市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

メルクマールの重要性

 昨日のエントリーでは安岡正篤という非常にアナクロな人物を引き吊り出してきた話になったわけで、お盆で我が父親があの世から帰ってきているなら、息子が安岡論を振り回していて驚いている事でしょう。
 また、私自身も安岡については様々な感慨を持たなくては語れない部分もあります。まあ、そんなところも機会があればお話しましょう。

 昨今の話題について、昨日の文章から一つ引かさせてください。安岡は反動右翼かも知れませんでしたし、そもそも陽明学者だったかもしれません、けれども彼の人間観察は誠に鋭いものがあった。昨日の文章に次のような一節があります。

「歴史的に観察して日本人の素質をその美点から言ふと元来明るい、理想主義の宗教的情緒に豊かな、然し乍ら決してそんな排他的で偏狭なものではなく寛容な人道的精神に富んで、洒落 humour である。
どんなに自国を愛し誇りとしても他国を根から軽蔑し排斥する様な性格とは凡そ程遠い。一時的感情は別である。日本人の生活趣味を見てもすぐ分かることであるが日本人の様に世界中の飲食を愛好して、支邦のでも欧米のでも其等の生活様式を容易に採り入れるような国民が何処にあるだろうか。儒教でも佛教でも基督教でも科学でも音楽、藝術でも何でも他国民の宗教や学藝をこれ程寛容に熱烈に共鳴した国民が何処にあるだろうか」



 中国や韓国・朝鮮の人々が日本の文化に一定の感情を持つ事は理解できる。「我々、日本人は彼等の『足を踏んでいた』のだから。足を踏まれた方は、踏まれたことは忘れられない。踏んでいる方は踏んだ事すら気が付かない事がある。もし、他人の足を踏んでしまったら、謝るしかない、謝り続けるしかない。踏まれた方が理解を示し、忘れようと言ってくれるまで、謝り続ける以外に仕様が無い。踏んだ方が『もう過去に流そうよ』といったところで説得力など無い」
 中国や韓国・朝鮮が日本の文化を一定程度容れないという態度は理解できる。私の知り合いの祖父は、父母を君が代が流れ、日の丸が掲げられた下で殺されているのだから、そのような人に、それらの楽曲、シンボルにバイアスを持つなという方が異常だ。

 だからと言って、日本が中国や韓国・朝鮮の文化を排斥する意味があるのだろうか?

 今、日本の社会の一部が持つこの排斥的な態度は、瑞穂の国の伝統とは程遠いものであると感じる。この日本という国が育んで来た文化を、明治政府が破壊し、明治神宮であるとか靖国神社、各地の護国神社を「でっち上げて」きたように。この排斥的な文化的態度は日本を成り立たせてきたナニモノかとは相容れない異物であると思える。

 これらを、司馬遼太郎は「奇胎」と表現したのだろう。




 鹿島市議が地域委員会について苦慮されている。当然だ。そういったアプローチでは解にたどり着くまでどれほど係るか計り知れない。

 「地域における様々な問題を解決するための制度が『地域委員会』である」とするならば、この定義自体がすでに狂っているから解が得られない。

 「地域における様々な問題を解決するための制度が 『X』 である」

 と、仮に置いてみましょう。この『X』が何であるかは判らない。けれども、この『X』にどのような要素が必要かはすぐにわかる。そう、どのような事柄であれ、現代の社会において、「何かを為そうとすれば必要な要素」というのは直ぐにわかる(こういったことが5秒で出てくるのが本来、SEやら経営コンサルタントなんだろうけどね)

 『X』には、「人、物、金」の要素が必要となる。という事なんだ。

 この内、「地域委員会」にあるのは「金」だけで、「物」も付随しているかもしれないが、一般的には既存の社会的リソースに束縛されている(各モデル実施の施策をこの観点から分類してみると見えてくる)

 そして、一番の問題が「人」なわけだ。

 なので、例のアートピアホールにおける会合のテーマも「協働」と、「人」の動員がテーマと成っていたわけだ。

 「地域委員会」において、この「人的リソースの供給問題」は2重の困難を伴う。それを「地域委員会」だけでなく「区政協力委員」やら「学区連絡協議会」に求めて「誤魔化していた」ところがモデル実施が全市展開についての参考にならなくなってしまうところなのだが。そもそも地域コミュニティの問題もこの「人的リソースの供給問題」が最大の課題なのである。

 ここで、先の定義をもう一度見てみよう。
 「地域における様々な問題を解決するための制度が 『X』 である」
 で、あるならば、この『X』は地域コミュニティに人的リソースを供給してくれるものでなければならない。
 しかし、「地域委員会」は委員の選別に「選挙」を持ち出している。
 と、言う事は。ただでさえ少ない人的リソースを更に選挙で対立させて、マイノリティを切り取ろうとしている。これでは『X』の要件を満たしていない。
 河村たかしは「地域委員会は選挙で委員を選ぶから民主主義ですよ」というような小学生のような事を言っているが、選挙やら多数決の負の側面を知るのがいっぱしの大人というものだろう。マイノリティも含めたすべての地域住民を掬ってゆく必要があるからこそ、各地で導入されている「地域委員会」では選挙を実施しないのだし、私も反対している。それは、民主主義の敗北ではなく現実的な民主主義の導入であり、河村たかしが主張するような形式的な民主主義の押し付けは却って地域の民主主義を破壊する。

 そして、2段階目。これが最大の「地域委員会」の問題点だが、「地域委員会」は実施主体とは成りえない。何故かというと「市長の付属機関」であって、実施主体となれば、その責任が「市長」に係ってきてしまうからとなる。
 地域の課題解決に必要なのは口を出す委員会などではなくて、汗をかき手をつなぎ、足で走り回る実施主体なのであって、だから、「地域委員会」などは要らない。




 と、様々な政策について。特に河村たかしの掲げた政策やら、思いつきで言ってみて、やり残したあれこれをまじめに考えてみれば見るほど、馬鹿馬鹿しくなるだろう。
 なんでも、減税日本ゴヤの控え室で、松山市議と済藤市議が足を絡めあいながら椅子で眠っていたというではないですか。あくまで噂ですし、椅子に座って仮眠していただけなんでしょうけど。
 また、別の市議は選挙期間中に借りていた事務所の賃貸料について、大家さんともめているとも聞きます。選挙事務所で賃貸料に水道光熱費や、特に電話料金は混ぜてはまずいでしょう。
 また、最近新しく事務所を構えられた市議もいらっしゃるようですが、その看板のサイズは適法ですかね?

 と、アレコレ問題は出ています。そして、こういった問題が出てこのブログで私が記事を書くと山田市議が怒るそうですね。幹事としての責任感からでしょうかね?
 その怒りは正当なものですか?


 山田市議。そんな事で怒っていたり、情報漏洩の犯人を捜す暇があるのなら、過去の議事録の一つでも読んだほうが為になりますよ。(別に、情報漏洩の「犯人」なんて居ないし)


 ここで、大切な事は「メルクマール」です。私は安岡からはこの大切さだけは間違いなく教わりました。そして、この「メルクマール」が有ると無いとでは人間の幅が全然異なってきます。河村たかしが何処までも薄いのは、春日一幸という良い師を眼前にしながら、この「メルクマール」を定めるまで我慢が続かなかったからです。

 河村たかしには「メルクマール」がありますか?

 山田市議にお教えしましょう。市議として、今、あなたがやるべきことを峻別するその「メルクマール」を。

 すべての行動に「市民にとって必要だから」と付けてご覧なさい。

 「市民にとって必要だから」「この過去の議事録を精査する」
 「市民にとって必要だから」「地域の人々の意見を聞く」
 「市民にとって必要だから」「この本を読む」


 「市民にとって必要だから」「情報漏洩の犯人探しをする」
 「市民にとって必要だから」「中京都構想を実現化させる」

 おかしいでしょう。あなたの行動や考えに定見がないのは、この基準が無いからです。
 基準が無いからフラフラと腰が定まらない、考えがまとまらないのです。

 誰かさんは「素人」がすばらしいというような事を言われますが、そんなのは小学生程度の知性の言葉です。「プロ」(つまり、他人からお金をもらって何事かを為すもの)はこの態度が必要です。飯を食っていても、風呂に入っていても、「顧客の為を考える」のが「プロ」です。
 市議も市民から市政を付託されて報酬を得る「プロ」です。常に自分の事よりも先ず、「市民のため」を考えることができたら、その時に初めて「プロ」といえ、報酬を誰憚ることなく受け取ることができるでしょう。それができないようであれば、800万円でもまだ過分です。