湯川漢字幹事長の誕生だ。
幹事長というのは独立した党や会派の中での役職なので、その評価基準は党や会派が独自に定められればいい。
しかし、減税日本の評価基準というのはいったいどういったものなのだろうか?
「正気の沙汰ではない」とまでは言わないが、「常識を逸脱している」とは思う。
先の11月定例会において、湯川市議は「(名古屋市会として戦後初の)議員に対する問責決議」を受けている。
あれだけ問題になった河合市議や中村孝道市議、黒川市議に対しても、議会としての「問責」は出ていない。これらの減税日本市議の問題は、直接的には議会の中での話ではないからだ。
しかし、湯川市議は議会の秩序自体を乱している。
他会派、他の議員にどれほどの迷惑をかけているか認識していないのだろう。
(それでいて「自分が署名しなくても「(受任者名簿を目的外使用しないことを確認する)決議」は、本会議に発議されているのだから問題はなかった。などと子どもじみた無責任な発言をするに至っては、社会人としての常識を疑う)
この湯川市議は総務環境委員会の委員長として不信任を突きつけられて解任されています。
ここでも彼が減税日本ナゴヤだから解任されたという事は言えないだろう。
その前の委員長はやはり減税日本ナゴヤの大村市議だったわけで、大村市議なら勤まって、湯川市議では務まらなかった理由があったという事だ。
市会9月定例会 - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0
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特に、2012年9月に起きた「動画の公開中止を求める要請」に関して、副委員長の了承を得ずに名前を記載した件については、なんとなく今回の「発議」の問題にも似ている。
漠然とだが、湯川市議は自分が何が判っていないか判っていないのではないかと思える。
「ちゃんと判っていますよ」という言葉には、前提がある。正確には「(自分が判っている範囲は)ちゃんと判っていますよ」という意味だろう。人間、どうしたって自分が判っていないことに関しては知りうることができない。こうしたことを「無知の知」ともいうのだろう。モノを知れば知るほど不安になる。モノを知れば知るほど、その先に広大な無知の領域が広がっていることが「判る」からだ。ところがモノを知らない者にはこの不安はない。彼にはこの広大な無知の領域すら知ることができないからだ。彼は自分の判っている範囲(敢えて「小さい範囲」とは言わないが、運命的に限定された領域)の中で「ちゃんと判っていますよ」と胸を張って生きていける。
なんともうらやましい限りだ。
今回の湯川市議に対する問責決議も彼が減税日本ナゴヤに居たからではない。
委員長として採決し、発議方まで要請した決議に関して、今になって自身での発議を拒むという一貫しない行動に反省を求めているのだ。
この一貫性のない行動は、このように委員長になった直後の「ノルマンディー上陸作戦」から続いている。
表で委員長として何を言われ、何をされても、裏でこのように偏った事をされていて平気で居られては、委員長としての信を置くことができない。
そして、そういった裏表のある姿を指摘されているにも関わらず、それに対して反省をすることもなく、自論を押し通す、いや、我を通そうとするのであれば、議論もできない。
今回、発議をされないことについて、議会運営員会理事会において、その理由をうかがう場を設けたと聞いている。
ちゃんと釈明の場を設け、その理由を聞いているのだ。
その場で皆を説得できるだけの理由を述べることができれば、発議を強要するようなこともないし、問責もなかっただろう。
ところが湯川市議はこの場でも「自らの政治信条として発議に署名はできない」「受任者名簿を選挙に利用する事は目的外使用ではない」というような二つの事しか言われなかったそうだ。
政治信条の問題があるのであれば「発議方」を止めて、委員長を降りればよかった、降りる以外になかった。
自らの釈明に述べたように「採決」の動議がかけられても、自らの政治信条として採択する事が出来ないのであれば、採決の前に委員長を降りるなり、採決後に委員長を降りればよかった。それしか道はないではないか。
採決はしている、発議方まで行って、今になって発議の署名は「政治信条として断る」では、何を言っているのか理解できる人間はいないだろう。私も理解できない。(湯川市議は「ちゃんと判っている」のだろう。うらやましい)
この湯川市議への問責は憲法違反でもなんでもない。
議会は様々な意見、価値観を持つ人々が、様々な議論を行うことによって、民主的な推論を進める場だ。その場では言論によって推論を進め、より大勢の人の大きな幸福を追求する選択が行われる。
言論とは単なる言葉だ。単なる言葉の羅列に過ぎない言論に、実体的な力、法的な拘束力、財政的な実行根拠を与えるのが議会だ。そして、その力の源泉は単なる言葉の羅列の裏に、それを信ずるに足る根拠と説得力があるからだ。
「正しい経済理論」と言うからには、その「正しさ」の根拠を示さなければならない。
根拠も示せない「正しさ」など、単なる空論、妄想に過ぎない。
この湯川市議に対する問責が憲法違反であるというのであれば、その根拠を示せなければならない。
一人の人物が、委員長として採決し、発議方をした事柄に対して、発議書への署名を拒むというチグハグな行動も、憲法に許されているのだとする立論を立てられるものなら立ててみろ!
それは「自由」ではない。
単なる「放縦」である。
様々な職責を持った者が得手勝手な行動をとって社会が成立するか?
交差点の真ん中に立った警察官が、「表現の自由」を楯に、意味不明の手信号を送って社会が成り立つだろうか。
(なんだか、小学生に説明している気分になってきた)
湯川市議は委員長としての自覚に欠け(というか、そもそも委員長とは何かすら理解しないまま)委員長の座に座り、採決し、発議した。
そして発議書への署名を(ひょっとすると、これもなぜ、署名してはいけないのか理由が判らないまま)拒んだ。
この一貫性の無さ、無責任さに議会全体(減税日本を除く)が、反省を求めたのが「問責」である。
さて、そしてその直後に。
減税日本ナゴヤは、その湯川市議を漢字幹事長に据えると言ってきている。
通常、各会派の幹事長は議会運営委員会の理事となって、議会の運営に当たる。
しかし、問責を受け、議会から反省を求めている議員を即座に理事として受け入れることができるのだろうか?
何せ議員に対する問責自体、名古屋市会としては戦後初だそうだから、前例に倣うわけにもいかない。
ただ、問責を与えた議員を、その直後に議運の理事に迎えるという事は、議運の理事とは何かという事にも関わり、問責決議の重みにも関わる事となる。
とても議会運営委員会、他会派は受け入れることはできないだろう。
幹事長と言うのは会派内で定められればいい。
しかし、幹事長と言うのは他会派と様々な折衝をする立場になる。
つまり、他会派から信用されている人物でなければ務まらない。
幹事長の発言を一々疑っていては話が進まないのだから。
湯川市議に対して全議会が「あなたの言動には一貫性がなくて信用を置け無いのだから反省してください」と問責をしたのだ。
そんな人物を選りによって選択する「減税日本ナゴヤ」とはなんだろうか?
・・・・ケンカ売っている?