市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

名古屋城についての事実確認と現状の推測(4)

まず、虚心坦懐に伺いたい。

名古屋城天守を木造化することに、あなたは心躍るものを感じますか?
それが素晴らしい事であると思いますか?
そこに一片のためらいは感じませんか?

この問いかけへの回答、それがこの問題の根底に眠る問題だ。


その前に直近、判明した事実について指摘しておこう。

1.市民との議論を隠ぺいし、民主主義を圧殺する「民主主義破壊、発祥の地ナゴヤ!」

名古屋市オンブズマンが開示請求した資料によると、本年1月に開催された名古屋城説明会の質疑応答について、名古屋市竹中工務店の回答部分について非開示とするそうだ。

名古屋城説明会 市・竹中応答部分議事録作らず アンケートへの返事も作らず : 市民オンブズマン 事務局日誌
http://www.ombnagoya.gr.jp/tokusyuu/goten/index.htm#180601
http://www.nagoya.ombudsman.jp/castle/180620.pdf

特に名古屋市は会場で明白な「虚偽発言*1」をしているので、議事録が作れないのかもしれない。

しかし、公式ホームページで次のように明記している。

※市民向け説明会やシンポジウムでの質疑応答、会場で配布したアンケートへのご意見などにつきましては、後日こちらのページに掲載します。

名古屋市:平成29年度開催 名古屋城天守閣木造復元 市民向け説明会・シンポジウム(観光・イベント情報)

なぜ、名古屋市は市民にこのような明白な「嘘」を付かなければならないのだろう。

特に、最終日「シンポジウム」においては、満足な質疑応答の時間がないにもかかわらず、減税日本の支援者(名古屋市民でも無い)の発言を認め、市民の発言機会を奪っている。
2018-01-28 名古屋城天守閣木造復元「シンポジウム」
それでも会場運営の都合を考慮して、「アンケートに質問を書けば必ず回答する」という市当局の発言を信じて、アンケートに質問項目を書いているのだ。
そうした約束を守らないのであれば、今後、こうした機会で市当局の都合など聞く必要はない。当方の納得いくまで会場を利用させていただいて、質疑応答に付き合ってもらうまでだ。当然だろう。帰してしまったらこうやってごまかされてしまうのだから、回答が得られないのなら帰す必要はないだろう。(こうやって、暴力には暴力が蔓延るのだ!)

集計し、公表するとした市民の発言、意見を圧殺することは暴力だ。(すでに、市当局は私たちの意見を委員会報告から削除するという操作を行っている)約束を守る、手続きを守るという事は、行政事務の執行自体を守ることの筈だが、すでにそのレベルすら守られていない。

暴力を持って、横暴を持って、民主主義を破壊しているのは、誰だ!

この件は名古屋市会において、うかい春美議員が個人質疑で質している。
また、私も担当部署に事実関係について聞いており、今週半ばまでには善後策について回答が得られる(はずだ、名古屋城説明会当日の録音は市当局内に残っていると回答しているので、議事録は作成可能の筈だ。この回答までごまかされたら・・・(以下、略))

追記(6月27日):
名古屋城管理事務所から入電
市民説明会では録画があるので発言は記録されている。
議事録は作る。
とのことだった、いつ頃までにできるのかとの確認に
時期については再度回答させてほしいとのことだった。
また、シンポジウムのアンケートについても回答を作成するという事だ。
その際、回答ができるできないに関わらず、主観的にアンケート判別し、公表しない物があるのはよくない。とりあえず、アンケートは全て公表し、回答できるものについて回答も公表すべきと申し入れた。
こちらの公表時期についても再度回答とのことであった。

2.またまた怪しいシミュレータ

毎度おなじみの怪しいシミュレータがまたまた出てきた。

名古屋城天守閣木造復元に向けた調査業務

いわゆる名古屋城天守にかかる約505億円の費用について、名古屋市民の負担を求めない、市税を使わないとしていることから、その収支計画について求められた当局が、またまた「あそこ」にお願いしてシミュレータを作ってきたわけだ。

ちょっと、面白い事に気づかされる。
平成21年の「減税シミュレータ」の報告書では社名と作成日が表紙に大きく明記されている。(普通はこうした体裁をとるだろう)
http://www.city.nagoya.jp/zaisei/cmsfiles/contents/0000075/75298/houkokusho.pdf

ところが平成26年の報告書に社名は出てこない。
http://www.city.nagoya.jp/zaisei/cmsfiles/contents/0000075/75348/houkokusho.pdf

そしてこれについて
2015-02-16 減税検証シミュレーションに対する疑惑
という指摘があったからかどうかは知らないが、検討プロジェクトチームに有識者を加えて平成29年に再度シミュレートしてみると、1128億円が霞と消えてしまったわけだ。

2017-11-18 霞と消えた1128億円

で、今回の資料を見ると、やはりタイトルに社名も作成日も書かれていない。(素直だね)
とくに、社名も変わったばかりで、傷を付けるわけにもいかないんだろうなぁ、などと思ったりする。

このシミュレータについて3つ指摘したい。

1.「人口は、国立社会保障人口問題研究所の全国の将来人口推計結果を反映」としている。それを参照すると、平成27(2015)年に12,709万人だった人口は、平成77(2065)年には8,808万人と減少する。(中位仮定)総人口において69%が減少するにもかかわらず、来場者はそれほど減らないとすると、実質では144%の来場者増が期待されなければならない。一般的に観光地というものは陳腐化すれば来場者は減る傾向を見せるにもかかわらず、このように「自然増」するシミュレーション結果になった理由は何か?

2.姫路城は今回改修を行っている。総工費は約30億円だそうだ。前回改修が行われたのは昭和36年だそうで、おおよそ50年に一回、30億円程度の改修が必要と考えられる。ちなみに姫路城の大天守延床面積は2,409平米で、名古屋城のそれは4,564平米だ。こうした修繕費についてはこの収支に含まれていない。「10年ごとに修繕を実施。(市の予算を4回に配分)」としている。つまり、すでに公約を破って市民に負担を求めている事にならないか?

3.職員人件費について、現状ベースの人員配置を想定しているが、市長は身障者対応として介護職員の配置を約束している。これが考慮されていない。また、石垣調査について調査センターの設置も議論に上っているが、こうした人員の考慮も無い。

こうした疑義を述べたうえで、このシミュレータが正しいとしても、基本推定で収支結果が15億円の赤字で、低位においては65億円の赤字ときては、事業を止めるべきだろう。

まあ、どうせ当局は「精一杯努力する」とか言うのだろうが、仕事において努力なんぞして当たり前で、結果を出さなければ事業は成立しない。現に今、例えばこのシミュレータが言うように「民間活力によって収益が図れる」というのであれば、その「活力」(冷笑)をもった「民間」*2を連れてきて、出資させるべきだろう。それができていないのであれば「努力が実を結んでいない」(嘲笑)民間が乗らないのは、収益性が乏しいからだ。こんな話、深夜のファミレスでやっていたら「怪しい儲け話」扱いされる。(嗤笑)


さて、といったところでこの名古屋城天守木造問題。いや、もう「河村城騒動」と名を替えよう。
いつまでも「名古屋城天守」として、その名に泥を塗ることは無い。

「河村城騒動」の根源を覗くと、こうした事業の進め方における反民主主義的な在り方も、収支計画におけるいい加減さも、表層的な事であってどうでもいい。私は「河村城騒動」で次に述べるような良識が、名古屋において「犯されている」と感じられてならない。そしてその主犯は名古屋市長 河村たかし ではあるが、それを利用しようとした「河村城騒動」に肯定的な事業者や中日新聞は共同正犯だ。

あなた方は、自分の何の為に、何を犠牲にしているのか?

この文書の当初の問いかけをもう一度行おう。


名古屋城天守を木造化することに、あなたは心躍るものを感じますか?
それが素晴らしい事であると思いますか?
そこに一片のためらいは感じませんか?


ヴェニス憲章」を根拠とすれば、木造天守と現コンクリート天守に価値の相違は無い。
或いは、木造天守と現コンクリート天守のどちらが良いと感じるかは、きわめて主観的な話題であり、議論の俎上には上りにくい問題かもしれない。そして、民主主義はそうした問題にこそ、公平でフェアな議論を求めるのであり、その議論を受けた民意の在り処こそ実現すべき政治的目標とすべきだ。

木造天守にも価値はあるだろう。(私には理解できないが)
そして現コンクリート天守にも価値は有る。

すでに述べたように、名古屋市文化庁に提出した保存活用計画において「本質的価値」を独自に定義、現コンクリート天守の存在を無視している。

2018-02-04 「特別史跡名古屋城跡保存活用計画(案)」における欠落

また、先日批判した「木造天守閣の昇降に関する付加設備の方針」において「過去の天守閣と今回の木造復元の同一性について、歴史的な分断を感じさせない復元を成し遂げる事が、事業の価値を決定づける大きな要素となる」と言っており、オリジナルが焼失した歴史的事実や、現コンクリート天守の存在について、意図的に隠ぺいすること(「歴史的な分断を感じさせない」)が事業の価値と明言している。*3

2018-06-19 名古屋城についての事実確認と現状の推測(番外)

次のヴァイツゼッカーの言葉が予言のように響く。

 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。

 (リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領 1985年5月8日 ドイツ連邦議会における追悼演説。「荒れ野の40年」より)


私は昨今の「ネトウヨ」と呼ばれる者(その最悪の現出は「在特会」という差別排外主義を明言する者たちだ)を研究する中で、彼等の「視野狭窄」に気が付いた。

実はこうした「視野狭窄」は「ネトウヨ」だけの問題ではない。いわゆる「左翼・市民運動」の中でも、こうした視野狭窄は見られる。また、日本だけでなく、ヨーロッパにも見られる傾向であり、米国のトランプ政権など、こうした「視野狭窄」の結果生まれた政権であると思われてならない。こうした「視野狭窄」が生まれる原因については欄外にメモしておく。*4この「河村城騒動」も視野狭窄の結果であり、彼/彼らの視野には現在、厳然とある名古屋城天守は見えていないようだ。(将に「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」だ)


木造天守復元という事で、掛川城大洲城の事例を持ちだす人々がいる。
掛川城大洲城の事例が参考にならないのは、その事業規模があまりに異なる事だ。建築物の大きさとしても全く異なるし、それに伴って事業費も文字通り桁違いだ。そしてその負担も公費ではない。
そしてなにより、掛川城大洲城も、すでに天守建物が失われた状態からの復元であって、名古屋城のように曲がりなりにも天守がすでに復元されている状態では無かったわけだ。(復元がコンクリートでは駄目だとか、木造にすべきだというような主観的価値観を押し付ける行為はそれ自体が幼稚ではないか?、などというと、「なら、コンクリートが良い」というのも主観ではないのかという反論が来るだろう。そうだ主観の押しつけだろう、では、立て替え代金は木造化を主張する人々が支払えば良い。公費に頼るな。とでも応えておこう)


ここで、決定的な視野狭窄は「現天守に愛着を持っている人々」の意見が全く考慮されていない事だ。

少なくとも、昭和34年、市民の発意と寄付によって再建された現コンクリート天守を破壊するのであれば、そうした現天守に愛着をもっている人々をも納得させられる説明が必要な筈だ。

2万人アンケートで示された理由は「耐震改修をしても40年しかもたない」という根拠のない、また誤った意見だった。(「耐震改修」は建物の寿命に直接かかわる改修ではないことはすでに指摘した、そして先行する大阪城の事例である耐震改修+長寿命化が効果を上げている事も)

こうした子ども騙しによって現天守が破壊され、昭和34年当時の「民意」が無にされる。

そうした先人の事績が「意味の無いことと」「ゴミ」*5として廃棄される。

こんな歴史を軽視する姿勢も無い。こんな文化を心得ない態度も無いだろう。

名古屋城天守を「歴史的文化財」と看做すとすれば、その歴史の中に厳然とある「第二次世界大戦」という事実、「名古屋大空襲」という記憶。そして戦後復興期の「名古屋城天守復元」という思い出。ヒトによっては、自身の思い出であるかもしれないし、自分の父や母、祖父や祖母の思い出かもしれない。そうした思いを無視して進められる「歴史文化事業」とはなんなのだろうか。その「歴史」が真っ当なものであると言えるわけがない。

仄聞するに、この「河村城騒動」に熱心なグループに「旧町名を復活させる」運動をしている人々もいるらしい。ちょっと前に流行った「昭和ノスタルジー」や「三丁目の夕日」的な復古主義、懐古趣味なのだろうか?

・・・・まったく大きなお世話だ。

町名変更に伴って、その街の過去を消し去っている場所もある。
現代では有り得べからざる過去を、その町名に背負わされていた場所もあるのだ。

過去の記憶というものは、都合の良いものばかりではない。
そうした重い過去まで、彼等は背負う覚悟があるのだろうか?

とてもそうは思えない。能天気で一面的な「ノスタルジー」に浸っているだけだ。

町名というものも、重層的なものであって多面的なものだ。
彼等はその中の一面だけを切り取っているにすぎない。主観的な好悪で「町名」という公器をおもちゃにしているにすぎない。幼稚な運動だ。(もし、これらの口車に乗って町名変更すれば、公費、私費、どれほどの費用がかかるのだろうか)

重層的な街の記憶の中で、一部の人間がノスタルジーを感じ、受け入れられる過去だけを選別するとすれば、それは立派な歴史改ざんであり、歴史修正主義だ。

歴史修正主義者の醜悪なところは、自らの視野狭窄に気付きもせず、他人を踏みつけにして、悪びれない事だ。

足を踏んでいる者には、足を踏まれている者の痛みは判らない。


視野狭窄は、それが行政の長であれば破滅的に醜悪となる。

「減税によって名古屋に企業、人を呼び込む」

つまり、周辺市街の富を名古屋が奪って、それで地域は活性化し、豊かになるのだろうか。
名古屋だけの事に視野を狭めてはならない。

「議員報酬、職員報酬を減額して市民によりよい福祉を行う」

現実はどうか、議員報酬を半減してもその効果額は6億円だ(800万円×75人/至極簡単な計算だ!)

追記:6億円でもまとまった金額だと思う人も居るだろう。
なら、基本設計費として支出された8億4千万円はまとまった金額ではないのだろうか?
まだ名古屋城天守の必要とされる仕様が確定していない段階で、基本設計完了として8億4千万円を支払ってしまう行為はどれほど重要なのだろうか。リコール署名まで集めてこの議員報酬の正常化に抗した人々は、この違法な基本設計費の支払いには口を噤むのだろうか!
それは公平な態度と言えるのか!
*6

名古屋市の総予算は約2兆円。どの程度の効果があるのか?
言葉に捉われてはならない、現実を直視するべきだ。

視野狭窄に陥ってはならない。

平成の今の名古屋市民は、昭和34年の名古屋市民に、どのように「河村城騒動」を説明すればいいのだろうか、釈明すればいいのだろうか。

他人を踏みつけて自分の夢を実現することは善き事なのか。



追記:
雑な「修復」が文化を破壊する。

「修復」で彫刻が台無しに スペインの教会で
スペイン北部の教会は、16世紀に作られた木彫りの聖ジョージ像の清掃を美術教師に任せた後に、このことに気付いた。

「修復」で彫刻が台無しに スペインの教会で - BBCニュース

2012年にはスペイン北東部ボルハで、イエス・キリストの壁画が「修復」作業によって大きく改変され、世界的な話題になった。



追記:

ジャパン・オペラ・フェスティヴァル2018 名古屋城野外オペラ「トスカ」
オペラに関心のある方なら一度は耳にしたことのあるジャコモ・プッチーニの名作「トスカ」。1800年6月、ローマの恐怖政治を背景に繰り広げられる、美しくも儚い恋の物語。
今回の「TOSCA」は本場イタリアから一流の演出家・歌手・オーケストラ・合唱団・舞台スタッフをお招きしての公演となる。舞台は名古屋城天守閣前。日本の3大名城である名古屋城天守閣を借景とした美しい舞台から、滅多にみることのできない本場のオペラを、最高のステージでお届けする。

ジャパン・オペラ・フェスティヴァル2018 名古屋城野外オペラ「トスカ」 | イベント | 名古屋観光情報公式サイト 名古屋コンシェルジュ



2014-06-17 南京事件に対する法的に認定された事実、客観的事実

*1:虚偽発言の一例は、私が「名古屋市天守の長寿命化について検討を行ったのか」という問いかけに対して「行った」と発言した部分だ。そのような予算措置はされていない。つまり、根拠のない虚偽発言だ。まさか担当者が「長寿命化の本を読んで、これ出来たらどうだろうかと考えた」事をもって「検討した」とでも回答するつもりだろうか

*2:別名「バカ」

*3:驚く事に、この文章は「天守閣部会」に提出された資料だそうだ。こんなレベルの文章。中学生でも及第点をもらえそうもない作文、を弄ぶのが、現在の「天守閣部会」の文化レベルなのか?これで「有識者」?

*4:人間が一生に触れられる情報にはおのずと限界がある。インターネット以前においては、こうした情報は印刷物によって得られるものだったのだろう。そしてそうした印刷出版物は両論併記などを基本的スタンスとしていた(文芸春秋など)か、購入する段階ではその論旨の方向を把握できておらず、読んでみて初めて自分の意見と真っ向異なる事を知ることが多かった。こうした傾向はしかし、活字によって自分とは異なる意見に触れる機会が得られたという事だ。しかし、インターネットが発達すると、ヒトは従来以上の情報に触れることができるようになり、選別も容易となった(本とは違ってただのコンテンツであれば読んでいる途中で自説と異なれば先に進まなくても痛痒感は無い。なにせタダなのだから)。こうした場面で、ヒトは自分が信じる意見、理解しやすい考え方に傾きやすい。自分の思っている事と異なる立場の意見とは距離を置こうとするし、自身の意見を否定するような物には触れることすら嫌がる傾向がある。結果としてヒトの思想は、自分が当初思っていた方向に固着しがちとなる。その方向性は右だろうが左だろうが関係がない。例えばインターネット上で「南京大虐殺 嘘」というような検索を行えば、所謂「南京大虐殺」に対する否定論が呆れるほど提示される。その中にはすでに「南京大虐殺否定派」の人々ですら信じていないような事柄についても、もっともらしい文章で、もっともらしい体裁で表示されている。中学生程度が読めばコロリと騙されることだろう。(右だけではない例として「トリチウム 危険性」で検索しても同様に怪しげな文章が山盛り出てくる)こうした洪水のような情報の中で必要な事は、何でもかんでもすぐに信じてしまわない事だ。自分を含めて、自分が信じている事についても疑問を持って当たる事だ。自分に疑問を持ち、内部的に反省する。こうした内省の姿勢が無ければ学習は進まない。学習とは自我を変遷させる事であって、自我に固執することではない。自我に固執するものは、視野狭窄に陥りやすい。自身の存在を脅かすような事実を見たくないのだ。内省性に開かれているものは常に新しい知見に反応でき、自我の変革を楽しむこともできる。しかし残念なことに、ヒトは自我が大切なのであり、そこに安穏と固執していたい。その結果としても視野狭窄に陥りやすい。

*5:最近では「上のコンクリートが邪魔だ」と発言したそうだ

*6:臍でも噛んでろ!