市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

A.A.K.顛末記 その2

当日必要になるかもと持ち込んだ「メガホン」
使用は、さすがに自制しました。


§2「地域委員会」へのもう一つの視座

 私は「地域委員会」という制度についてはニュートラルです。「河村市長が進めようとしている地域委員会のサブセット+α」について反対しています。まず、この制度については大きなイデオロギー的な方向性の相違があります。これを理解していないと、「地域委員会」という存在が何か無条件に「よきもの」として扱われている齟齬を切り崩せません。

 総務省の進める、大合併と平行して展開された「地域委員会」は<自助=リバタリアニズム>の方向性を持ちます。実は河村市長が指向しているのはこちらです。しかし、同じ制度でも<共助=コミュニタリアニズム>という方向性もあります。この方向で実現化された「地域委員会」はまだ日本には(正式には)存在していません。ですので、「地域自治」といわれ、「協働」といわれて、そこに「共助」のバラ色の未来を描いた方々は、実際に総務省の進めた「地域委員会」の実態を見ると愕然とされる筈です。

 「自助」というのは、「切捨て」と同義であると判るからです。

 河村市長は、地域の自助をおっしゃいますが、それはすなわち「切捨て」でしかありません。「勝手にやって頂戴」と言っているのです。(まあ、敢えて言えば。今でも市政運営について完全に市当局に丸投げしているのだから、各地域について市長がフォローするなんて事は考えられないんですけどね)

 この辺りは、「名古屋市の財政運営に関する有識者ヒアリング―報告書―」ではしなくも明言されている。
( http://www.city.nagoya.jp/zaisei/cmsfiles/contents/0000021/21426/001.pdf )

 地域主権とは、権限や財源の移譲と同時に、右肩下がりの人口減少社会の中で、住民サービスについて「やめる」責任もあわせて地方自治体に持たせることである。

 話は1980年頃に遡る。当時は人口ピラミッドが非常に「良い」形をしていた。この後に到来するバブル景気も簡単にこれで説明できる。そして、いま「上げ潮派」などの経済飄禄玉がバブルの再来を期待しても、絶対にそれが来ない理由もこれで説明ができる。
( http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/kouhou/useful/u01_z19.htm )

 当時から来るべき少子高齢化社会に向けて医療制度、年金制度の見直しが必要であろうという議論はあった。しかし様々な紆余曲折を経て日本はついにここまで来てしまった。すでにタイムアウトだ。国政レベルでは何かを「切り捨てる」しかできない。それが年金制度の制度的破綻であるし、「平成の大合併」と言われた各地方自治体の事実上の切捨てである。

 日本の中で、愛知県、名古屋市というのはまだ恵まれている。巨大な輸出産業を背後に持っている為に、この破綻が現実のものと認識されていない。のんきなものなのだろう。

 ただ、その豊かな名古屋が、同じように豊かな杉並区のように「他地域の負担を軽減する減税自治体構想」を打ち出すのならわかる。けれども、河村市長の施策はまったく異なる。河村市長の構想では他地域に配分すべき税まで簒奪して減税をしようという、自由と放蕩を履き違えたような方針となっている。
( http://www2.city.suginami.tokyo.jp/library/file/sg1926.pdf )

 国も地方自治体もどこかで覚悟を決めて住民に決断を求めなければ立ち行かない。誠意ある為政者であるならば、この実態を広く知らしめて住民に判断を仰ぐべきだろう。

 この文脈で「地域委員会」を見直してみると、「地域自治」の真の意味がわかってくる。「協働」の真の意味も判っていただけると思う。その甘ったるい糖衣の下から出てくるものは、苦い事実であり。行政が面倒を見きれないから、地域で勝手にやってくれという「地域自治」である。また、行政は手を貸さないよ、地域で担い手を都合つけて賄ってくれ。というのが「協働」となるのである。