市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

想像力と寛容の条件

 大津市で発生した「いじめ自殺問題」で、共存可能な社会の在り方についての議論が起こっている。このテーマは地方自治や地域行政にも関わるテーマであるので、この「いじめ自殺問題」を契機に名古屋の市政や行政の事を考えると、どうしても行き着くのは河村市政への批判と言う事になってしまう。

 つまり、「いじめ自殺問題」という痛ましい事例を取上げつつ、自論である河村市政への批判に牽強付会するようでためらわれた。しかし、ある事をきっかけにどうしても一言言っておきたくなったのでまとめてみた。

 そのきっかけとはある人物が次の内田樹氏のツイートをリツイート(引用・紹介)した事による。

 現実の日本の政治に対する原理的な批判がありうるとすれば、「みんなで力をあわせて、こういう国を作りましょう」という前向きな、包容力のある提案をなすことでしょう。でも、そのためには想像力と寛容が不可欠です。その二つがたぶん今の僕たちに最も足りないものです。

内田樹 @levinassien 2012年7月24日 - 15:34

内田樹 on Twitter: "現実の日本の政治に対する原理的な批判がありうるとすれば、「みんなで力をあわせて、こういう国を作りましょう」という前向きな、包容力のある提案をなすことでしょう。でも、そのためには想像力と寛容が不可欠です。その二つがたぶん今の僕たちに最も足りないものです。"

 このツイートが「いじめ自殺問題」に対してだけ述べられたものではないだろう事は承知しているが、「いじめ自殺問題」に対する解決の糸口が、この考え方にあるだろうとは思われる。

 そもそも「いじめ」というのは現代社会の問題だけとは思えない。

 生物には「アルビノ(白化固体)」という存在があり、群れて生活する種において、このような固体に対する「いじめ」のような行動が報告されている。生物にとって「異物」に対する反発は原始的で根源的なものなのかもしれない。

 人間にもこのような傾向は見られる。民族差別や人種差別はその一例だろう。

 このような原始的、動物的な妄想を乗り越えて、人間が真に理性的であり、共存可能な社会を形成する為には、内田氏の先の言葉の様に「想像力と寛容が不可欠」であり、更に真実に向き合う謙虚な姿勢が必要となる。

 (そもそも「民族」なる概念もせいぜい19世紀の人工的な産物であって、特に中国や朝鮮半島に住む人々と、日本人(日本という国にたまたま国籍を持つ人々)を有為に分けるナニカがあるなどとは考えられない。単なる思い込みに縛られているだけだ。)


 「異物」に対して「寛容」であろうとすれば、その「異物」とされた人や人々に対する「想像力」が必要となる。その人や人々の立場に立って考えてみるという想像力が「寛容」の入り口となる。「寛容」であれば、相互理解と行為に対する「節度」が生まれる。


 この原理をロールズは「無知のヴェール/無知のベール」と表現しており、それについては既に当ブログでも述べた。

 無知のヴェール - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

 複数の個人が彼らで構成する社会を作ろうとする。その社会におけるルールや規範を合議で決めようとする時に、次のような仮定を置く。

 このルールや規範は普遍的で誰にとっても受け入れられるものでなければ、この社会は成り立たない。

 そうした場合、今からこのルールや規範を決めようとする者は「自らの属性 ―健康であるか病弱か、男性か女性か、金持ちか貧乏か等々― について一切情報を持たない」とする。

 誰にとっても受入れられる社会のルールや規範を決めようとする者は「自らの属性」に捉われない公正さが必要となる。もっと簡単に言うのならば、春日一幸の言葉通り、「人を慮る心無くば政治家たり得ない」ということに尽きる。

 ちなみに、同エントリーでは不確かな引用をしてしまったが、三池崇史監督がリメイクした「一命(旧題「切腹」)」がDVDでリリースされたので再確認してみた。


 侍の人生、思うに。
 栄達をはかるも、憂き目に遭うもふとした巡り会わせ次第。
 ともすれば求女がそれへ座り、貴公が求女のような身の上になっていたかもしれない。
 (略)
 これだけの武士が揃っていて、わが身に置き換えて思い遣る気持ちを思うて居るお方が、一人ぐらい居られなかったかものか。

 このように立場を交換して考える。相手の立場に立ってみて考えるという習慣が、社会の中で様々な差異を抱えた人々が共存していく上で必要となっていくのでしょう。

 三池崇史監督自身、ライムスター宇多丸氏との対話において、そのような社会の有り方について軽く触れています。*1

 TBSラジオ ウィークエンドシャッフル 10/8  サタデーナイトラボ「三池崇史監督インタビュー」 "前編”"後編”
*2

 整理します。「いじめ」を解消し、様々な差異を持った人々が、ともに共存する社会を作る為には、相互にお互いの立場に立って考えてみるという「想像力」と、そこから生み出される「寛容」が必要です。これはロールズの言う「無知のヴェール」の成立要件でも有り、人は自分の属性を離れて考える為には、様々な立場の事実を知らなければなりません。自分の主観的な世界と距離を置き、思い込みや予見を離れ、社会設計、制度設計の為には事実に基づいた制度の考案が必要ですし、その為に事実に謙虚である必要があります。

 (東京電力原子力事故においても、こういった事実に対する傲慢な思い込み、圧殺、黙殺があった事が指摘されています)


 もう一つ、大津市の「いじめ自殺問題」で、まったく無関係の女性が、いじめたとされる同級生の母親と間違われ、様々な中傷やいたずら電話を受けているといいます。

 これなども、事実を確認もしようとしない怠惰な者たちが、勝手な思い込み、予見で筋違いな「攻撃」をしているのであって、この態度自体が「いじめ」そのものです。

 さて、ここまでは一般論の話で、ここからは名古屋市政に関わる話です。
 ですから、ある意味ではここからの話は面白くないかもしれません。
 また、別の意味ではここからが面白いのでしょうが。

 他人を批判する時には事実に即していなければなりません。勝手な思い込みや予見で他人を批判、攻撃するような行為は「想像力」の欠如でしょうし、「寛容」の態度とは程遠いものです。

 さて、名古屋における一昨年の「リコール運動」は果たして事実に即していたでしょうか。


 ここで述べられているような「減税10%」や「地域委員会」について、本当に河村氏は実現を考えていたのでしょうか。
 また、このスピーチではそのほとんどが報酬議論、お金の話です。

 他国の地方議員がボランティアであるなどというのは、なんら根拠のある発言ではありません。

"政令指定都市名古屋市における市議会のボランティア化がもたらすもの"

 更に、「名古屋の市会議員の報酬2400万」「名古屋市議は任期4年毎に退職金がもらえる」という発言は明らかに虚言でした。*3

 これらの虚言によって煽られ、マスコミがそれを拡大し、「市政改革」などという嘘を並べて、結局、リコール署名簿や受任者名簿という選挙のための組織作りがしたかったのがあのリコール運動だったのでしょう。

 そのための「悪者を仕立てあげる」「悪者になって頂きました」(富口市議発言)のがリコール運動であり、その悪者、スケープゴートが既存議会だったのだろう。


 あのリコール運動は共存をしていくロールズ的社会からは最も遠い、非寛容、排除の理論に乗った騒乱でしかなく、勿論、民主主義の破壊である。

 この文章の最初に内田樹氏のツイートをある人物がリツート、引用したと述べた。

 その人物こそリコール署名簿の請求代表者であり、(現在はどうなったか知らないが)減税日本ゴヤの顧問であり、(これも現在はどうなったか知らないが)ナゴヤ庶民連のメンバーであり、先の中村議長留任問題の原因でもあった「船橋旭」である。

 この人物は中村議長問題においても「そんな議員、リコールしてやる」と口走るなど、結局、排除の理論からは離脱できていない。

 そのような人物が、一体どのような考えでこのリツイート(引用)をしたのか。ひょっとすると、自分の非寛容さについてはまったく自覚が無いのかもしれない。

市民税10%減税の実現を求める請願、徹底検証 - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0
「定常型福祉社会」の曲解 - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

 大津市のいじめ問題でも、東電の原発問題でも、現代の社会において不足しており、再構築しなければならないのは「想像力」と「寛容」であろうと思われる。それは間違いない。しかし、その「想像力」と「寛容」を成立させる為には、謙虚に事実を受け入れるという態度が必要なのであり、事実を受入れて行うべき責務があると判れば、その責任を果たすべきだろう。船橋氏にはリコール署名請求代表者として流出したリコール署名簿の問題に対して行うべき責務がある。責任も果たさず、理屈だけで「寛容」を求めているのだとすれば、それは身勝手で醜悪な精神という以外ない。


*1:この市川海老蔵の台詞は、旧作「切腹」とはニュアンスが異なります。旧作にはない「交換の原理」が導かれた理路を、「物語の成立過程=悪役の成立」という文脈で語っていて興味深いです。

*2:映画における「食べ物の扱い」に注目する「フード理論」というのがサタラボで語られている。この「一命」においては三池監督の「確信犯的」食品利用が見られる。その伏線といい、「そのシーン」といい。私は完全に嵌って号泣させられた。まったく三池監督というのは「悪人」である。

*3:呆れる事に、この虚言はこだまのようにネットの中を飛び交って、つい最近でも引用されている。事実を検証しようとしないまま、予見を持って語る人々の多さには驚く。そりゃあ、原発も爆発するわけだ。