市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

河村流「正しい経済理論」の正体

 「このブログは嘘ばっかり書いてあって信用できない。河村市長や減税日本の皆さんが言う事が正しい」という方の前半の意見は正しい態度です。後半の意見には同意できませんが、ここに書かれていることもどうぞ、「嘘なんじゃないか?」と疑ってかかってください。鵜呑みにはしないでください。そしてできれば「嘘なんじゃないか?」と思ったことを調べてみてください。ご自分の目で見て耳で聞くこと。そうやって皆さん自身が事実を元に問題に近づいていっていただきたいと思います。
 特に、中央政治の現場なぞなかなか実際に触れることなどできません、しかし地方政治の現場は皆さんの周りにあります。課題もそこにあるのです。

 減税やら地域委員会、議会改革やら海外視察なんて、本来地方自治の課題では有りません。非常に優先順位の低い問題です。それよりもゴミの収集やら歩道の補修。防犯であるとか防災の話題が本来の地方政治の舞台であろうかと思います。現場に出かけて事実を確認し、ご自分の目や耳で得た情報を元に、ご自分の頭で考えてみてください。

 新聞の社説や、テレビのコメンテーターの語る言葉を鸚鵡返しの用に語り、その実その言葉の持つ意味を理解していないような馬鹿な態度は慎みましょう。(あ、これは余り関係ないですが)

 さて、それでも私は河村市長が語る「嘘」については指摘します。
 本日は、10月4日の市長定例記者会見 で「嘘」が炸裂しました。
 こちらにその動画がありますが。この開始25分程のところからご覧ください。減税条例が否決されるかもしれないという話題から、「減税財源は別にある」と強弁を繰り返しています。その財源として「例えば総人件費の一割カット」と言っていますが、10月1日に「平成23年度 職員給与等の公表」がされており、この中の報告でも職員給与の削減率が明示されています。(局長、部長級:給与の2%、課長級:給与の1%)河村市長の言われる「総人件費」とはどこの誰の人件費で、「一割カット」というのは「1%」の間違いだろうか?(平成19年からの名古屋市職員給与の削減努力については総務省の資料をこのエントリーで示してある)

 その「ナゴヤ庶民連」の会合で黒川市議が間違えるのも仕方が無い、河村市長がまだ間違えているのだから。

 そういえば、10月3日に決算委員会があるにも関わらず、減税日本ゴヤの市議が集って懇親会を催したとお伝えした。この件が問題となって、減税日本ゴヤの中で査問のような事情聴取が行われたと言う。


           「何故、参加できなかった」と!


 そう、決算委員会期間中に「懇親会を開いたことが問題」になるのではなく。「懇親会に参加しなかったことが問題」になるらしい。決算委員会に対応するために、資料を読み込んでいた市議が呼ばれて「査問」されたそうだ。

 まったく、常軌を逸している!


 さて、この情報をもたらしてくれた人が、私が知りたがっていた河村市長が自信満々で語る「正しい経済理論」の出所を教えてくれた。減税日本「活動方針」(2011年8月28日)でも、「減税政策の経済学的根拠を広めます。日本の国債ギリシャのそれと同一視せず、正しい経済学、すなわち貯蓄投資バランスを踏まえた正しい日本国債・地方債の理解を国民に広めます」と力いっぱいのフルスイング、大振りを見せてくれているけれども、サッパリ判らない。ここで言われている「正しい経済学」って誰の提唱している、どのような理論であるのか。そして、「貯蓄投資バランス」と地方債(国債なら、判らないでも無い)の関係もわからない。逆に、これって国債と地方債を混同していない?って心配になる。

 というわけで、「市債」については「借金じゃない」とか「じゃあ、金利は何で低いんですか」とかあれこれと判ったような、判らない事を口に出して市民を煙に捲くのが河村市長の常套手段なので、単純明快な「河村市長が言われている『正しい経済理論』というのは、どなたの提唱している、どのような理論なんですか?」という質問をしたくて仕方がなかった。

 そうしたらどうも、やはり「リチャード・クーバランスシート不況論」らしい。

 そもそもリチャード・クー氏のB/S(バランスシート)不況論は地方債には適応できない。このことは4月の段階で論考した。

 その後、リチャード・クー氏自身が、河村市長が地方債に自らのB/S不況論を援用している事を聞きつけて、「地方債には適応できませんよ」というような事を語ったというような事も聞いたか読んだかしたのだけれど、すいません。情報源(ソース)を提示できません。

 クー氏のB/S不況論は、結果、財政出動を求める経済政策であり、ケインジアン的、またはニューディーラー的積極財政政策となる。
 クー氏自身は、ケインジアンに対しては批判的な姿勢をとっているとのことであるが、「大きな政府論」の側に居ることは間違いない。

 ここが訳がわからないところなのである。河村市長は間違いなく「新自由主義者」であり、「小さな政府論」者である。

 落ち着いて考えてみると、この食い違いを河村市長はうまく使っている。

 新自由主義の不況下における矛盾を指摘すると、リチャード・クー大きな政府論に逃げ込んで。大きな政府論の持つ矛盾を指摘すると、持ち前の新自由主義、小さな政府論に逃げ込む。
 名古屋市という経済の一プレイヤーにおける債務の話をしているときに、全体の資金流動の<結果>としての<金利>の議論を始める。「なんで、金利はあがらんのですか」
 で、あるなら名古屋が市債をバンバン発行して、なんなら財政再建団体に落ちたら、金利は上がってくるのだろうか?というよりも、金利を上げるために公債というのは発行するものなのか?
 ここで、金利の議論などし始めたら術中に嵌る。なぜなら、地方債は幾ら発行しても金利に影響を与えるほど資金の流動性を高められないからである。その前にストップがかかる。

 ここで、ちょっと大前提に立ち戻ってみたいのだが。私は事実に立脚しない、床屋政談や居酒屋政談は嫌いである。単なる空理空論に陥るからである。床屋の待ち時間を潰すとか、酒を飲んで一時的な憂さを晴らすという効用なら認めるが、それをそのまま現実政治に持ち込んではいけない。それと同様に、私は絶対に正しい経済理論なんてものも無いと思っている。特にマクロ経済は集団のマインドに支配されるので「昨日の事は語れても、明日のことは語れない」のが現実だ。なので、河村氏のように元気いっぱいで「正しい経済理論」とか言われると気恥ずかしいというか、ほほえましい気分になる。

 なので、クー氏の提唱するB/S不況論が「絶対に正しい」とは思えないが、だからといって「間違っている」と断じる事もできない。B/S不況論が状況をうまく説明した事例もあったのだろう。しかし、クー氏のB/S不況論から河村流減税論が導けない事は容易に論証できる。

 このB/S不況論と減税論の両論併記は、クー氏のB/S不況論が歳出の議論をしているのに、河村市長が歳入の議論をしているから議論がすれ違い「良く判らない」まま終わってしまう。

 クー氏のB/S不況論や、河村氏が「市債は借金じゃない」という発言をする時に語っているのは積極財政論であり、積極財政論というのは、お金を刷ってでも財政出動しろという理論である。

 しかし河村氏の提唱する減税政策は違う。

 クー氏の政策を進めれば、政府支出は増加する。財政出動していくのだから当然だ。そして、政府支出によって経済を活性化させていくというのがケインジアンであり「大きな政府論者」の側の理論だ(※1)

 河村減税は違う。河村減税をすれば名古屋市の歳出は減少する。歳出削減が「行政改革」の成果であり、河村はそれを約束している。

 名古屋市の歳出カットによって浮いたお金を、減税と言う形で納税している、つまりは利益を上げている人や企業に返すと言うのが、河村流定率減税政策だ。まあ、たった0.6%だけれど。(※2)

 クー氏のB/S不況論では、政府支出が増大する、大きな政府が現出する。ところが、河村理論では減税によって名古屋市の支出は減少し、小さな政府が現出する。
 つまり、そもそもB/S不況論と河村減税論は、歳出に着目するとまったく正反対の政策であることが判る。クー氏がケインジアン的であり、河村が新自由主義者である事とこの方向性の相違は符合する。

 では、なぜ河村はクー氏のB/S不況論を持ち出してきたのか?
 そもそも、この方向性の異なる木と竹が、どこで接合されているのか?

 河村は最初、減税財源は行政改革で賄う、と明言していた。総務省からも市債発行での減税は許されていない、と述べていた。

 ところが実際には行政改革は進まず(というよりも、行政機構に一切手をつけていない)減税を実施するのに市債発行残高を増やさなければならなくなった。

 ここで、普通の神経をしている者であれば、減税と市債発行額の増加は関連性が無いとみなして、市債発行額の減少、または償還にむけてより一層の行政改革に取り組みます。と来るだろう。ところが、河村はここがめっぽう変わっている(というか、私の弟は幼稚園の頃、こんな感じの言い訳を良くしたものだけど)

 減税と市債は関連性が無いといいながら、それでも市債発行自体は悪い事ではないと自己正当化をしたがる。ここで<減税=行政改革=小さな政府論>セットと、<市債発行=B/S不況論=積極財政策=大きな政府論>セットの二枚の舌を使わなければならなくなったわけだ。

 もう一度言う。市債発行額は増えている、それが河村減税政策の責任で無いのなら、何も市債発行を減税政策と絡めて語る必要は無い。市債発行自体を問題視し、市債発行残高を増やした原因である、震災や原発事故による産業の不振か、円高に伴う産業の不振を分析し、それへの対応を取れば良い。しかし、河村はそのような実体的な努力をせずに、口先だけで市債発行自体の正当性を言い立てようとするからおかしな事になる。

 しかし、河村は知ってか知らずかいつしか「小さな政府論」と「大きな政府論」のキメラ(合成獣)のような融合理論を手に入れた。河村は大きな政府論におけるメリットを語り。そのデメリットが議題に上ると小さな政府論におけるメリットを語り。小さな政府論のデメリットが議題に上りそうになると大きな政府論を持ち出す。

 河村流減税政策がメリットばかりでデメリットの無い経済政策である理由はここにある。デメリットのない経済政策なんぞ、詐欺の一歩手前でしかないのにである。




 ※1 「大きな政府」が財政出動だけではないことは百も承知だけれど。

 ※2 一般的に、このような形の減税は同額の補助金をバラ撒くのに等しい、バラ撒き型補助金であって、その対象が納税者の人や企業に限定されている。納税していない貧困層年金生活者には補助金が渡らないと言うのも、河村流0.6%減税の特徴だ。まあ、たった0.6%なんだから許してやろう。

 ただでさえバカ撒き型補助金は消費に回りにくい。ところが、更に興味深い研究もある。経済合理的な判断をする納税者 − 今回のような富裕層対象の減税は − 富裕層ならその後に増税社会保障の削減が伴う事を見抜く。つまり、満遍なくばら撒くかたちの補助金であれば、経済合理的な判断が出来ない層にも補助金は行き渡る。そういった層は手元に現金が落ちてくれば簡単にそれを使ってしまう(使ってしまうから、そういった層になっているとも言える)ところが、富裕層に位置する人や企業では、この補助金の原資が、結局は「将来の自分」である事を承知している。なので、この種の補助金は消費しない。将来の支払いに備えて、貯蓄に回すのが合理的判断という事になる。


日本経済を襲う二つの波―サブプライム危機とグローバリゼーションの行方/リチャード・クー

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