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株式が介入する行政

 10月15日のアーティクルで「2.指定管理者制度など、民間事業者の行政サービスへの参入を否定する理由としての、『株式が介入する行政』とは」というメモを残した。


 行政サービスの(真の)効率化には反論はないが、現在行われているのは現業アウトソーシング化と「官製ワーキング・プア」の生成でしかない。末端の労働者の犠牲によってなされた行政サービスの効率化など、単にデフレ・スパイラルを悪化させているに過ぎない。
 その他にも行政と言う分野において、「株式」が介入する誤謬がある。

 「株式会社組織」であるとか、それを参考にした法人組織は利益を追求することをレーゾン・デートルとしている。非営利法人にしてみても、自ら蓄積した業務のノウハウを他へ渡したり共有するインセンティブは持ちにくい。

 工業分野においては「知的所有権」とその争奪競争がイノベーションを喚起するインセンティブとなりうるが、その論理を行政サービスに持ち込んでみるといささか異様な風景が現出する。

  神野直彦氏は「『分かち合い』の経済学」の中で「大学改革」をテーマにその様子を描写してみえる。

「分かち合い」の経済学 (岩波新書)/神野 直彦

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「『分かち合い』の経済学」神野直彦岩波新書) p.96
 知識やサービスの生産は、人間と人間との協力関係が決定的要素となる。知識に所有権を設定し、競争を煽りたてても、知識の生産には逆効果となるばかりである(略)人間は長い年月を経て、真理を追究するために有効な組織として大学を創り出したのである。
 しかし、日本では愚かにも、これからの組織が目標としなければならない大学の組織を解体し、時代遅れの組織である「株式会社組織」にしてしまった。これが国立大学の法人化である。(略)

 新自由主義の大学改革は大学を真理探究の場から、命じられた目標を疑うこともなく遂行する知的技術者を養成する場としてしまった。それによって、あらゆることを疑い、既存の価値に異議を申し立てる真理の追究が困難となった。その結果、新しい知識を創造していくことが必要とされる知識社会への転換を、不可能にしてしまったのである。
 人間は『学びの人』である。大学はあらゆる権力から自由となり、『学びの人』である人間が、教える者と教えられる者との共同作業で、真理を追究する研究と教育を実施する場である。
 (略)知識社会では人間が相互に自己変革を遂げ、社会を不断に変革し、人間の人間としての歴史を発展させていく。
 ところが、知識を「分かち合い」ながら、自己変革を遂げ、真理を追求していくことを否定した日本では、知識社会の推進力を喪失している。目標を疑うことなく、従順に従い、目標を目指して競争する人間を創り出すことしかできないからである。しかし、知識社会では目標を疑い、「既知」に異議を申し立て、「未知」を創り出す「学びの人」が求められているのである。


(どさくさに紛れて自画自賛しておこう。この主張が稚拙だけれど、近いところを付いていないかな?違う?)


 「大学」という場において「知識の共有」こそが新しい知見、新しい学問領域を創発する条件であるように、人間を対象とした行政サービスにとっても「知識の共有」は重要な存立基盤となる。で、あるから行政機構が提出する知見には著作権などの知的所有権が設けられない。これは、広く万民、国民が知識・ノウハウを共有することで、全体の福祉の向上を図るという目的に促しているからである。
 しかし、ここで「株式会社」が介入すればそれらの知識・ノウハウは企業としての競争力の源泉となってしまうわけで、一私企業が知識・ノウハウを独占することになり、結局は全体の利益は阻害される。

 すでに医薬品開発であるとか、ゲノム解析などの生化学の分野では、これらの問題が指摘されている。




同書 8 ページには、次のような記述もある。
 新自由主義の改革とは、暗き過去へと歴史の時計の針を逆戻りさせることにほかならない。つまり、その目的は十九世紀の中頃の「小さな政府」を目指して、「失業と飢餓の恐怖」を復活させることにある。

 新自由主義にとって改革とは、「失業と飢餓の恐怖」を復活させ、それを鞭にして「経済的活力」を高めることにほかならない。新自由主義政策を推し進めた小泉政権は、「改革なくして成長なし」をキャッチフレーズとしていたが、その真意は「失業と飢餓の恐怖なくして成長なし」をいうものである。「改革なくして成長なし」とは、「貧困なくして成長なし」といいかえてもよいのである。

 自由競争を活発にし、「小さな政府」を目指すと言うことは、福祉を薄くするということに他ならない。競争の活発化とは、その先に「夢」があるのかもしれないが、その後ろには脱落の「恐怖」が背中合わせになっている。