市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

六韜より・政治の陥穽

 その昔、周の武王に太公望呂尚がこう語ったと言われている。「将たるもの兵士と寒暑、労苦、飢えを共にすべきである。兵士は何も好き好んで怪我をしたり死んでゆくのではない。将たるものが己とおなじ苦労を知っていると思うから、進んで危険に赴けるのである」(六韜 竜韜 励軍第二十三より)
 こういった考え方は、欧米にも広まり、その姿は映画「ワンス・アンド・フォーエバー」でも描かれている。


 今年の市会議員選挙の期間中。ある新人議員が居たと言う。新人であるので後援会組織も弱く、更に特殊事情として、その新人議員は地元の出身でもなかった為に知己も居らず、早朝の朝立ちに動員をかけるのも大変だったそうだ。その日は支援者の紹介で、2名の地元住民が付いてくれることとなった。とはいえ両名とも70歳を越えている男女で、寒い早朝から薄手の青いジャンバーを着てあれこれと選挙の朝立ちの支援は大変だった。
 やがて、朝立ちも無事に終えて3名は選挙事務所に戻ったという。組織基盤や地元基盤の弱い新人候補であるので、早朝の選挙事務所に3名を出迎える人員も居ない。早朝の選挙事務所は火の気もなくガランとしていたそうだ。空調を動かして、お茶を煎れて冷えた体を温めていたという。普通であれば、お茶菓子かおにぎり程度はおいてありそうなところだが、それもなく、動員された2名は空腹をお茶でごまかしていたという。
 すると、候補者が選挙事務所を出てすぐ近くのコンビニに向かって歩いていった。この両名は、何か軽いものでも食べさせてもらえると思っていたらしい。そして候補者がコンビニから帰ってくると、手にはコンビニの袋が、その中からおにぎりを取り出すと、食べ始めた。自分だけ。両名は呉とも言えず、ただただ自分だけ空腹を満たすこの候補者を眺めていたと言う。

 これが、減税日本ゴヤ現幹事長であらせられる田山宏之市議の、地元に流布している「伝説」である。(いえいえ、別に事の真偽を市政報告会でお伺いしようとは思いません、もっと実りある議論を期待いたします)


時 : 7月30日 午前10:30〜12:00
所 : 名古屋市生涯学習センター



7.30 ActAgainstKawamura!






 今、私の手元にある会合で使われたレジメがある。非常に今の問題を手際よく整理してあるので、少々の肉付けをして一部をご紹介してみたい。

 例えばこういった部分がある。「民意」についてのメモで「我々は本当に事実を知っているか」「我々は本当に事実を知りたいか」―特に政治においては、その技術的なこと、複雑な人間関係までは理解できない。したがって理解できることは漠然とした関係性に限られて、そんなものが事実を捉えているわけがない。更に、政治的バイアスによって、事実は歪んだまま受け止められる。
 「思考の経済とステレオタイプつまり、こういった複雑な実相を時間をかけて理解するよりも、自分に理解しやすい、自分の経験の実例に置き換えて考えてみる(政治、政権に絡む人物関係を歴史上の人物の関係に置き換えてみたり、自分の会社内の人事に置き換えてみたり)こうすることによって、人間は複雑な事を容易に理解していると思える。こういった効率化を「思考における経済性」「思考の経済」などと呼ぶ。そしてそこで使われる簡易図を「ステレオタイプ」と呼ぶ。勿論、的を射ている事もあるが、決定的なところで誤っている事もある。
 人間は自分の了解しているステレオタイプの通りに社会が動くように感じると、そこに「秩序」を感じるようになり、自身の社会理解、人間理解が正しいと感じることができる。つまりステレオタイプと秩序感覚」は相補的な関係を築く。
 しかし、この関係を詳細に切り分けてみると、実際には予想は少しずつずれており、その度にステレオタイプを修正する事によって自身の予想的中度が高いかのように装う事もある。
 つまり、このように「外」にある事実を積み重ねて「民意」というものは形成されるわけではなく、「内」に予め用意されているステレオタイプに重ね合わせて、「外」の事実が了解され、それによって「民意」が形成されていく。

 我々は事実を知るのではなく、事実と思いたい事を知るのだ。

 次に、幾つかのスケッチが描かれている。

 「政府に対する極端な不信」「極端な個人主義リバタリアン

 「減税運動=公共性への嫌悪」 ― 税の所得再配分機能は忘れられ、税があたかも「政府の奪ってゆく上納金」のように解釈し、政府を経由する「税による公共」へ猜疑心を向け、嫌悪感を感じる。これに対するに、個人の寄付による「自発的な」公共を信用する。

 「反議会、反政党運動」 ー 議会による間接的な民主制への懐疑、そしてそれらを構成する政党への懐疑。「政党運動は政党のお偉いさんたち自身の保身の為にある」「議会も議員さんたちの生活の為にある」という「ステレオタイプ」そして、その反動としての「擬似的直接性への希求」=住民の直接運動は正しい。

 「指導者待望=議論の省略と白紙委任上記のように制度的な間接民主主義が制度疲労を起こすと、必ず持ち上がってくるのが「指導者待望論」である。これは、ローマの頃からの歴史的傾向。まったく、人間というのは本質的には進歩していない?
 市民による直接制 ←→ 独裁的指導者 ←→ 寡頭制、賢人制

 「専門家に対するレイマン・コントロールへの期待。レイマン・コントロールとは、素人による判断。裁判制度における裁判員のように、専門家だけの判断だけを正しいとするのではなく、そこに一般の国民の意見を入れて、より「正しい」(社会にフィットした)判断を得ようという考え方。
 「専門家(官僚・職業政治家)不信と素人の暴走」 − 上記のように、レイマン・コントロールは一定の範囲で正しい、または「正しい」ものに近づくことができる。しかし、常に正しいわけでもなければ、全ての事柄に正しい判断を下せるわけでもない。

 そして非常に重大なスケッチに行き着く。

 「実体的政治(資源配分)」と「メタ政治(政治のルール設定)」― 以前のエントリーで私は「政治なんてのは早い話が奪い合いです」と書きました( http://ameblo.jp/ichi-nagoyajin/entry-10947848333.html )が、それをもうちょっと穏やかに表現すると「資源配分」と言えますし、それが「実体的政治」の問題です。ところがややもするとこの実体的政治「資源配分」を語るべき時に「メタ政治」「政治のルール設定」に話が行き着くことがあります。例えば、市議会で市長提案が否決されたのなら、その否決された理由を受けて、可決されるように変えてみるとか、原案を変える気がないのであれば、原案を主張する理由を更に説明すると言うのが、「実体的政治」の態度であると思いますが、それをせずに、直ぐに「議会との対立」「議会改革」を掲げるのは、完全に「メタ政治」の態度です。所謂「政局論」に踏み込もうとする態度がこれに当たります。

 ここでちょっと気になるのが山田まな市議のブログ記事です。7月20日の記事( http://yamadamana.exblog.jp/15143013/ )で「名東区の市民集会」の話題が取り上げられている。ここで、「市民公聴会」の提案をしています。こういった提案は良いのですが、それよりも当日語られた事柄の追及であるとか、何よりも今の市会が抱える「議会報告会の是非」のほうが「実体的政治」と言えないでしょうか。ここで新たに「市民公聴会」を提案するのは「政治のルール設定」に話がずれて、実体から視線がずれます。なんだか、以前にもこういった、目の前の課題が解決しないうちに、新しい提案を出してみるという行動をされたことがあって、これが行動傾向であればあまり良い事だとは思えません。


 こういう政治課題のすり替えは、よく起こります。そもそも「リコール署名運動」がこのすり替えの良い悪い例です。リコール署名運動の時に、それを訴えかける会場に幟旗が置かれていましたが、そこに書かれていた言葉は「減税」でした。

 あたかも「減税」を求めて「リコール署名」を集めているような運動であったと思います。実際に、署名を求める際に「減税の実現の為に署名してください」と訴えていましたね。しかし、地域住民が署名することで「減税」ができるのなら、何処ででもやれば良い。もっと言うと、河村市長は「減税論」の中で「消費税率4%へ」と訴えているが、そんなケチくさいことは言わずに「消費税全廃」を掲げて全国的に署名運動をすれば良い。なんなら「公債は借金じゃない」という論理をお持ちなんだから、所得税も全廃して、国の収入は全て国債で賄えば、さぞや経済も大きくなる事でしょう。(河村理論に従えばね)
 実際は、住民は「減税」を求めて「リコール署名」なんてできない。あそこで求めていたのは「市長提案の減税に反対する議会の解散」だった(もっと細かく言うと、減税にも反対してはいなかった、その比率が定率(お金持ち優遇、非納税者に恩恵がない制度)だったから反対していた議会に対して解散を求めた事になる)
 ここで一段階の「話のすり替え」が発生しているが。更にひどいのは「話のすり替え」がこれだけに留まらないのである。というのは、そもそも河村市長が減税を言い出したのは、減税をすることによって市の歳入が一定程度落ちる。(10%減税すれば、単純に10%歳入が落ちるわけではない)
 歳入が落ちれば、対策として、市債を発行するか(借金をするか)歳出を削るしかない。歳出を削るという事は、行政の無駄を省く事につながる、つまり、行政改革になるので、歳入を落とす。つまり、減税をする。これを「歳入キャップ制」というけれども、これを訴えていたはずだ。ところが、行政改革はいつの間にかどこかに話が飛んで、減税だけが残った。
 つまり、あの「リコール署名運動」は2段階にわたって「政治課題のすり替え」「話のすり替え」が行われていたということになる。

 以上のように、政府や官僚と言った専門家、政治家や議会と言った間接民主制に対して懐疑を持ち、それに対する国民や市民の直接請求や、レイマン・コントロールを無条件に正しいものとして受け入れ、ステレオタイプ純化して政治を理解し、その政治も実体的な課題からどんどんメタ的な政治を打ち出して話をすり替えてゆく。
 こうやって、単純な「敵」を作り出して、それを攻撃する事によって国民や市民の支持を得てゆくという姿を「ポピュリズム」という。

 気をつけなはれや。