市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

「褒め」の心理

先日、ある方と話していて、「現代社会における自己肯定感の欠如」という話題に行き着いた。
ヘイト・スピーチなどに見られる「排外主義」や事実に基づかない、ムードに流される「政治的ブーム」の根底に、現代の社会が個々人の「自己肯定感」を満足させられていないという問題があるのではないかという議論だ。

(この概念は、ひょっとすると、20世紀、19世紀には「社会における個人の疎外」というような解釈がなされていたのではないかという気もする。つまり、昨日今日始まった問題ではないのかもしれない)

そこから話はアドラー心理学における「共同体感覚」に移り、「自己受容」できない個体の傾向という話になり、E.H.エリクソンの「基本的信頼(Basic trust)」がテーマとなった。

「基本的信頼」とは「無条件で自分はOKだ」という感覚で、最近の言葉で言うのなら「ありのままの、姿見せるのよ、ありのままの、自分になるの~♪」という事だ。こうした「なんでもあり」の自己肯定感が一般化し、外に向けば「他者一般に対する基本的信頼」ということになり、どのような特性を持ったヒトとも共存可能となるのであって、社会における多様性(Diversity)の基盤となる。

これの対立概念が、他者や事物に対して、損得を計る態度や、有用性を求める考え方となるだろう。

ちょっと、話が回り道に入るが、

「公費で行われる芸術祭であるなら、国民全員が受け入れられるものでなければならない」というような、およそ的を外した考え方を振り回す態度はこれに当たるだろう。芸術なんて代物が、国民全員に受け入れられるのであれば、そんなものは芸術ではないだろう。真綿にくるまれた無価値な何かでしか無い。表現行為は、それを見るものに向けて変容を求めるようなものでなければ意味がないし、そのような力を持った存在は、少なからぬ反発を受けて当然だ。

また、そもそも人間には2種類の要求がある。
一つは、誰しも満たされて当然の衣、食、住や、文化的に生活できるだけの事物に対する要求であり、日本において国は、これをすべての国民に与えると憲法によって宣言している。つまりは、基本的人権の範疇にあるモノであって、これを宇沢弘文神野直彦さんは「需要」と呼んだ。
もう一つは、そうした必須の要求を超える「欲望」であって、これも適正であれば社会を豊かにするものではあるが、その欲求が過剰となれば社会は不安定ともなる。こうした個々人の「欲望」と社会における供給を調整するには、市場の原理が有効に働くのであって、こうした事柄は「市場原理」に任せれば適正に*1配分される。

国や地方は、こうしたヒトの持つ要求の内、「需要」に着目すべきで、「欲望」についてはほかっておけばいい。

「需要」以上にヒトが欲求するのであれば、誰かがその欲求に応える方策(これを「生業を企む=企業」という)を取り、市場が生まれ、配分が始まる。ここに公的な介在は必要ない。(もちろん、薬物や売買春、ギャンブルのように社会の安定のために、「欲望」を一定の法で規制する必要がある場合はあるだろう)ここで、ギャンブル=IRに絡んで、余計な事を書きたくなった。回り道の回り道になるので、欄外で書く。*2

国や地方が賄うべき「需要」については、市場原理主義は働かない。必要なヒトには無条件に配分しなければならないのだから、市場原理の介在する隙など無い。民主的な制度設計と、公平な行政運営が必要なだけだ。

つまり、行政における「市場原理の導入」なんて、語義矛盾であり、誤りなのだ。

それよりも、行政における「効率の良い公費の投入」やら「効果の高い税の利用」などという言葉は、「効率の悪い公共事業の縮小/切り捨て」「効果が見えない福祉の切り捨て」を生み出すだけだ。

これらが、ナチス・ドイツの行った「T4作戦」の基本原理であり、相模原障害者施設殺傷事件を起こしたドグマだ。

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税の投入に「効果」も「効率」もない。「適正」か否かがあるだけだ。くだらない蒸気機関車の動態展示よりも、そのお金で給食施設にスチームコンベクションオーブンを設置する方が「適正」であろうことは明白だろうし、いつ建つともしれない木造天守の木材を買い付ける予算を、子どもたちの給食費に助成すれば一定の無償化すら実現できる。-こうした価値相反を争う場が政治であるはずだが、争い(=議論)すら成立しないというのであれば、名古屋には政治もなければ、民主主義もない。

公費を投入する施策に対して「損得」を考慮する態度は誤っている。公共事業はそもそも利益を生み出さない(利益を生み出すのであれば、私企業がすでに行っている)また「有用性を求める考え方」も誤っている。公共事業、福祉政策について国民誰もが「有用」と思えるような条件は必要ない。当事者が必要であり、その実施が憲法の要請であれば「適正」に行われればいい。

また、こうした考え方は「人間」にも当てはまる。

社会において、誰かの存在が「得」であったり、「有用」である必要はない。
社会や国家のために個人が居るのではない、個人が居て、その乗り物として社会や国家があるのであって、逆ではない。

「無条件で自分はOKだ」と思える、「自己受容」が、他者をも無条件で受け入れる基本的信頼に繋がり、こうした他者信頼が他者貢献につながり、他者貢献の機会が、「他者に貢献できている感覚」を生み出し、ヒトに「自己肯定感」をもたらす。

こうしたアドラー心理学についての話をしている時に、「他者を無条件に受け入れる」逆が「他者を条件付きでしか受け入れられない態度」であるという話になった。他者を「敵と味方」に選り分ける態度もここにつながる。そして、「他者を条件付きでしか受け入れられない者」は「自分をも条件付きでしか承認できない」と展開され「自分を条件付きでしか承認できない者」は「褒めてもらいたがる」傾向がある。という指摘に行き着いた。

ここに至って、ハタと気がついた。

私は、河村市長の記者会見など、発言を追っているが、いくつか普通の政治家の談話や会見で出てこない単語に引っかかっていた。その内の一つがこの「褒め」だ。

小学生でもあるまいに、大の大人が「褒める」「褒めない」という単語を振り回す姿が、正直理解できなかった。
(もっと、理解できない単語に「威張れる」がある。なんでも名古屋城天守木造化は、名古屋市民が「威張れる」為に作るんだそうな。多分、この「威張れる」も「褒め」の変奏に過ぎないのだろう。「名古屋市民が威張れる」というのも、主語を名古屋市民一般に仮託しているだけで、実は「自分が威張れる」ことが重要なのだろう。こうした事物に頼らざるを得ないほど、自我が脆弱であるという事なのだ。本当に哀れだ)

河村たかし名古屋市長の市長記者会見で、引っかかり続けた「褒め」という単語の正体がわかった。

河村たかし名古屋市長自身が、共同体感覚を得られておらず、ここから得られる自己受容が不全となっている。なぜ、すぐにヒトを「敵と味方」に分別するのかといえば、他者を条件付きでしか受け入れることができないからだ。

名古屋城の市民説明会などでも市民から意見が投げられたときに「自分はそうは思わない」という反論を行う。
全体の奉仕者として、市民意見を聞く場であるのなら、自分と異なる意見が出た際には、こうした異論が出た理由や、異論による自論の再評価であるとか、こうした異論についても考慮していたかなど、考えるべき事柄はいくつかあるはずだ。しかし、彼にとっては「自分はそう思わない」から自論を語り、それを理解しろと迫るだけだ。そして河村たかしの自論に異を唱えるものは、「敵」なので、考慮しない。(地域委員会の議論でもこうだったわけだ)

こうした態度では「他者との共存」は計れない。「共存」すべき本質的な「他者」とは、自分とは意見や考え方を異とし、即座には理解できない存在でなければならない。物理的に自分を取り巻く周辺者は、自分を(表面的でも)肯定する自我の写像でしかなく、他者ではない。自分が理解できないような他者からの承認が、自己承認要求には必要であるが、「他者との共存」ができない者には、そもそもその機会すら得られない。こうなると、自己承認要求は枯渇する。その渇望の結果が、「褒め」という言葉につながるのだろう。

つまり、河村たかし名古屋市長というのは、齢70歳を超え、国会議員年金まで受け取っているにも関わらず、自我の形成に於いてはE.H.エリクソンのみなす「学童期」にも至っていないということになる。

河村たかし名古屋市長の市長記者会見における「褒め」という単語の出現回数は、平成22年から10年間で、65回にのぼる。その出現機会と、出現例については本文末尾に掲載する。


追記1:
この人物の行動原理というのは、これなのかもしれない。
実は、この人物の行動原理の目的語に他者がいない。

「総理を目指す」と言っていたが、それは何の為だったのだろう。
誰の為だったのだろう。

国民や有権者の為ではない。
結局、自分の為でしか無い。

総理になるという自己承認を得たい、
そして、総理になって威張りたい。

それだけが行動原理だったのかもしれない。

追記2:
つまり、あれだなぁ。市長室でバンバンこの人物を褒めれば、
いくらでもスクープをモノにすることができる。

何度でも「あおなみ線中部国際空港まで延伸する」計画を紙面に載せられるし、
(追記:最近は、IRを誘致する長島リゾートまで延伸するそうだ)
国交省財務省がどう思っていようとも、農水庁舎跡地に観光センターを建てるスクープで紙面を飾れる。

追記3:
行動原理の3分類という話は人口に膾炙しているだろう。
好悪の判断は、子供の判断基準であり、
損得の判断は、大人の基準である。
君子であれば善悪によって行動を決定せねばならない。

後に、「真善美」という3段階も出会った。
真偽、
善悪、
美醜
こちらはより感覚に寄っている。

しかし、褒め/貶すという基準はなんだろうか。
この判断基準では、自我がない。



「褒め」という単語の出現する、
河村たかし名古屋市長の市長記者会見


<<平成22年度>>

  平成22年5月6日,5月31日,7月26日,12月13日

    ex.平成22年12月13日「誰も褒めてくれんで自分で言いますけれど」

<<平成23年度>>

  平成23年5月9日,5月23日,8月1日,12月28日

    ex.平成23年5月9日「手前みそですけれど、名古屋の諸改革については、大変に褒めておられました」

<<平成24年度>>

  平成24年7月9日,7月17日,8月20日,10月2日,
  10月9日,10月22日,12月10日,12月17日
  平成25年1月21日,2月18日,2月25日

    ex.平成25年1月21日「誰も褒めてくれんでいかんけれど」

<<平成25年度>>

  平成25年4月30日,5月13日,5月20日,
  8月1日,8月26日,11月18日
  平成26年2月17日,2月24日,4月28日

    ex.平成26年2月17日「誰も褒めてくれんでしようがないで自分で言っていますけれど、
    これはやっぱり河村さんの長年やってきました感性の鋭さで、誰も褒めてくれんでね」

<<平成26年度>>

  平成26年5月12日,6月16日,8月4日,
  9月16日,10月14日,11月17日
  平成27年3月30日

    ex.平成26年9月16日「誰も褒めてくれんでいかんですけれど」

<<平成27年度>>

  平成27年4月20日,5月11日,5月25日,7月21日,
  8月10日,8月17日,8月24日,9月28日,12月14日
  平成28年1月12日,2月22日

    ex.平成27年8月10日「なかなか誰も褒めてくれんけれど
    (略)誰も褒めてくれえせんですけれど
    (略)誰も褒めてくれやせんということで、酒を飲まないとやっとれんと。
    やけくそというのは、そういう意味です。(略)
    誰も褒めてくれんで。わしも自分でこんなことは言いたくないけれど」

<<平成28年度>>

  平成28年5月30日,10月31日

    ex.平成28年5月30日「それはありがたいですね。褒めてもらったことあれせんもんでよ」

<<平成29年度>>

  平成29年6月12日,7月24日
  平成30年1月29日

    ex.平成29年7月24日「誰も褒めてくれへんけど」

<<平成30年度>>

  平成30年4月9日,5月28日,7月2日,10月22日
  平成31年1月4日

    ex.平成30年7月2日「褒めてもらわなあかんで、これ。」

<<令和元年度>>

  平成31年4月8日
  令和元年5月7日,5月27日,7月8日,8月26日,
  9月30日,10月15日,10月21日

    平成31年4月8日「誰も褒めてくれんけど」
    令和元年5月7日「誰も褒めてくれへんけど」
    5月27日「誰も褒めてくれませんので」
    7月8日「これは文部科学省からも褒められておりますけども」
    9月30日「なかなか誰も褒めてくれんけど(略)
    ほとんど誰も褒めてくれんということでございます」
    10月15日「誰も褒めてくれませんけど、これね。」
    10月21日「これは、誰も褒めてくれへんで、自分で褒めないかん。
    (略)誰も褒めてくれへんけど」


*1:経済学的に、という意味であって倫理的に適合するかは別の問題だ

*2:私は、こうした非社会的な事物(薬物、売買春、ギャンブル)について、法規制はしない方が良いだろうという立場に立つ。ここは、全くのリバタリアンだ。私自身がギャンブルを(ほとんど)行わない理由に、子どもの頃からギャンブルの実相を見てきたからという理由があるのだろう。こうしたモノは隠せば隠すほど、価値(バリュー)が上がり、その隠蔽が実体を歪める気がする。中南米における薬物の存在など、こうした歪みの究極の姿と言っても良いかもしれない。そういう立場に立つと、昨今話題のIRなど、実現しようが、実現しまいが関係ない。ああしたものが有ろうが無かろうが、嵌って身を持ち崩す者は持ち崩すだろう。私の子どもの頃の下町では、立呑の酒屋の前に縁台やムシロがあって、そこで丼にサイコロを投げていた人々が普通に居た。サイコロが無いときにはジャンケンやマッチ棒までネタになっていたようだ。大の大人が、くしゃくしゃになったお金を真ん中において、血走った目でジャンケンをしていたり、互いにマッチ棒を持って折り合っている姿は鬼気迫った。ところで、名古屋市は、このIR対象候補に名乗りを上げるようだ。しかし、市内に適当な場所が無いために、三重県(愛知県内でもない!)の長島リゾートを候補地に据える考えとか。もちろん、三重県からはクレームが入っているが、河村たかし名古屋市長は、我関せずの態度のようだ。これ、最低の態度であるはずだが、マスコミにおいて真っ当な批判が起きていないのはどうしたことだ?まず、三重県桑名市に対する自治権の侵害だろう。または、「迷惑施設」を他の自治体に作って、その収益だけ名古屋が得ようというのだろうか?名古屋市名古屋市民というのはこうした卑しい自治体なのだろうか。更に、こうやって口だけで参加すれば(それでも、市職員は無駄な労力を割くことになるが)メディアに名前が載る。無責任なエントリーが、政治屋河村たかし」にとって、数百万、数千万円の効果を持つパブリシティとなる。メディアは面白がっている場合ではないだろう。こうした無責任な行動には、キッチリとした批判とともに報じるべきではないのか