市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

依法不依人

1.テレビに出ます
2.名古屋城裁判
 2-1.復元と復元的整備
 2-2.下検査について
3.法四依
4.リコール署名偽造問題について

1.テレビに出ます

 名古屋市市長選挙の期間中、東海テレビの取材を受けていたのですが、どうもそれが放送に乗るようです。
 放送日は5月30日(日)の午後1時30分から。(状況によって変わることもあるようです)
 題名が「大名古屋狂詩曲 総理をねらう男と、民主主義」だそうです。
 内容は、市長選挙や河村市長を軸に、今の「民主主義」を考えるというような内容なんですかね?正直言って、取材意図などはあまり聞いていませんでしたので、私がどのような扱いになるのかは不明です。
 ちなみに、私の自宅も取材されておりますので、ひょっとするとこのブログがどのような環境で書かれているか、「コミンテルンの秘密基地」とはどんな様子かわかるかも知れません。
 

2.名古屋城裁判

名古屋城住民訴訟の第二回控訴審が5月25日に行われました。

2-1.復元と復元的整備

第一回控訴審において、私達は名古屋市会における議論を証拠として提示しました。

甲第39号証 21-3-8名古屋市議会本会議(名古屋城部分)
https://app.box.com/s/9gd7hk2158ioeqn7pxa5a5xnylf6acky


名古屋市名古屋城の木造復元を「復元」と言い張ってきたのですが、文化庁の見解としては「復元的整備」であると指摘されているとの報告が、名古屋市会における議論で明らかにされました。名古屋市竹中工務店の結んだ「基本協定」でも、目標は「名古屋城天守閣の木造による復元」であって、「復元的整備」ではありません。この両者は法的には全く別物であって、この訴訟に関わる文化庁有識者会議も「文化財復元検討委員会」で、「復元的整備検討委員会」ではありません。名古屋市が「復元」といってきたものを「復元的整備」に変えるのであれば、竹中工務店との基本協定も書き直す必要があるでしょう。というか、技術提案プロポーザルの入札もやり直しにしなければならない。

「復元」か「復元的整備」かは、非常に重要な相違点なんです。

ところが、名古屋市側の代理人である北口弁護士は当日法廷で「復元か復元的整備かは感覚的な相違である、ひとの捉え方である」などと発言されたんですね。
これ、とんでもない発言で、まず上にも述べたように事業の根幹に関わる相違であるという認識がないことと、「復元と復元的整備」に「法的定義がない」というような主張をされたわけですが、今回北口弁護士自身が、控訴審で提出された証拠書類、「乙26号証 史跡等における歴史的建造物の復元等に関する基準」というのは、他でもない文化庁が「復元」と「復元的整備」について、基準を定めたものであって、「復元と復元的整備の相違を示す法的定義」に他ならないのですよ。

https://app.box.com/s/ndyhtztww132a40j3cs11e2wjo1wp505

名古屋市代理人である、北口弁護士は、ご自分で提出された証拠書類を読んでいないんでしょうか?

2-2.下検査について

その北口弁護士が書かれた主張の中に「(下検査は)検査の精度を軽減するものではない」という記述があったわけですよ。一審においては、私も遠慮しておりましたが、あそこまで論証しても、根拠もないような名古屋市側の主張を容れる、挙句の果てに私達の主張していない「竹中工務店の責任」なんて論点まで捏造されるのであれば、もう裁判所を信用なんぞしませんし、遠慮もしません。言いたいことは言う、おかしな時には声を上げるという方針に切り替えましたので、この「精度を軽減するものではない」の「精度」とは何かを聞くとともに、そう主張される根拠を求めました。

北口弁護士がそう思うってだけなら、そんなものは裁判とは言えませんでしょう。

そもそも「下検査」なんて言葉、業務は今回の事業における契約書や仕様書にありませんし、名古屋市の様々な条例、規則、契約にもありません。

お話を聞くと、どんな業者であっても、一日も早く検査を終えて代金を払ってほしいに決まっており、それでも数日間の検査に付き合う。それなのに、なぜ竹中工務店だけは8億4千万円以上の業務量の設計について、「下検査」なるものをして、たった1日で検査を終えてもらえるんだ。それなら、自分たちの業務についても「下検査」して欲しい。という意見があります。もっともな話です。私も仕事として「検収」を上げるために、文字通り血も滲むような苦労をしたこともあります。(72時間、不眠不休で検収をしたこともある)

今回、名古屋市は「監督が行う下検査によって、検査は一日で完了した」と主張しているわけで、こんな判例が通用したら、今後全国の公共事業で、検査などおざなりにおこなって、「監督による下検査」で検収を上げる事例が横行する。それって、会計法*1という法律が無効になる、予決令*2と呼ばれている勅令が無効になるって話なんだ。そんな無茶な判決はないだろう。

一つの法律、一つの勅令を無効にするような判例を示すのであるなら、それなりの根拠が必要だろう。

3.法四依

さて、いよいよ注目の「リコール署名偽造問題」について話したいのだけれど、その前提になる話を一つしておきたい。

上の名古屋城裁判においてもそうだが、日本の社会というのは法治主義よりも、人治主義、徳治主義が重視されるのか、書面に書かれた文章よりも、権力者、権威者の判断の方が重く扱われる傾向があるように思えてならない。名古屋城裁判においては、私達が提出した甲号証に記載された内容を素直につなげれば、名古屋城木造化における基本設計は成立しておらず、その責任は河村市長にあるのは明白だ。名古屋市はその反証に根拠となる書類を提出してない。しかし、名古屋市のこうした根拠のない解釈、または代理人の解釈が判決に入れられ、私達の敗訴となっている。

以前にもこのブログで書いたが、私は父親から「交通信号を守るのは、自分の身を守るためでもある」と教えられ、それ以来、法律の文言を守るのは、単に遵法精神の尊重だけではなく、自分自身の身を守るためであると認識している。権威も権力も、そして実行力もない(というか、実行力など行使したくもない)一般の国民は、法律や契約書に書かれた文言というものを守ることによって、社会の安定を維持し、それは同時に自分自身を守ることにもつながる。しかし、そうした明文化された事柄を、権力や権威を持ったものが恣意的に歪めるなら、そしてそれを司法が許すのであれば、社会など安定しないし、国民も自らの安全を守るすべを失う。国家が国民を守らないのであれば、国民も国家など必要としなくなる。かくして、文明国は崩壊する。国政においてもそうで、このお城裁判においてもそうだ。「ひと」の恣意的な解釈よりも、予め明記された法律や契約書の文言を尊重しなければ「ひと」の集団は文化的に維持されない。

どのような権力者、権威者の発言であろうと、根拠がないのであれば信憑性はない。なぜなら、今、権力者、権威者によって恣意的な法解釈が行われるのであれば、それを守ったところで、いつまで有効であるのかわからない。権力者、権威者の気が変われば、法の適応が変わるとすれば、誰も安心して明日の我が身の在り方を予想することなどできない。

(そもそも権力の源泉というのは、この恣意性、裁量権にこそある)

実は、仏教においてもこうした問題は考慮されていたようであり、それを「法四依」という。

・依義不依語(義に依りて語に依らざれ) - 義は仏の実義、語は人師・論師の言葉。意味に依拠して、文辞に依拠しない。

・依智不依識(智に依りて識に依らざれ) - 智慧に依拠して、知識に依拠しない、釈尊の真の智慧をよりどころとして、人の浅い知識によってはならない。

・依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ) - 「了義経」とは仏語。真実・究極の道理をそのまま説いた経典であり、大乗仏教系では大乗経典をいう、釈尊の教えが完全に説かれた経典に依拠して、意味のはっきりしない教説に依拠しない。

・依法不依人(法に依りて人に依らざれ) - 「法四依」の中でも最も有名だろうと思われるけれども、真理(法性)に依拠して、人間の見解に依拠しない。


私は、現在大乗仏教に対しては懐疑的なんだが、この考え方は正しいように思える。一説には仏教教団の維持のためにこうした見解が構築されたとも言われており。組織や人間社会を文化的に維持するための知恵である。

法の不遡及の原則」や「法治主義」というものは、文明を維持するために必要な措置であり、そのためには「権力者、権威者の発言であろうと、それに無批判に依存してはならない」という原則を守らなければならない。

こうした千年以上の歳月を生き抜いてきた知恵を根拠としても、法に依るべきであり、人に依るべきではない。人に依る「パターナリズム」という在り方には、強度がないことが伺える。

4.リコール署名偽造問題について

最近ツイッター上に、マイナーなアイドル活動をしていた女性たちに、「俺が売ってやる」という自信満々の男が近づいてきて、口で上手いことを言っていたので本気になりかけていたが、その男の名前をインターネットで検索したところ、詐欺被害のページがヒットした。というマンガが掲載されていた。ひとは簡単に嘘をつける。そうした嘘に騙されないためには、そうした言葉を頭から信じるのではなく、ひと手間かけた自己調査が重要となる。

何事によらず、頭から信じること(逆に頭から否定すること)を止め、一旦保留して、調べ、確認していく事が重要な情報リテラシーというものだ。

今回の知事リコールにおいても、「天皇陛下に対して知事が失礼な事を行った」といまだに言い募る人がいるが、そもそも知事リコールの請求の趣旨にそんな論点はない。

驚くべき「愛知県知事リコールの請求の趣旨」
ichi-nagoyajin.hatenablog.com

誰かが言っていたことを「真に受けて」いるだけにすぎないだろう。誰かの発言を真に受けて、あたかも自分の考えのように繰り返す姿は、あまりにも知恵が足りない。

そもそもの知事リコールの趣旨自体が、これほどいい加減なものだったのだから、それに対して県民、有権者の支持が集まらないのは当然の事であって、有権者の支持が集まらなかったがために、署名の偽造を行う必要があったという事なんだろう。

河村たかしにしろ、高須克弥にしろ、その言動を見ればわかるように、小人そのものだ。彼らか「天皇陛下」と口にするのも汚らわしく感じる。本当に必要な情報、信用するに足る情報を選別する能力がなければ、自分の人生を無駄にすることになる。

さて、リコール署名偽造については、そのアウトラインがハッキリとしてきた。ここで注目したいのは田中事務局長が、次男や自分の妻を違法行為に加担させたということだ。

次男ぐらいならまだ理解できるが、妻となると理解しにくい。ここで一つの仮説は、「ひょっとすると、田中事務局長は、佐賀での署名偽造が違法行為になるとは思っていなかったのではないか」ということだ。

これは、一部で報道されていたような「充足数に達しなければ、署名簿はただの紙だ」という発言とも符合する。

実は署名に対する不正行為は、署名収集の当初から行われていたのではないかという情報がある。どういうことかと言うと、今回、知事リコールのための署名用紙というものには2種類の用紙が有り、請求代表者が立ち会う大規模な会場で使われる1枚に1筆を書くタイプのものと、各地の受任者に郵送した1枚に10筆まで書き込めるタイプが用意されていたようだ。各地の受任者にはこの10筆まで書き込めるタイプの用紙を送ったわけだが、知事リコール事務局は、各地の受任者に署名収集の説明を行っていない。受任者は自分と同じ選挙区の住人の署名しか収集することはできない。友達や知り合いなど、異なる選挙区の署名は無効になる。事務局の説明の不足から、10筆のタイプの署名用紙に、こうした他地区の署名が紛れ込む事が良くあったらしい。正当な処理を行おうとするなら、他地区の署名については削除(取り消し)を行い、その地域の受任者か、請求代表者によって、改めて署名をして貰う必要がある。
しかし、どうも知事リコール事務局では、こうした手間を省いて、勝手に別の用紙に転記し、指印を押していたようなのだ。

その際には、「知事リコールに賛同してくれている署名を無駄にしないために、無効にならないよう転記したのであって、これは良いことなんだ」というような説明がされていたようだ。

天皇陛下のための良いこと」であれば、違法行為でも許されるということなんだろうか。

上で書いたような、法よりも人、パターナリズムが暴走すると、こうした規律のない行動が生まれる。

知事リコール事務局の二階で、こうした書き写し作業、指印を補正する作業が常態のように続けられていたらしい。こうして一件二件書き写し、指印を押しているうちに、そうした署名の捏造に対する忌避感が鈍っていったんだろう。なにせ、「天皇陛下のため」なんだから、そうした行動に疑問を投げることは、不敬に当たるぐらいに捉えていたのかもしれない。

この上に、「充足数に足りなければ、署名はただの紙」であるとか「充足数に足りなければ、選挙管理委員会は調査などしない」といったような、根拠のない、緩い、身勝手な法律解釈が定着すると、そこに30万や40万をかける行為まではほんの一歩の差だったのだろう。

田中事務局長は、違法性の認識もなく、安心して、ーーそして、ひょっとすると、天皇陛下のための良いことだとまで思ってーー 佐賀における偽造署名にゴーサインを出したのかもしれない。

さて、9月(下手をすると、開始早々の8月末)の段階で、こうした書き写し作業は、選挙管理委員会のチェックにかからない。または、その違法性追求は受けない。

などとする法律解釈を、田中事務局長に吹き込んだのは、誰なんだろうか。

そうしたノウハウをもった人物こそが、「張本人」なんだろう。


*1:昭和二十二年法律第三十五号

*2:昭和二十二年勅令第百六十五号