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一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

箒で掃き出して海に沈めてやりたい


衰退している国は偶然衰退しているのではなく、衰退すべくして衰退している。

東京医科大学が入試試験において女性受験者の得点を操作し、男性受験者に有利な判定をしていたと伝えられている。
聞くところによると、東京医科大学ではアドミッション・ポリシーにない減点が行われていたために、今回の不正が顕在化できたが、他の大学で「面接重視」であるとか「評価の多様性」といったような、判定そのものの客観的正当性評価が難しい制度を導入している大学では、性別による差別が行われていたとしても問題視されない可能性もあり、私大医学部におけるこうした性差の問題は、東京医科大学だけの問題ではないとの指摘もあるそうだ。
まず、枝葉の議論として、大学のアドミッション・ポリシーの多様化とは何かという議論もある。
現在、少子化する社会において、逆に私塾産業は花盛りだ。どんな地方に行っても学習塾は存在し、夜遅くまで子どもたちが集まって勉強している。学歴や受験が重要なこととして扱われ、子どもにかける「教育投資」が重視されている結果だろう。学校における教育指導要領に準じた総花的な授業とは異なり、時には特定の学校の出題傾向にまで特化した私塾における授業には、「投資」するだけの効果があると考えられているのだろう。しかし、この「効果」とは何に対してのものなのだろうか。それは「教育」ではない、単なる「受験」に対する「効果」であり「学歴」取得に対する「効果」でしかない。

衰退している国は偶然衰退しているのではなく、衰退すべくして衰退している。

人間を形成するものは記憶であり知識だ。ヒトが、それぞれの個性を現す様々な発想にも、その根底には、既存のヒトの模倣や基盤となる知識が必ずある。それがなければ発想などというものは、歪んだ妄想や脆弱な思いつき程度にしかなれない。人格の発露ともいうべき発想の形成に必要な知識というものは、多様性が必要なのであって、一人の人間の中で混在する多様な記憶や知識の連関、創発が、豊かな発想を生み出し、人格ともいえる姿を形成する。
受験という一点に向けて特化された知識(受験テクニック)には、こうした創発の機会が乏しい(無いとは言わない)

特化、先鋭化した組織の先にあるものは、緩やかな死だけだ。衰退している国は偶然衰退しているのではなく、衰退すべくして衰退している。

そしてかわいそうな事に、こうやって「受験戦争」という選別にわが身を置いた子どもは、やがて、いかんともしがたい「壁」を感じることとなる。受験という特化したノウハウを「買う」事が出来るのであれば、その「投資」額によって効果は比例する。それは当然の市場原理の帰結だ。であれば、自分よりもより「投資」した者がより「効果」を納め、勝ちぬくことは予め予見可能である。そして受験競争において、勝者は一握りの者たちのためにあるのであって、残りの大多数の者は敗者にしかなれない。
つまりここにおいて、あからさまに「投資」額と「効果」の差。「金を持った奴の勝ち」という現実に突き当たる事になる。(いわゆる、「格差の固定化」「階級の世代間移転」を味わう事になる)

「受験」のさらにその先にある「学歴」においては、もっとあからさまな迂回路が用意されており、そこにおいては「公正な競争」すらない。いわゆる「学歴ロンダリング」がまかり通っても居る。(ありがたい事に、私は名古屋市会を注視することによって、この具体的で先鋭的な事例に出会えた。碌に論理学も理解できなくても、東大大学院生となれるのだ!ビックリだ)

こうした信憑性に乏しい「学歴」や「肩書」に今の社会は左右され、結果としてきわめてあやふやな議論がまかり通り、怪しげな結論、決定がなされている。

その一例として、竹中平蔵が挙げられるだろう。「経済学者」としての実績は乏しく、非常に信憑性が低い(基本的な計量経済学について、理解していないのではないかという発言すらある)そして、そのキャリアパスにおいても怪しげな部分が見られる。(処女論文について、剽窃が疑われたり、母校一橋大学における博士号審査に落ちてみたり)挙句の果てに「wikipedia」では次のように述べられているようだ。

日本の経済成長に対して、多くの提言を行っているが、実際に彼の主張によって日本経済が回復した事実はない。

竹中平蔵 - Wikipedia

日本経済を回復させられない「経済学者」
患者を助けられない、医者。家を建てられない、大工。

つまり、プロではない。竹中平蔵キャリアパスには一橋大学や慶応大学が含まれるのだろうが、そうした環境から、「プロの経済学者」が生まれなかったのだとすれば、その大学教育は失敗であるという事だろう。

衰退している国は偶然衰退しているのではなく、衰退すべくして衰退している。

受験はヒトを選別することはできない。それだけではヒトを選別することができないのであるから、私は本来大学など「全入」させればいいと思っている。その代わり卒業選別は厳しくすればいい。大学に「入った」ことを示す「学歴」など何の意味もない(「○○大学中退」という「学歴」など意味がないと思っているが、昨今では、そこそこ意味を持つそうだ)しかし、大学全入を受け入れるほどの環境が整わない。その為に選別を行うのであるとすれば、その基準は入試の得点のみによるべきだろう。恣意的なアドミッション・ポリシーによる選別は、当初思われているように多様性など生み出さない。そこで評価される価値観は、現在、その大学を構成する者たちが認める価値観なのであって、それを次世代の構成員に押し付け再生産するだけなら、その価値観は大学という社会を多様性に乏しい環境に落とし込む。結果として多様性に欠ける組織は緩やかな死を迎える以外ない。

以前、このブログでも述べたが、私は「大学」という存在は、社会の為の機関ではないと思っている。
もう少し正確に言うと、大学とは「今日の社会」を補強する存在であってはならない。
明日の社会を形成する、そのリーダーを生み出すのが「大学」の機能であって、リベラル・アーツとは、「明日の社会を形成するために、今日の社会を破壊する」謂いでなければならない。ところが現在、日本という社会おいて、大学に求められている機能は、「企業における即戦力の人材育成」であるとか「産業と連携して貢献できる研究」というようなものであり、「現在の社会」を踏み越える事はマイナスとされる。こんな環境で、社会を変革するダイナミズムなど生まれないし、社会は徐々にその境界線を縮小していく以外になくなっていく。つまり、特化、先鋭化した組織の先にあるものは、緩やかな死だけであり、衰退している国は偶然衰退しているのではなく、衰退すべくして衰退しているのだ。

東京医科大学の例を言えば、私立医大とは、すなわち付属病院と連携して医療サービスを提供している企業と捉える事が出来、経営者はその企業構成員に対してより効率的な働き方を求める。その論理的帰結が男性受験生の優遇であり、女性求職者の排除なのだろう。それは、医療の労働現場が過酷であり、女性医師(女性労働者)の「婚姻離職」や「産休」が、会社としての東京医科大学の「生産性」を減速させる要因と捉えられているという事だ。

こうした「生産性」を求める企業は東京医科大学だけではないだろう。日本の社会においては平均的に見られる風景であるように思える。そもそも企業というのは「生産性」を求めるべきなのだろうか?それが至上命題なのだろうか?

私には違うように思えてならない。

企業運営において「生産性の向上」をターゲットとして組織を構築しようとすれば、その為の大前提は何か?
それが忘れられている。

企業を効率化して「生産性を向上」させようとすれば、その大前提は「今の社会の姿」を正確に知る必要がある。「今の社会の姿」を正確に理解し、それに企業の姿をより高くフィットするよう再構築することが、企業を効率化して高い生産性をもたらすということになるだろう。

しかし、こうして高度にオプチマイズされた組織は脆弱だ。
社会の環境変化に耐える事が出来ない。

「明日」莫大な収益を上げる事業は「今日」においては研究開発費を食うだけのお荷物かもしれない。

そもそも企業は「生産性」を上げるためにあるのではない。個別な効率化、生産性の向上を否定しているのではない、企業の目標として、このような小項目を挙げる事が誤りであると考える。企業の目的を「生産性の向上」であるというとすれば、それは山に登ろうとする時に、道順も無視して足元だけに集中して「一歩一歩、着実に歩け」と言っているように聞こえる。「一歩一歩、着実に歩け」と言われれば聞こえはいいが、ルートも無視した「着実な一歩」は遭難に向けての「着実な一歩」でしかない。

企業が目指すものは「収益」である。

企業とは、ヒト、モノ、カネという経営リソースを使って、収益を上げる装置であって、「生産性」とはその部分的な一つの指標でしかない。

企業とは「業(なりわい)を企(くわだてる)」ことであって、構成するヒト、とモノの所有者、カネの出資者が生きていける事が目的である筈だ。

ここまで考えてみると、「企業が<今の社会>に特化して、効率化し、社会情勢が変化して存続が叶わないのであれば、その企業が潰れ、別の企業に移行していくだけでデヴィッド・リカードの言うような『比較優位論』は成立するのであって、社会は高い効率のまま推移するのではないか?」という反論を受けそうだ。

自由貿易を論理的に裏付けるリカードの「比較優位論」は誤って理解されている。比較優位論が成立するためにはその「コスト」ともいうべき産業調整のコストはゼロと考えなければならないし、完全雇用状態が続かなければならない。空想的で非現実的な前提に立たなければ比較優位論は成立せず、自由貿易の優位も立証できない。そして現実には、自由貿易は様々な問題を引き起こす。

社会が全体として、企業を選別してまでその生産効率を追求しようとすると、企業は存続期間を短くするだろう。
つまり、雇用は不安定となる。そして、現に今の日本の社会は、企業の平均存続期間は短く、非正規雇用などの制度改革によって「柔軟」になった雇用はより一層不安定となっている。こうして社会全体で「生産性」を求め続けた結果が、何を生みだしたかといえば。

「失われた人口ピラミッドの3つめの山」だろう。(生みだしたというよりも、生みださなかった事を生みだした)

少子高齢化は文化の変化ではない。若者の生き方が変わったためでも、ましてやLGBTの存在というような問題ではない。20代の若者にとって、5年先の自分の就労状態が想像できないのであれば、どうやって婚姻し、家庭を持ち、子どもを産み、育てるという事が出来るだろう。子どもを産み育てるための、10年から20年にわたる経済的安定と、その経済的安定をもたらす雇用の安定、社会保障がなければヒトは安心して子どもを産み育てようとはしない。できない。

ここで「失われた人口ピラミッドの3つめの山」の原因は「女性の社会進出にある」という反論がありそうだ。

そこで、東京医科大学の話に戻る。

医療の現場で医者の労働条件は過酷だそうだ。医師は常に不足し、過重労働で賄っているとも聞く。
こうした中に女性が入ってきて「婚姻による離職」や「産休」を取られたら、その穴をどう埋めるのか?そのためにも、そうした不安の無い男性を採用するというのだ。ここに論理の飛躍、欠落がないだろうか?

そもそも医者の過重労働と、その絶対数の不足が問題なのではないのだろうか?
医療現場の人員配置というものは、ほとんど国の制度によって設計されているのではないのだろうか?医療設備、入院用の部屋の広さやベットの仕様、看護士の配置や設備の条件、さらに医師の人数も、保険適用に叶うように配置されているように仄聞する。つまりは、医師の過重労働も絶対数の不足も、その原因は制度設計にあるのであって、なぜそこまで制度が過酷なのかといえば、ここでも「効率化」や「生産性」が求められているからではないのだろうか?

そこに居る人間よりも、制度や数字自体が自動運動してしまっているのではないのだろうか?

結局のところ、「国の借金」を錦の御旗に掲げる、財政均衡論者が、まわりまわって今回の問題の真犯人という事になりそうだ。

・・・財政均衡論者

もう、日本中の財政均衡論者を箒で掃き出して海に沈めてやりたい。

「子どもにツケをまわさない」とはよくも言ったものだ。
彼等の思い込み、または有資産階級であるなら、その資産を守るために、国そのものを亡おうとしている。
それが「財政均衡論者」だ。

財政の為に国民が居ると思っているのだろう。

なんだかなぁ、加藤寛竹中平蔵高橋洋一、そしてちょっと毛色は違うが池田信夫
見事なまでに正解の逆を張ってくれる。彼らが「ハン」と言ったら「チョウ」に張って置けば倉が建つ。


小泉・竹中構造改革以降、この国は「構造改革」を続けてきた。
財政均衡論を掲げ、その「健全化」を企図してきた。その結果がこの「失われた20年」だ。

「改革派」というのは始末に負えない。

改革真理教の教徒から見ると、日本の苦境は改革のせいではないと映るようだ。
苦境を脱するための改革が、苦境の原因であるわけがなく、その苦境の原因は改革が充分でないからという事になるようだ。

もっともっと一所懸命改革し、子どもも生まない、女性は社会に進出し(しかし受け入れず)、格差は拡大させ、若者は明日に希望を亡くし、100円で買えるアルコール9%の飲料に浸り、国は観光を産業の軸に据え(観光産業が国の軸になっているとすれば、その国はたいてい、貧しい国であるという事実に気が付かない)ヒトの生き辛さなど耳を貸さず、もっともっと改革すれば、改革の神が「均衡財政」「財政の黒字化」という「ヴァルハラ」を示してくださるのだ。V8!V8!

呆れかえる、こんなものは狂気だ。

政治の文脈において、なにか一つの事柄が成立すれば、バラ色の社会が訪れるなどというのは、必ず誤りであって、そういった扇動者の言葉は信じてはいけない。
民衆による国王の放逐、
植民地の独立、
民族の自決、

地方自治体の中央政府からの独立、
減税政策?

こんなものは、すべて「毛ばり(C渡辺美智雄)」にすぎない。

なんでも、大阪市で学力テストの結果が、2年連続で全国最下位となったらしい。
大阪維新の会は、この学力テストの向上のために、教師の評価基準に口を出し、民間から校長をひきいれ、私塾のバウチャーをバラまいたのではないのか?
それでいて、結果がま逆となったのであれば、自分たちが進んでいた道順が間違いだと気がついてもいいのではないのだろうか?(まあ、間違った道を進む集団のリーダーというのは、おのれの過ちに気が付かないものだ。私は、暑い夏の日には映画「八甲田山」を見るが(今年はすでに2回見た)あの過ちは今でも日本社会のあちこちに散在している)


衰退している国は偶然衰退しているのではなく、衰退すべくして衰退している。


財政均衡論者が道を指し示してくれる。
彼らが行こうとする方向の逆に行けば、まだ希望は有るかもしれない。

公務員の給与を削減し、無駄を省け! → トマ・ピケティも指摘するように、公務員給与の引き上げは、国内における可処分所得の上昇を意味し、流動性の向上に有効に効く。国家支出は無駄な支出ではなく、国内産業の売り上げの原資だ。

法人税を下げ企業の海外流出を止めろ! → 法人税率の上昇は、課税対象利益の圧縮というインセンティブを生む、法人税率を上げれば企業はうかうかと利益を計上できず、その利益を投資や人件費に回す。投資や人件費が高まるという事は、ほとんど直接消費の拡大を意味する。
逆に、ここまで財政出動し、日銀が過剰流動性を上げているにもかかわらず、GDPが上昇しない理由は、企業において、法人税率の引き下げが、課税対象利益を圧縮するインセンティブを損ない、結果として、純益や配当金を上昇させる結果となっているからだ。本来、ヒト、モノ、カネを再投資して、さらなる収益を上げるべき企業にカネが滞留しているという事は(そして、滞留した資金の使途を経営者が思いつかないとすれば)それは経営者の無能を意味する。

日本はまるで畳の下にカネをため込んで死んでしまう老人になってしまったのか?

人口ピラミッドに示された「失われた第3の山」は本来であれば結婚し、家庭を持ち、子どもを産み育てていた若者。がそうした生活をおくれていないという事になる。竹中平蔵はこうした若者の生活を破壊し、彼らをワンルームマンションに追いやり、孤独な生活を強い、明日をも知れない登録派遣の仕事で追いたてて「生産性」を求め、疲れ果てさせ、老いさせていく。そこで失われたものは何なのだろうか?

それは「人口」などという統計の言葉ではない。人間が本来追求し、手にすることのできる「幸福」そのものではないのだろうか?若者が好きな人と出会い、婚姻し、家庭を持ち、子どもを生み、育てる。そうした人々の当たり前の「幸福」を踏みにじっているのは財政均衡論者であり、「生産性」を至上命題と思っているバカどもだ。

真っ当な議論もなく教条的に財政均衡論を言いたてる狂信者。私が箒で掃き出して海に沈めてやりたい。というのは、非常に抑制の効いた言葉だと思うのだが間違っているだろうか。