二つの事だけを言いたい。
その前に状況をご説明しよう。
本日、名古屋市会、議会運営委員会理事会が開かれた。
減税日本ナゴヤの鈴木幹事長が辞任したことを受けて、後任の幹事長について減税日本ナゴヤから報告を受け、新たに理事として受け入れるという理事会だ。
しかし、先週末に鈴木幹事長が辞任すると決まった直後に、すでに次期幹事長として「湯川市議」の名前が出ていた。
酷い事に他会派や議会に正式に発表する前にマスコミの質問に答えてしまったらしく、議会や他会派はマスコミから、減税日本ナゴヤの次期幹事長が湯川市議であるらしいことを聞く事になってしまった。
一般に、幹事長と言うのは党や会派の実務的な運営を司り、他会派との交渉も幹事長な主な職責となるようだ。
他会派との交渉をする正式な場が議会運営委員会であったりその理事会となる。
なので各会派の幹事長は理事として理事会を構成することは当然の事となる。
他会派との交渉を司る以上、幹事長となるものは他会派からも信用をされなければならない。幹事長となった者の発言が二転三転したり、一貫性がなかったり、その発言に信用を置けなければ交渉など成立しない。
湯川市議はこの11月定例会で問責決議を受けている。
その理由は自ら常任員会の委員長として発議方を行った案件について、その発議を拒み、その理由について質す他会派に対して納得いく説明をしなかったからに他ならない。
ここで大切なことは、この発議に関わる内容は関係がないという事だ。
もし、その内容について、湯川市議がどうしても「決議すべきでない」と思うのであれば、発議方をする必要はなかった。さらに言うなら、いくら委員会採決の動議が提出されても、採決すべきでなかった。
動議が出された段階で、その動議を拒み、採決できないのであれば、そこで委員長を降りるしかなかった。また、委員会で採決されたものについて、自身、発議することがよくないと思うのであれば、そこに政治信条があるのであれば、発議をする前に委員長を降りるなり発議方そのものを拒めばよかった。
自ら委員長として、採決をし、発議方まで行っておいて、今になって発議しないという事は発言に一貫性がない。
湯川市議の弁明を聞くと、さも採決動議が強硬に出されたように語っているが、それを受けて採決をしたのは他の誰でもない湯川市議本人なのであって、そんなものが強要とは言えない。
あの時、委員長として採決がどういう意味を持つのか、発議方という行為が何を指すのか。正直、湯川市議は知らなかったのではないのか?
「私はその時、それがどういう意味を持つのか知りませんでした」というのも言い訳にはならない。
これは例えれば、運転免許は取ったけれど、この標識の意味は知りませんでした。私は標識の意味を知らなかったので交通違反を犯してしまいましたが、知らなかっただけで違反を犯そうという意思があったわけではありません。
と言っているに等しくないだろうか?
免許証を持って車を運転するからには、道路交通法の教則を真面目に聞いていようと教科の時間を寝ていようと、その交通法規を知っていようと知っていまいと、結果について責任を取らなければならないのは当然だ。
議員バッチを付けて、さらに自分から望んで委員長の座に座ったからには、委員長が採決するとは何を意味するのか、発議方とは何かを知らなかったでは済まされない。
採決し、発議方まで行って、他の会派、事務方などの他人を動かしたのだ。
今更、「政治信条である」などと発議を拒まれては、この動いた他の会派の人々や事務方の職員はどうなるのか?
言動に一貫性が必要であるとはこの事を言っているのだ。
今後も、湯川市議や減税日本ナゴヤの皆さんは、「自分たちは知らなかったのだから教えなかった他会派が悪い、事務方が悪い」とでも言うつもりなのだろうか?
誰もあなた方に市議になってくれとか、委員長になってくれとか、そして今回でも幹事長になってくれなどとは頼んでいない。
市議とは何か、その責任とは何か。
委員長とは何か、その責任とは何か。
幹事長とは何か、その責任とは何か。
それが判らなければその座に座るべきではない。
こんな無責任な話があるか。
車を運転するという事は、運転免許証を取得できる年齢になって、車を購入できるだけの経済的余裕、運転免許を取得できるだけの経済的余裕があれば取得していいというものではない。車を運転するとは、時として他人の生命をも奪う危険性について認識し、その責任の下で運転席に座るべきなのだ。
その自覚なく運転席に座るべきではない。
責任の自覚もなく、そしてその責任を知ろうともしないまま、その座に座ろうというのは、あまりに無責任ではないだろうか?
今回、議会は湯川市議に、委員長として採決をし、発議方まで行った案件について、発議をしない、さらにその理由を説明しない。という事、一貫性の無さに対して問責決議を行った。
その発議の中身は減税日本ナゴヤの反対する事であったのだが、それは問題ではない。
ここをごちゃぜにしてはいけない。
その中身について、問題があるのであれば、それを釈明する場はいくらでも与えられていたはずであるし、そもそも採決に至る間にも幾らでも手は打てたはずだ。
更に、決議自体をよく読めば、その対象が市議会の中にとどまっている、非常に限定されたものであることは判る。そして、それも減税日本が常々説明してきたこと(受任者名簿の管理主体はネットワーク河村であって、市議ではない事)と矛盾しない。
形を変えて同じことを言っているに過ぎない。
それを拡大解釈して(というよりも、単に誤読して)
いたずらに対立を装っているに過ぎない。
決議自体に反対する姿勢が一貫性がない。
そして、それを取り扱う手続きに一貫性がない。
減税日本ナゴヤの市議は皆、もう一度湯川市議が問責を受けた理由を考えてみる事だ。
それは故ない事だろうか。
単に理解が歪んでいるだけなのではないか?
そして、その歪みは酷い責任放棄を伴ってはいないか?
こんな責任放棄をする人間を、自分では交渉の対象とすることができるだろうか?
自らの姿を顧みて判断してほしい。
これは先ず一点。
次は、鈴木幹事長の辞任と湯川市議の次期幹事長については先週末に決まっていたようだ。
賛成の市議も反対の市議も。
では、この週末にいったい何をしていたのか?
結局、党内議論も、党内での民主的な決定も行われていないだろう。
その為に、本日も理事会が午後1時半に開催されてから、暫時休憩をとって持ち帰り、結局、減税日本ナゴヤの会派内の話し合いを待つこととなる。
そして、それが見通しも立たないまま午後9時を過ぎ、明日へと持ち越しになる。
減税日本ナゴヤなり、減税日本が憲法を持ち出すほど政治信念をもって湯川市議の問責決議を拒絶し、幹事長に据えようというのであれば、この月曜に何が起こるかぐらい想像がつきそうなものだろうし、それに対して対応を決めるべきだろう。
結局、ここでも自分たちの行動の意味も分からないまま、場当たり的にいい加減な行動をとっている。
議員の職とは何か。
政治家とは何を為す者か。
折衝ではないのか?
自分や自分を推戴する人々の付託を受けて。
その政治的主張の実現を模索するのが議員であり、政治家の本文ではないのか?
議員バッチを付けて、「あれをしろ、これをしろ」と指図をすれば、人が動くとでも思っていたら大きな勘違いだ。
人を説得するのは、議員バッチなどではない。
それを付託した多くの市民の信託と言う重みだ。
そして、その重みを自覚する議員本人の責任ある、重みある言動だ。
ここで問責決議の意味も考えることなく、脊髄反射の如く拒絶し、
無責任に湯川幹事長をゴリ押しするのでは折衝ではない。説得力など生まれるわけがない。
もし、本当に湯川市議を幹事長に据えたいのであれば、その説得力のある理由を述べてみよ。そしてその理論をなぜ、この週末に他会派へ「折衝」しなかったのか。
説得力ある立論も立てられず、さらに折衝の労も取らないまま、得手勝手な論理を振り回してみても、それは子どもがおもちゃ屋の店先で駄々をこねているにすぎない。
その姿を自覚してほしい。