考えられなければならないだろうし、地方自治や税制もこれを立脚点にしなければならない。
 そうでなければ人間は耐えられない。

 ここで、先ほどの「豊かさ」と「平等」の議論を戻してみよう。

 そもそも「みんなが”平等に”貧乏になっていく」と言う考え方には曖昧さがあります。
 「平等」というのは絶対的な概念でしょうが、
 「貧乏」というのは絶対的な概念ではありません。

 「貧乏」も「豊かさ」も何かを基準において、それと比較して語っていることは間違いないでしょう。何と何を比較しているのでしょうか?時間的な縦の比較でしょうか。空間的な横の比較でしょうか。
 時間的な縦の比較として、「今の自分の生活よりも、明日の生活が貧しくなる」と言うのであれば、先に述べたように、自由競争こそ、この保障などしていない事に盲目的であると指摘できます。
 空間的な横の比較をするとしたならば、満足を得るためには、誰かの「貧しさ」を前提としなければならないということになります。そしてこれはお笑い種です。どうせ、日本人の大部分はアラブやドバイのお金持ちよりは「等しく貧しい」のですから。(※4)

 先ほど、税の配分原理として「応益主義」と「応能主義」があると言った。税によって賄われている警察力であるとか社会的インフラによって、誰しもが利益を受けている事は疑い得ないが、その受益を計測することは難しい。であるから、現在では「応能主義」が原則となっており、それぞれの租税の能力(担税力)によって税を負担する事となっている。(※5)

 さて、では「所得」とはいったい何だろうか。上記の投稿者は「努力して創意工夫を重ねて成功していく人」と言っているように、仕事にたいして努力して、創意工夫をする人がより多く得られるものだろうか。
 少しでも社会に出てみれば、こんな事が空論であることは直ぐに判る。努力をしても、今の収入を守ることはできるかもしれないが増やせる保障はどこにもない。コツコツ努力するのは増やすと言うよりも守るためではないだろうか。
 創意工夫をしても、やはりなかなか収入は増えはしない。仕事を効率よくこなしてみたり、間違いなく対応することによって、品質を上げ、顧客を掴み止めることができる程度ではないだろうか。
 それよりも、大資本が参入でもしてくればおしまいだ。
 大資本が一気に資本投入して、広告を打ち、プライスレースでもかけてきたら、ひとたまりもない。

 報酬などというものは、この人の努力や能力ではない。

 社会がその人とどの程度コミットしようとするかということでしかない。

 同じラーメン屋であっても、近所に「開店記念、100円セール、あ、でも100円は無理だから50円引き」とか調子の良いことを言って、プライスレースをかけてくるような同業者が現れれば大きな打撃を受けることは間違いが無い。

 サッカーの長友選手は相当な高額でヨーロッパのクラブチームに招かれたのでしょうが、日本にJリーグであるとか、サッカーの文化が無ければ彼の報酬は有り得たのでしょうか。

 報酬というのは、その人と社会との関係の中で生まれてくるものなのである。

この議論はまだ続けるかもしれない。
また、「利益を私物化し、損失を社会化する」という意見と、東京電力原子力発電所問題(私は、「福島の原子力発電所問題」と言う言葉を使わないようにしています)は強く関連していると思っている。伏線は張ったが、紙幅の都合上割愛した。



※1:新聞の活字を読むのは一部の人物かもしれないが、その報道姿勢が関連するローカルテレビ局などの報道の方向性に影響を与えているのは間違いが無い。

※2:税で集められた財が、経済循環から離れると言うような立論をする市長に批判を加えなければ「低い」と言うものだろう。
 あたかも、「税金と言うのは、税務署の職員が私してしまう」というかのうような議論は、小学生レベルの認識だ。

※3:「貧しきを憂えず、等しからざるを憂う」という言葉があるが、これはそもそも論語の言葉で「有國有家者、不患寡而患不均、不患貧而患不安、蓋均無貧、和無寡、安無傾」が原典になるだろう(李子第十六:ちなみに、儒教では「述べて作らず」であって、この言葉も「孔子の作った言葉」という解釈は間違い。ここでも先人の知恵(言葉)を弟子に諭すという形で引用している)
読み下すと。
「国を有(たも)ち家を有つ者は、
寡(すく)なきを患(うれ)えずして均(ひと)しからざるを患え、
貧しきを患えずして安からざるを患うと。

蓋(けだ)し均しければ貧しきこと無く、
和すれば寡なきこと無く、安ければ傾くこと無し」


※4:つまり、あなたはまだトーナメント戦の3戦目程度しか上っていないって事だ。

市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を!-COPS※5:ここでも「平等な負担」が必要だろう。そして「平等」とは誰しもが同じ金額を負担することだろうか、誰しもが所得に対して同じ比率で税を負担することだろうか。
 今、アメリカでは、労働所得に対しては15%から35%の課税がなされる(連邦税)が、キャピタルゲインについて5%から15%しか課税されない。
 有産階級とは、資産運用によって所得を得ている人々を言うのであって、それらの人々が資金運用で得る所得にはこのような課税しかされず、自らの体を動かして所得を得るものに対してより重く課税すると言う社会の有り方は正しいのだろうか。(左の写真は、「ウォールストリートを占拠せよ!」における参加者のプラカード。「NYPD(ニューヨーク市警)の警察官の給料は年間56000ドル程度なんだろ、ゴールドマン・サックスのCEOはそれを一日で稼ぐんだぜ」このアンバランスを是正するために、警察官にも運動に参加するように呼びかけている)