市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

あるべき政治の姿とは/安岡正篤の文章から

あるべき政治の姿とは/安岡正篤の文章から

 安岡正篤という名前を聞かれると身構える方も居るでしょう。ある人は「反動右翼の首魁」とみなすかもしれません。私の私見によれば安岡は和魂洋才といわれた明治の日本人が持ちえた知性の一つの結晶であり、陽明学者であるだけでなく、実に明確な人間観察者であったのだろうと思えるのです。(その最晩年に起きた事件も含めて、彼は彼自身の観察どおりに生ききったと思える)
 現在では様々な人々が彼の思想を伝えては居ますが、彼の文章自体は決して難しいものではありませんし、今日性を失っているとも思えません。ですので、是非興味をもたれた方は彼自身の著作に当たってみていただきたいと思います。

 そんな中で、昨今はすばらしい社会になりました、非常に貴重な資料に直接触れることもできます。

 国立公文書館デジタルアーカイブ憲法改正に関する諸資料>
「政体と日本天皇制(部外秘)」安岡正篤


( http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?KEYWORD=&LANG=jpn&BID=F0000000000000364847&ID=M0000000000000323855&NO= )


 昭和二十年十二月。敗戦を受けて、天皇を奉じた立憲君主制を模索した政府(外務省)がその論理構成を安岡に求めた文章のようです。終戦記念日に読むにはなかなかふさわしい文章のようにも思えます。

 色々と興味深い論述があるのですが、 page 9 とあらわされたファイル。本文では真ん中に「33」と記述がある見開きの3行目から一部引いてみたいと思います。

「英国の元首相ボールドウイン Baldwin は我々は他の国民より勝れて居るのではない。ただ我々はたまたま他の国民と違った経験を得た。それは問題の解決に当たって暴力では得られない事を永い経験の結果お互いの隔意ない協力の下に充分の討議を以て解決すると言ふ方法を選定したことである。従って政党は理論闘争をやって相排除するものではない。ある党が他の党を容れなくなったらもう憲政はお終いである。互いに礼を以て国家の為に民情を体して意見を交へる処にデモクラシーの意義があるのである」という引用があります。

 振り返って考えてみましょう。この名古屋で起きた、あのリコール運動の直前。本来の論点は「減税」と「地域委員会」であった筈だ。議会は提案に対して丁寧な説明を求めた。河村市長がその議会の当然ともいえる要求に応えた形跡はない。減税の財源についても乱暴な説明に終始していたわけだし、地域委員会についてはモデル実施の結論も出ていない状態であった。
 何も議会をリコールする必要があっただろうか。議員報酬であるとか定数などの議会改革が論点として必要であれば、それも充分に議を尽くすべきであろうし、何よりも自身が重要と定義する「減税」の実施が課題としてあるならば、その政策に専念すべきではないだろうか。なぜ、自身の重要課題が目の前にあるにも関わらず、新しい論点を持ち出す必要があるのだろうか。

 そして、こういった乱雑な態度は今にも続く。

 減税については財源の見通しもない9月の定例会で条例案を提出するとした。地域委員会についてはその検証も不十分だ。(何よりも、私はこの耳で中田教授から「検討の必要性がある」と聞いているんだからね)このように自身の政策が不十分なままで毎週末には何故か北海道に出かけられている。

 そして、中身の不明な「中京都構想」と来た。

 たぶん、「中京都」さえ実現できれば「楽市・楽座」や「住んでちょうよ名古屋」ももうどうでもええんでしょうね。これ一本で名古屋の産業は振興するし、待機児童は居なくなるし、児童虐待にもアトピー性皮膚炎や火傷にも効くんでしょう。

 まあ、冗談はほどほどにして。

 結局、「減税」も「地域委員会」も「議員報酬半減」も単なる思いつきか、良くて誰かのアイディアの盗用でしかなかった。そして、その論理的根拠も深くは考慮していないし、周囲にはイエスマンばかりで討議をする相手すら居ない。どの政策もこの政策も打ち出してみて市民から人気を得る事はできるけれどもそれも「流行歌謡」の如くにはかなく消えていく。時間が経てば経つほど、制度の無理や荒が見えてくる。
 であるので、一つ打ち出して人気にかげりが出れば、次の新曲を売り出すしかない。今の粗製乱造のアイドル歌手よろしく中身もなく歴史的意義も残せない思いつきが次から次に出てきては、この名古屋を混乱させるだけなんですよ。

 そして次の出番が「中京都」なんですよ。

 何回騙されれば気が付きますか?

 西洋の知恵、東洋の英知は「野党の必要性」を語ります。このように立脚点の異なる者同士がお互いの視座から、それぞれの主張を述べる事で政治の「盲点」が補完されます。

 こういった英知からすれば「議員の総入れ替え、現職入れたらなんともなりませんよ」という言葉が如何にファナティックで醜悪かがご理解いただけるでしょう。
 こんな言葉を恥ずかしげもなく町中に撒き散らした者を、いったいどうやったら信じることができるのか。私は逆にそれが知りたい。