市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

討論と議論

 現在、「ひろゆき」が炎上しているらしい。

 沖縄、辺野古基地建設反対運動に対する対応を起点とした議論のようだ。ここで「ひろゆき」が炎上しているという現在の傾向は「良い傾向」であると考える。その理由は後に述べる、そもそも「ひろゆき」とはどのような存在であるかという話も含め、少々昔話も加えて「匿名掲示板」や「SNS」とは本質的になにかという話もしていきたい。そしてそれを踏まえて、「議論」と「討論」の相違について考えていくことで、いま、言われている「熟議型民主主義」が成立する条件を押さえておきたい。


 まず、炎上の起点は次の「ひろゆき」のツイッター上の投稿にあったようだ。

 後に彼は「『座り込み抗議』と言われれば24時間座り込み続けていると思いますよね、でも、連続して座り込んでいないのなら、座り込みとかいうのは嘘じゃないんですか」とか言っているが「24時間座り込み続けなければ『座り込み』と言わない」というのは「ひろゆき」個人の定義であって、彼自身言うような「辞書にそのような定義」はない。

 更に「誰も居なかったので、0日にした方がよくない」というのはそうした自身の解釈に依拠した主張であって、抗議行動を続ける人たちに対する「揶揄」と解釈されても仕方がない。(こう解釈するのも、主観的判断でそれ自体を止める事は誰にもできない)

 このツイートを巡って、辺野古基地建設議論が巻き起こっている事は結構なことだが、「ひろゆき」のツイート、意図がそんな建設的な代物ではないことは明白だろう。そもそも「ひろゆき」が沖縄を訪れたのは他の企画のためだったそうだし、その後「ひろゆき」が語る沖縄米軍基地についての発言をみても、彼の理解が付け焼き刃であることは露呈しており、深い考えをもってこの発言をしたわけではない事は明らかだ。

 この問題を巡って本人を始めとする数人が議論を展開している。

www.youtube.com

 この議論は2層に分かれている。

 「ひろゆき」のツイートに対する議論と、この辺野古基地建設に関する議論だ。「ひろゆき」はここで概要「沖縄に米軍基地が偏在することは良くないと思っている、しかしそれは日本の問題であって、別の地域(佐賀県?)が基地を引き受けるなどしなければ解決しない。それなのに『戦争反対』『米軍出て行け』『自衛隊出て行け』と主張するだけでは解決につながらない。そもそもそうした主張は中国を利するだけだ。だから自分は批判した」と述べている。

 つまり、問題となるツイートは「批判」であり「冷笑」であることを吐露している。(ここで初期に「意図はない」と言っていたことが「嘘」とばれる、政治的意図を持って発言したわけだ。また唐突に「中国を利するだけ」などと言ってしまうとこなど後述する「逆張り似非保守」期待の新人ということになるんだろう)

 現在の日本社会における言論空間は貧弱になっている。*1

 その中でも「右派」であるとか「保守」と呼ばれる議論の劣化は目を覆うばかりだ。「WILL」「正論」「月刊Hanada」などに見られる議論は「保守」でもないし「右派」でもない、私には単に「反左翼」、「反戦後民主主義」にしか見えない。主張の根幹をなす理念も、政治哲学もない。そうした軸がない議論が「保守」になるわけもないのであって、その場その場で「逆張り」を行い、民主主義を主張し、政府権力に批判するものを嘲笑しようとする態度でしかない。

 しかし、安倍首相銃撃事件以降、安倍清和会と統一教会の問題や、「国葬」に対する理念なき対応、国民生活に対する政権与党のビジョンのなさなど、こうした「逆張り似非保守」の論陣に信憑性が失われている。

 名古屋市民であれば、「表現の不自由展」騒動と、それに続く河村たかしの扇動、及び「デマに始まり偽造に終わる」大村知事リコール運動(更に最近では、県営空港における自衛隊空港使用料の問題まで)まったく信憑性のない、扇動のための扇動に辟易としていることだろう。

 元TBS報道局長の山口敬之の性的加害問題や、それを扱う被害女性への二次被害など、人道的にも疑問の湧くデマが断罪され、それに加担した者たちの主張は信憑性を失っている。

日本の病理

 写真はこの性被害者を揶揄するイラストを描いた、はすみとしこ(左側でイラストを示しているのがはすみで、イラストには「枕営業失敗」とキャプションが付いている)を囲んで、被害者を嘲笑する「人として如何なものか」と首を傾げたくなる者たちである。左から、長尾敬、杉田水脈千葉麗子花田紀凱、門田隆将、加藤清隆である。

ニュース女子

 次の写真は山口敬之の不起訴をシャンパンで祝福した悪評高い「ニュース女子」の一コマで、左から山口敬之本人、足立康史和田政宗、上念司、最後の一人は誰か判らない*2
 
 長期間続いた安倍清和会政治の下で、戦後民主主義や、権力の健全性維持の為にこそ必要な政権批判に対して、理念や政治哲学もなく「逆張り」してきた「似非保守」論者の主張に対して、国民は、清和会政治の裏側にくっついていた統一教会の実態を知り呆れ返り、思い返せばわかる安倍政治の実態のなさ*3に落胆し、更にロシアのウクライナ侵攻に伴って「核配備」まで口にする「逆張り似非保守」論者の妄言に鼻自み*4、ロシアへの経済制裁に続く産業、貿易の減退、インフレの進行は国民自身の生活が国際的な安定と結びついていることを知る。

 いたずらに対中国、対北朝鮮との対立を煽り(更に対韓国にまで)、根拠のない「核配備」まで主張し、一国平和主義を主張すれば日本は存続不可能になるし、国民にとっても現在の繁栄を維持することはできない。いまこそ排外主義を廃し、国際的な強調と相互理解をすすめるべきことは明白だ。「逆張り似非保守」論者の出る幕は無いのだ。

 今回、「ひろゆき」の発言が大きく取り上げられている背景には、こうした「逆張り似非保守」の選手層の払底を感じる。あの「ひろゆき」でも持ってこないと「左派」や「民主主義」に対抗できないということだろう。私が「良い傾向」というのはこれである。


 そもそも「ひろゆき」とはどのような存在なのか。匿名掲示板である「2ちゃんねる」を設立した人物と言われている。「2ちゃんねる」の優れていたところは、「スレッドフロー」と言われた仕組みで、現在注目を浴びている話題が上位に表示されるシステムであった。これは「あめぞう」というハンドルネームを持った人の作った先行する「あめぞう掲示板」が発祥であり、当時はこのシステムの便利さから、他の「匿名掲示板」参加者が「あめぞう」に集中した。当時「あめぞう」の中で「あめぞう方式」の掲示板作成が研究され、一部ではソースもやり取りされていたようで、そうしたなかで「ひろゆき」も独自に設置したと紹介してきた。

 ここから「2ちゃんねる」住人と言われる人たちが様々な匿名掲示板に現れて、何かというと「続きは2ちゃんねるで議論しましょう」というような「勧誘」を続けていた。(当時「あめぞう」と並ぶもう一つの巨大な匿名掲示板群でも「2ちゃんねる」の紹介やアドレスを貼り付けて勧誘する行為が流行った)こうした行為を揶揄して「 2ちゃんねるに勧誘する奴らは、壺でも買わされてるんじゃないのか」*5とか「2ちゃんねるにいくと壺を買わされるぞ」などと言われていた。やがて「あめぞう」住人や他の匿名掲示板住人が「壺に帰れ」などと言ったことを受けて、「2ちゃんねる」のトップページに「壺」の絵が飾られる。

 そうこうしている間に「あめぞう」に「あめぞうスクリプト」「あめぞうウィルス」と呼ばれる事件が発生する。特殊なスクリプトで「あめぞう」の掲示板システムを機能させなくしたのだ。
 この行為は執拗で、対応、対策しても次々と発生させられ、やがて「あめぞう」住人は「2ちゃんねる」に移り、「2ちゃんねる」は匿名掲示板として隆盛を極める。

 当時匿名掲示板は法的にもグレーゾーンで、他者を揶揄するような、明らかな違法行為でも容認されているような文化があった。流石に住所氏名まで明記した個人への誹謗中傷は、犯罪を助長しかねないことから削除されていたが、そうした違法行為を行うものは、常軌を逸しており、削除しても削除しても、執拗に書き込みを繰り返すなどする。そこで「あめぞう」や他の匿名掲示板が取ったアプローチは「すべてはネタ、嘘である」といういかにもサブカル、いかにもポストモダン的なアプローチであって、「書かれていることはネタ、嘘であって、真に受けるほうが間違い」というものであった。これは今でも私は有効であると思っている。

 匿名掲示板やSNSなどの発言に根拠のあるものなど無い(ほんの僅かな例外以外)匿名掲示板やSNSの記述を、裏も取らずに信じることなどあってはならない。それを最近では主要マスコミでも「SNSに○○などと書き込みがあった」などという無責任な引用を行う。(そして匿名掲示板に書かれたようなことを無批判に信じ込み垂れ流す文化が、やがて海を超えて「4chan」となり、米国国会議事堂襲撃事件まで引き起こす)

 匿名掲示板は人々のストレス発散の「痰壺」であり「排泄物置き場」なのだ、しかし人々は、時に吐き出さずには居られない。何を書いても自由、どのような主張も自由。そうでも言わなきゃやっていられない。そんな心の澱を吐き出す場所が匿名掲示板であって、そこに心の準備もない者が覗けば良い結果にはならない。人間の心の闇は深い。*6

 ところが「ひろゆき」のやったことはこれの逆だった。匿名掲示板を新たな情報ツールぐらいに捉えていたんだろうか。「嘘を嘘と見抜けないと匿名掲示板を使うのは難しい」などと嘯いたわけだ。これって、「匿名掲示板に書かれていることでも事実はある」信憑性があると言っているのであって、そうであるならそこで書かれたことで信用毀損など損害を被った場合、匿名掲示板設置者に損害賠償責任があるということになり、事実「ひろゆき」は「2ちゃんねる」の書き込みによっていくつかの裁判で負けて賠償責任を負っている。

resistance333.web.fc2.com

https://web.archive.org/web/20060620033200/http://resistance333.web.fc2.com/1-3.htm

 これは、「ひろゆき」が「2ちゃんねる」開設以前に展開していたサイトだそうで、当時サブカル雑誌などが喧伝していた「ソーシャル・ハック」の一端を展開したものだ。(これのお陰で、警察が対応してこの方法が使えなくなった(笑))

 「ひろゆき」はこのサイトの手法を真似てか、無責任にも「2ちゃんねる」で負った賠償責任を「踏み倒している」そうだ。

 彼自身が匿名掲示板の社会的位置づけを間違えて、その結果負わなければならない責任についても逃げを打つという姿勢は卑怯であり、そもそもその位置づけ自体が間違っていたことに気が付かないことが愚かだ。

 もう一度言うが、匿名掲示板やSNSに書かれていることは、真に受ける方に責任がある。信じるには一人ひとりが裏とりをする必要がある。「ネット de 真実」を真に受けて、碌な事はない。「デマに始まり、偽造で終わる」といった愛知県知事リコール運動もその口で、河村や高須といったリテラシーのないバカが引っかかった「嘘」でしかない。そしてそれは時に社会的な損失まで生み出すわけだ。

 同様に今、「ひろゆき」の発言を真に受けて、それを批判することもバカバカしい。どうせ彼はよく知りもしないことを単に嘲笑したいがために揶揄しただけで、上記でも言ったように「座り込み」の定義も「あなたがそう思っただけですよ」というひろゆきのよく使うフレーズがそのまま当てはまり、「0日にしたほうが云々」に関しても同様である。その他の「ひろゆき」の発言も底は知れていて、逆に彼が「逆張り似非保守」に重用されるのであれば、それはそれで結構な傾向だ。

 さて、そんな中で次のような動画があった。

www.youtube.com

ひろゆきで学ぶ 詭弁の見分け方」

在特会などのヘイトスピーチに対峙してきた野間易通は、この中で香西秀信の次の発言を引く。

われわれは、言葉によって、自分の精神を、心を護らなくてはなりません。無神経な人間の言葉の暴力に対して、ハリネズミのように武装しましょう。うっかりと触ったときには、針で刺す程度の痛みを与え、滅多なことは言わないように思い知らせてやるのです。覚えておいてください。われわれが議論に強くなろうとするのは、人間としての最低限のプライドを保つためです。本書は、そうした「心やさしき」人たちに、言葉で自分の心を守れるだけの議論術を身につけていただくために書かれた本です。

 心の護身術、言葉の護身術としての「レトリックと詭弁」を身につけて、ヘイトスピーチ歴史修正主義、排外主義や「逆張り似非保守」のデマに対峙すべしということだ。

 これはまったく同意する。というか、当サイト自体が「河村たかし」というデマゴギーに対して、ささやかな針の一刺しをしているサイトでしか無い。
(誰ですか、「対減税日本チェンソーマン」とか言っている人は)
chainsawman.dog


 レトリックと詭弁については、先の動画や書籍に譲るとして

 動画の中で野間の説明に違和感があった「討論:debate」と「議論:discassion」について私見を述べて、「熟議民主主義」につながる条件を押さえてみたい。

 まず「討論:debate/ディベード」と「議論:discassion/ディスカッション」の相違について。これは明確で議論では前提として価値観や言語の定義を整えなければならない。論者の間の価値観(議論によって得たい結論)が異なるのであれば議論は成立しない。一般的に企業の営業会議では「利益の最大化」が「共通の価値観」として置かれるのだろう。その為に具体的にどうするかなら議論になる。(時に「企業の社会的意義」がテーマだ、とか言い始める者も居るが、そういう議論をするのであれば、事前に設定されなくてはいけない)

 これに比較して「討論:debate/ディベード」では、この「討論の持つべき価値観」まで含めて自由に設定ができる。一般的な学校の授業で行われるような「ディベード」では、相互の主張よりも、その主張がもたらす結果、利益こそが聴衆の評価対象となり、この機序に気がついた話者が勝利を得る。
 例えば、「制服は必要か」といったディベードを実施してみると、「不要論」に立つものは「個人の自由の尊重」を主張するかもしれないし、「必要論」に立つものは「親の経済力の差が学校生活に持ち込まれる」という主張をするかもしれない。もし十分に話者が主張を組み立てられたならば、聴衆のうちこの両者の価値観のどちらに親和的かでディベードの勝敗は決まる。
 実は、ディベードの授業では、単に生徒にディベードを行わせて挙手や拍手で勝敗を決めるという以上に、こうした主張の裏にある論理構成や、説得の方法を教える必要があるだろう。*7

 「討論:debate/ディベード」の勝敗は、聴衆の支持によって決まる。これはポピュリズム政治の成立機序とも重なる。しかし「討論/ディベード」において重要なのは、論理展開であったり、ムードや時には「嘘」(または、不確かな事実、一面的な事実)で十分なのであって、どのように聴衆が支持しようが正解でないことも多い。それは国民が求めている「価値観」と、「討論/ディベード」で持ち出されている「価値観」が異なっていても、つまり、論点がすり替えられていても、一般の聴衆は気が付かない事が多いという傾向とも繋がる。

 名古屋市における河村たかしの使ったこの「詭弁」の例を上げるならば、名古屋城天守の木造化復元だろう。<東京オリンピックの際の観光の目玉にする>。と言っていたのであれば、すでに東京オリンピックは終わってしまったのだから、計画を終了させれば良い。<木造天守は儲かる>と言っているが、収支計画は非現実的な前提に立っている。そう批判すると、まっとうな「議論」であれば、もっと現実的な前提で試算し直すとか、別の案を出すべきだが、河村たかしは、じゃあ、木造化しなくて良いんですか<名古屋市民の誇りじゃないですか、将来は国宝になります*8よ>と、文化論を振り回す。「名古屋市民の誇り」というのであれば、「昭和34年、当時の名古屋市民が総工費6億円のうち2億円を寄付して作った、まさに市民の建てた現在の天守を耐震改修して後世に伝えたほうが文化的価値は高いんじゃないのか」と主張すると、<名古屋には観光の目玉がない>などと価値観をすり替える。

 これがこの10年ほど続けられた詭弁だ。

 政治的議論において「価値観の判断」は政治家が行ってはならない。
 それは主権者たる国民、有権者の領分だ。

 なので「自分はこう思う」「自分はこれが重要だと思う」というような政治家は必要ない。「最後は有権者の皆さんが決めてください」という政治家が本物だ。

 こうした有権者が示した「民意」(価値観)を起点として、その価値観を実現する手立てを模索するものが政治家である。ここを勘違いしてはならない。

 実体政治における「議論/ディスカッション」ではテーマとなる「価値観」が示されなければならない。それが民意だからだ。それが不明確なまま「議論/ディスカッション」が行われているとすれば、それは不毛だ。

 例えば地域の開発問題があるとする、他方にはその土地の自然を守ろうとする住民が居るとする。開発が必要とする住民と、自然を守れという住民がお互いに議論しても平行線になるだけだ。価値観と価値観の対立は、個々人が自らの中で決すべき問題であって、政治的に圧力をかける問題ではない。こうした場合、両者の間で討論させるというのも失当だろう。

 結局、開発容認派はどの程度環境に配慮した計画に同意できるか、コスト高に同意できるかという議論になり、環境保護派は、どの程度の開発を容認するかという議論になるはずだ。行政はその両者の間に立って妥協点を探る以外にない。

 名古屋市における相生山道路問題は、この解が成立し、道路開発派は巨大隧道と、環境負荷の少ない橋梁建設という莫大な予算をかけることを容認した。それに対して環境保護派も当局の研究などを受けて道路開発を容認していた。・・・・河村が来るまでは。

 それをひっくり返して、ひっくり返したまま放置させているのが河村たかしだ。
 ヒメボタルは水棲ではなく、相生山には水辺など無いのに。
 ヒメボタルは名古屋城周辺の外堀通りという交通の要衝、さらに上に高速道路まで通っているような環境でも生息しているのに。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

 おっといけない、またチェーンソーを振り回してしまった。

 整理する。「討論/ディベード」では、前提となる価値観の合意などもない、お互いの立論を展開し、刹那的に同意を得られれば良い。そこでは様々なレトリックも活用されるだろう。先に「匿名掲示板では議論は成立しない」といったのは、予めの価値観合意が困難だからだ。

 しかし、政治的「議論/ディスカッション」では予め前提となる価値観の合意が必要となる。価値観が異なれば、議論は収束しない。どちらの価値観が重要かは、有権者が決めるべきで、政治家が決めてはならない。

 理想的には、政党とはこうした価値観を予め党の理念として明確化し、掲げておくもので、国民の政党への支持が、国民の支持する価値観の表明となり、その価値観に沿った議論が為される筈だ。

 政権与党が予め掲げた理念、マニフェストに対して、支持する有権者が多かったからその党は多数派を形成でき、与党となった。であるなら、価値観の異なる野党は、野党として政権運営には直接関わらないが、与党の掲げた理念(国民の多数が支持する価値観)と、実体的な施策の相違を批判したり、その価値観が来した現実を示すことで、現政権与党の価値観よりも、野党の政治理念、価値観のほうが有意であると主張し、有権者に選択肢を与える事もできる。

 政治家が、自身の主観的価値観を掲げて、異論に反論するという行為は幼稚にすぎる。国民、有権者も「主権者」として自らの求める、目指す「価値観」がなんであり、どういった意味を持つものなのか、しっかりと見極める必要があるだろう。

 現在の格差社会は、一部の人々に人間としての尊厳まで放棄させているが、それほど窮乏させられている人々が、更に社会における「選択と集中」を肯定するなど、より自分を窮地に追い込む政策を支持してみせたりする。こういった現象を「肉屋を支持する豚」と呼ぶようだが、これは人間性の深さなのか、はたまた多くの大衆における考えの浅さなのか。



立花隆の「論駁」における言葉を引いておこう。

 論争は、双方の議論が噛み合ってこそ意味がある。Aがある議論を立て、Bがそれに反論したら、Aはその反論を受け入れて自分の誤りを認めるか、それともBに対して再反論するかしなければならない。 一部誤りを認め、一部反駁するという手もある。 さらに議論をつづけるときは、誤りを認めるなどして合意された論点についてはそこでさておき、まだ合意ができない論点に双方議論を集中して、お互いに相手を論駁すべく格闘する。


 論争がそうして正しい形でつづけられていけば、論争はついに両者が合意するところまで行きついて終わるか、それとも、論点をギリギリ論証も論駁も不可能な地点まで煮つめることによって(すなわち、主観の相違への帰着とか、相異なるプロトコル命題への帰着など)、 お互いに「合意できないことに合意する」かである。正しい論争はキャッチボールのようなものである。お互いに論点をやりとりしなければならない。


 

*1:ここで言う「言論空間」とは主にSNS(ツイッターフェイスブックTiktok程度)や新聞、週刊誌、月刊誌程度であって、それ自体範囲が狭いことは自覚している。しかし、日本社会のオピニオンを長い間牽引してきた「月刊誌」において、その議論が劣化していることは明白だろう。

*2:知りたくもない

*3:北朝鮮拉致問題の進展、北方領土交渉の進展

*4:日本の「核配備」などよりも、国際協調の枠組み強化こそが世界の平和と安定にとって有効であることが明確化している

*5:今では説明も不要であると思うが、当時は統一教会霊感商法や原理運動が社会常識となっていた

*6:匿名掲示板では、後述するように議論は成立しない、存在意義があるとすれば思考実験の場であり自説の強度を測る場であり、他者の論理展開を見る場であろう

*7:こうした弊害を避けるために、立論を入れ替えて第2ラウンドを行う例もあるようだ

*8:明らかに「嘘」だ