「国民国家」の衰退
内田樹さんが「『下流志向』韓国語版序文」として論考をあげてみえる。
『下流志向』韓国語版序文 - 内田樹の研究室
「グローバル資本主義」の進展が「国民国家」を弱体化、解体して、そのさなかにある国民、それも若者に対して「学びと労働からの逃走」を”選択させる”という論考は深刻で幅広い問題を考えさせます。
内田氏の論考はそこから教育への展望に向かいますが、地域社会についてもこういった視点に立ってみると見えてくるものがあります。
この論考において内田氏は「国民国家」をこう規定します。
国民国家というのは、国境があり、官僚制度があり、常備軍があり、国籍と帰属意識を持つ「国民」を成員とする共同体のことです。
日本においても「国民国家」の成立は明治維新を起点とするでしょう。
しかし、日本型国民国家の成立を明治政府が達成できたのは、それ以前にも日本には「境」があり「官僚制度」によって運営され、常備軍を置き、籍と帰属意識を持つ「藩」であるとか「邦・邑」という存在があったからだろうことは想像に難くありません。
稲作や漁業、狩猟、採集という定着や准定着的な集団生活を続けていた日本人には、すでに「前国民国家的特性」が備わっていたのではと思われます。それが「村の掟」であったり「空気」と呼ばれるものだったのでしょう。最近では「関係性の束」という概念も使われます。
こういった「関係性の束」「人間関係のしがらみ」は一面では非常に煩わしい存在です。
新興住宅や都市における集合住宅では、こういった住民間の「しがらみ」を無視しても生活が送れるように住宅の設計がなされていて、住民は隣近所に煩わされることなく日々を過ごす事ができるようになっています。
つまり、こういった隣近所の「しがらみ」に絡め取られる関係性が「住民」であり、そういった「煩わしさ」から切り離された存在が「人口」です。
最近の都市において「人口」は増えたが「住民」は減ったというのはこの事です。
「グローバル資本主義」の進展した社会においては経済主体としての消費者(人口)は必要ですが「住民」は必要とされていません。
効率よく商品を消費者に提供し、それを消費し、また購入する。そして各消費者が、地域社会の行事に煩わされるという、生産性の低いことから開放され、生産性の高い業務に専念する。そして得られた所得を効率よく消費に向かわせる。
「グローバル資本主義」においてはこのような消費者が理想であって、住民は必要ありません。町内の清掃をするのであれば専業者を雇って効率よく清掃してもらえは良いだけであり、時間単価の高い「住民」が時間を割いて町内の清掃をする事は経済合理性に反します。(まんま、リカードの比較優位論ですね)*1
結果、出来上がったのがプライバシーを重視した住空間と、効率よく商店を集約したショッピングモールです。
プライバシーを重視した住空間のせいで、結果として隣の住民が急病で亡くなっても知らずに放置したまま、数ヶ月経って死体が発見されたというようなニュースを散見することになりますし、ショッピングモールの繁栄は日本においては「シャッター通り」と言われるような商店街の衰退を引き起こし、米国でも「ウォルマート・シンドローム」と言われる地域社会の破壊をもたらしました。
「国民国家」が社会的な安定を提供し、経済原理によって効率を追及していった結果が「グローバル資本主義」の進展です。
ここで人々は選択すべきでは無いでしょうか?
効率と繁栄をもたらす「グローバル資本主義」を選択するのか、煩わしく、しがらみに縛られた「村の論理」、国民国家を守るのか。
私もつい最近までは自らをリバタリアンと自覚し、「グローバル資本主義」を進展する側に立っていました。しかし、その結果としての現在を見るにつけその誤りを感じざるを得ません。
もう一度、しがらみ=関係性の束を修復し、地域を再構築しないと、この日本という国は成り立っていかないのではないか。そう危惧するところです。
「国民国家」のあやまてる再構築
「国民国家」という存在は日本においては明治政府によってでっち上げられたものであって、その衰退は「グローバル資本主義」の進展が原因であろうことは想像に難くない。J.F.ケネディの有名な演説「国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国家のために何ができるかを問おう」のまさにま逆を行くのが「グローバル資本主義」のルールであり、国民にも「国家があなたに何をしてくれるのか」と考えさせ、その利益の最大化を求めさせるのが現代の資本主義なのでしょう。
その為のツールを様々に用意して儲けようとするのも現代の「グローバル資本主義」の姿といえます。
その一つとして、例えば、国家としては産業界が就労者のスキルを向上させ、また安定的な就労を続け、将来をみこした生活設計をしてくれた方が良い。しかし、短期的に職を換え、もし体を壊したりした場合のリスクは国家に依存させたほうが、産業界としては有利だ。
生産性、利益は産業界が受け、就労者の「故障(罹患)」というリスクは国家に依存させる。
まさに内田氏の指摘する「国富を私財に移し替えることに熱心な人間」が派遣労働を進めることになる。そう、その中のパ●ナの会長は誰あろう竹中平蔵ではないか。
その竹中が維新の顧問であり、現在も安倍政権の日本経済再生本部において「産業競争力会議」のメンバーだというのだから最早笑うしかない。
この日本という国は国力を殺ごうとする人物に政権が意見を聞こうというのである。
産官民挙げて「あなたが国家のために何をするかではなく、国家があなたのために何ができるかを問おう」という態度でいる中、「国民国家」への意識を履き違える人々が出てくる。
前節で述べたように、日本においても「国民国家」の前段階、「前国民国家」として「藩」や「邦」郷土意識は強くあっただろう。しかし、これらを捻じ曲げて「国家意識」を捏造したのは明治政府であるし、水戸国学の亜流と言って良い。
そうした「国学」「国粋思想」は日本においても先の大戦で破綻を経験しているし、国際的にもこういった国家思想が国そのものを破滅に導く例は数々ある。
そのどうしようもなく劣悪な現象がこれだ。
在特会 デモ 新大久保 - YouTube
「在特会」というグループが、東京の新大久保や大阪の鶴橋という地域に出没しては「反韓デモ」という行動を起しているらしい。
しかし、ひとを「害虫」呼ばわりしたり「良い韓国人も、悪い韓国人もどちらも殺せ」といってみたり。これは政治的主張などとは言えないだろう。単なる差別主義、ヘイトスピーチでしかない。
実は、こういった動きは最近の風潮であろうと思われる。彼らを突き動かすのは何で、彼らの抑制を取り外したのはなんだろうか。
名古屋における議会リコールの運動も同根だろうと思われるが。彼らには批判対象に対するリアルな実感が感じられない。頭でっかちなんだ。また、彼らは自分たちの「ウサ」を批判対象に仮託して吐き出すだけで、政治的目的や高邁な理想も見出せない。
これは、私がリコール運動を主導したナゴヤ庶民連のメンバーから「帰れコール」を受けた時に良く判った。彼らは事実を知りたくも無いし、事実に則した政治的な議論をしたいわけでもない。私に「帰れコール」を浴びせている時にも、議会を批判して攻撃している時にも、彼らの「ウサ」を議会や私という対象に向けられれば良いのであって、議論や対話をしようという態度や心の余裕は無い。
そもそも人間には様々な人や価値観があるということが理解できないのかもしれない。
彼らと価値観を共有できる人間が「正義」であり、共有できない人間は「悪」であり、排除されるべき存在と思われているようだ。
こういった「在特会」や「ナゴヤ庶民連」というような排除を打ち出す(エセ)政治団体の特徴は、多様性に開かれていないということである。リアルな人間との対話ができずに、頭でっかちなまま理念(というか、決め付け)ばかりが先行して硬直化してしまう。
硬直化した考え方を持つ人は強い。なにせ「間違ったことはしない」のだから。
しかし、それは単に自分の間違いに気が付かないだけなんだけどね。
こういった「在特会」や「ナゴヤ庶民連」というような排除を打ち出す(エセ)政治団体を生み出すのも、大都市という社会的背景がある。そこでは人々が関係性を断絶し、個人が勝手に妄想を膨らませる時間を守る。という、プライバシーを重視した住空間が用意されている。
「関係性の束」「人間関係のしがらみ」の中で「もまれて」みると、こんなヘイトスピーチが如何に馬鹿馬鹿しいか、頭で考えなくても感覚で判る。そもそも自分を貶める行為でしかない。
まあ、彼らにも彼等の人生でこういった行動に駆り立てられるだけの理由があるのだろうけど。(もちろん、私の知ったことではないが)
しかし、日本という社会は成熟している。
こういった行動に対しては次のような行動も生まれている。
差別やめよう!仲良くしようぜ!〜反韓デモに対して意思表示 - YouTube
追記:
ちょうど毎日新聞が記事として取上げている。
http://mainichi.jp/select/news/20130318k0000e040194000c.html
砂漠の砂
「グローバル資本主義」は人間と人間の関係性、絆を断ち切ってくる。経済合理性においてはそんなものは邪魔でしかない。
経済合理性に毒された人間は、就労者の人間性は時にじゃまになる。
人間は地域社会にあって家族の為に働くものであるはずが、経済合理性の中で単身赴任という歪んだ制度まで生み出す。これが本来、如何に非人間的な事であるかに思い至らない。そして、経済合理性においては単身赴任者が定期的に自宅に戻ることすら許さない。
人間の生産性はある年齢を超えると減少してくる。
しかし、人間は働き続けなければ生活が成り立たない。
この生産性の高い年齢だけを産業界が吸い上げ、生産性が落ちてきたり病気などのリスクが高まってきた際には、そのリスクを社会や国に押し付ける。「ノマドワーク」であるとか、人材の流動性などと言われているこの社会の在り方も「グローバル資本主義」的であって、非人間的だ。(竹中平蔵は非人間的だ。反ヒューマニズムだ。それでも私個人は、「死ね」だの、「叩き出せ」などとは言わないが)
人間は「グローバル資本主義」と「都市の生活」の中で関係性を断ち切られ、砂漠の砂の様にバラバラな存在となる。
そして、この砂漠の砂のような存在は、その時々の風向きでどこにでも集まる。
千葉県で森田健作が知事として再選された。
http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp3-20130318-1099315.html
役者としては(敢えて言うと)いざ知らず、彼に政治家としての資質があるとは思えない。
しかし、有権者は彼を選ぶ。
結局、大都市において選挙制度は破綻している。先にも言ったように、大都市における有権者とは、その大多数が「住民」ですらなく、単なる「人口」でしかない。
この千葉知事選挙に投票した千葉県民の中で、千葉県の問題を的確に把握している人はどの程度いるのだろうか。
名古屋においても来る市長選挙で河村たかし現市長が再選されるだろう。
しかし、この再選に対して、名古屋市の問題を的確に把握して、選択をしている「住民」など居やしない。かくいう私も名古屋市の問題を正しくは把握していない。
ただ、市長たるもの、市民に嘘を言うべきではないと思うので、河村市長ではダメだとは言える。
こういった選挙において。
1)テレビに出ている人間は圧倒的に強い。
その出方、扱われ方がポジティブであろうとネガティブであろうとも関係は無い。
勿論、政治的な主張もどうでもいい。
それよりは、その表現方法が視聴者に好まれるか否かによる。
大阪の橋下市長など、発言はブレまくりで、その内容を精査してみれば矛盾し続けている。しかし、そんな事よりは、個々の発言を(矛盾であろうと)堂々と言い切ることのほうが票は伸びるようだ。
また、マスコミが本気でネガキャンを張るのであれば、「馬鹿馬鹿しいイメージ」を振りまくようにすればいいんだろう。例えば、最近でも河村市長がSKE48のイベントに飛び入りをしたそうだ、その場でメンバーに抱きつくという荒業を披露して観客からブーイングを浴びた。こういったシーンなどを流せば、有効なネガキャンになるんだろう。
しかし、マスコミは流せない。
河村市長に直接会った人々は、「なんだあの人は?単なる酔っ払いじゃないのか?」と感想を持つようだが。先日のSL運行時の笹島での舞台上やこのSKEの舞台など、一般視聴者は消化できないだろう。
「お茶の間」の消化が良いような絵ばかりで構成してしまうから、結果として、単なる「有名な人」ということになってしまう。
2)有権者の一定数は首長に「馬鹿」を選ぶ。
大阪では「お笑い100万票」といわれるぐらい意図的だ。これは選挙で敢えて「馬鹿」を選ぶことによって、権威を貶めようとする表れなのかもしれない。
または(彼等の想定する)既得権や、ふんぞり返っている官僚機構、既存議会の上に「馬鹿」を乗っけて苦労させようという、「お灸」のつもりなのかもしれない。
確かに、官僚機構や既存議会も困るだろう。しかし、その結果一番割りを食うのは、市民、それも公的な扶助が必要な弱い市民になる。
こういった「オッドマン」を据えることによって、官僚機構や既存議会が改革されるという期待を持つかもしれない。しかし、それも「オッドマン」が活動してこそ効果が期待できる。今問題となっている不正口利き問題ですら、その「オッドマン」である河村市長が市長をやっている時期に起きていることがこの期待が満たされないことを証明している。
名古屋市民としては河村市長を再選させる積極的な材料など無い。
しかし、論理的な解が、現実になるとは限らないのがこの世の中なんだろう。
朝日「検証 河村市政」
余りに前振りが長くなりすぎた。本論にまだ行き着いていない。
つまり、朝日新聞が3月の13日から3日間連続掲載した「検証 河村市政」に対する感想を書きたかった。
(同連載は、その前日(3月12日)のアンケートも含めて評価するべきと思う)
その中で、議会改革や地域委員会、減税政策について個々に取り上げられているが、何一つとして成功などしていない。(議会改革の中の議員報酬半減については、その立役者というべき当時の減税日本ナゴヤの幹事グループが、真っ先に党を割って出ている。つまり、河村市長に対して叛旗を翻しているという事実をどう評価するのか?
12日のアンケートでも「河村市長のこれまでの政策で評価できるのは何ですか」という問いに対する最多回答が「報酬半減」だった。しかし、この政策自体が議論の対象となるべきだろうし、そもそも「河村市長の政策」と言っていいかどうかも疑問がある。
河村市長はこの政策についてギリギリで実現化を潰そうとしていたのだから)
地域委員会や減税政策については言うまでもない。実現化していない上に、その制度設計から誤った失政でしかない。 ( 減税政策参考リンク ここやここ )
こういった政策議論が河村市長に対して、市長選挙という状況下において有効であるかどうかは不明だ。
しかし、敢えて訴えるとするならば。
「減税政策」が是か非かは議論しない。
それは新自由主義を進めるべきか否かと言ったような政策議論となり、それは個々の価値観の問題であると逃げ込まれる。こういった価値相対化の議論に足を踏み入れるべきではない。
それよりも論点は非常に単純だ。
政策として「河村流減税」は、根拠があるのか?
という一点だ。
つまり、「河村流減税」とは、歳出を削減して、その分を減税に回す。つまり、支出として乗数効果が期待できる歳出を削減し、より乗数効果が期待できない減税を行うことが、市中の経済刺激策になるという「ブードゥー経済学以下の経済理論」は、根拠があるのか?
いったい経済学でいうと、どのような人が支持している、どういった経済理論に準じているのか?
すなわち、河村市長の言っている「正しい経済理論」という言葉には根拠があるのか?
根拠もない経済理論を「正しい」と強弁するのは、これは常識的に「トンデモ」なんじゃないの?
ということだ。
河村氏には説得力のある説明が求められている。
なんて、腰の引けた記事のまとめ方では、生ぬるい価値相対化の泥沼に嵌っているだけだ。
もっとはっきり言うべきだ。
「この4年間ずっと、求められていたエビデンスを提示していない河村市長は嘘つきでしかない」と。
追記:
この辺りは大胆にカットしたら意味が通らなくなったり
変な表現になったりしていますね。
また書き直します。