市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

Allegory of the long spoons


以前、「長い箸の話」を引いた

 2012-04-24


 この時は出典に至らなかったが、どうもそれらしきものに当たったようだ。

 Allegory of the long spoons - Wikipedia

 http://articles.chicagotribune.com/2012-08-23/features/sns-201208221330--tms--godsqudctngs-a20120823-20120823_1_remarkable-story-heaven-text

 404log • 「ドラッカーの95歳の詩」の例のように、「名言」や「いい話」の中には出典があやふやなまま流布してしまっ...


 出典はユダヤ教にあるらしい。

 また、このような動画もあった。

www.youtube.com

 イラストとかも。

 Chicago Recovery Alliance: 'long spoons' allegory cartoons






 こんなものもあるようだ。
 華厳ゲーム実験

「地獄と極楽」という話がありますが、法話によく使われますのでお聞きになった方も多いことと思います。既におききの方も少し我慢しておつきあい下さい。

まず、地獄からお話ししましょう。地獄というのは、この世で悪い行いをした人が死んだ後行く所だとされ、そこは色々な苦しみが満ちあふれていると云われています。しかし、地獄の様子を見てきたという人の話によりますと、地獄にもすばらしいご馳走のお膳が並ぶときもあるのだそうです。そして、地獄の住人がそのお膳について整然とならんでいるのですが、かわいそうなことに誰もそのご馳走を食べる事が出来ないのだそうです。実は持っている箸が1メ−トルもあり、ご馳走をつまんでも箸が長すぎて食べる事が出来ないのだそうです。

一方、極楽に行ってみると、ご馳走のお膳や1メ−トルもある箸は地獄と全く同じなのだそうですが、極楽の住人は長い箸でつまんだご馳走を自分の口に入れないで、自分の向かい側にいる人の口に入れて、お互いに食べさせあって、ニコニコ食事をしていたそうです。

この話は勿論作り話ではありましょうが、私達の日常生活を反省させる良い話だと思います。仏教では「智恵」ということを説きますが、この極楽の住人はまさにその智恵を持っていると言えるでしょう。(略)

 私の書いた文章より良い。
 「三尺箸の譬え」とか「三尺三寸箸の譬え」とかも言われるらしい。



 この話の含意は、勿論、利己主義に陥らず、利他主義に開かれればヒトは相互に活き易くなるのではないかという知恵、提案だろう。

 しかし、利己主義に陥っている者は、それが利己主義であるとは気が付かないもののようだ。

 例えば、つい最近でも、河村市長が市職員の給与について、引き上げを勧告した人事委員会の報告( 参照 )を無視して、市職員の給与を据え置くと発表した。

 河村たかし名古屋市長は、市職員の給与を引き上げるよう求めた市人事委員会の勧告を受け入れない方針を固めた。
 (略)
 自治体トップが、人事委勧告を拒絶するのは極めて異例。組合幹部は「暴挙だ」と反発している。
 (略)
 各自治体では、財政難などを理由に職員給与を削減することがあるが、その場合でも、人事委勧告に従って恒久的な給与条例を改正した上で、削減幅などを盛り込んだ期限付き特例条例を別に定める。河村市長のように、人事委勧告そのものを拒絶する例は「聞いたことがない」(名古屋市幹部)という。

http://www.chunichi.co.jp/s/article/2014103090105032.html

 はっきりしないが、河村市長は「民間は給料が上がらない状況で、市職員の給与を上げる事はできない」と言ったとか「格差が拡大している中で公務員だけ給与を上げて良いんですか」と言ったとも伝えられている。

 まず、そもそも地方自治体に人事委員会があるのは、地方公務員には労働者としてのスト権(労働基本権)が認められていないので、その代償として設置されている。勿論、任命権者は首長である。つまり、河村市長は自分で選任した人事委員会の勧告を無視する事になる。

 人事委員会のお三方は辞任でもされた方が良いのではないか。

 こんな虚仮にした話は無い。

 自分で選任し、そして法の求める人事委員会の意義を認めるのであれば、その勧告を受け入れて給与改正を行い、その上で据え置きの条例でもなんでも作れば良い。

 今回は勧告自体を無視しようというのだから、この条例制定における議論を回避し逃げたに等しい。

 更に、一般的に中小零細企業は地域の給与水準に合わせて給与改定がなされる。その地方の公務員給与が据え置かれれば、こうした中小零細企業の給与には下げ圧力が発生する。彼の行為が原因で「民間は給料が上がらない状況」が生まれる。河村商事ではいったいどういった給与制定がされているのか。想像するだけでげんなりしそうだ。

 また、河村市長の減税政策というのは、納税者クラスに対する補助金だ。つまり、お金持ちに対して補助金を渡していくという政策で、そのものが格差拡大策である。
 こうした減税政策を展開しておいて、その格差拡大を理由に、職員給与の据え置きを主張するのは矛盾も甚だしい。
 

 ただ、呆れかえるのは、こうした分裂した政策(?)を繰り出す河村市長ではない。

 こんな愚策に拍手喝さいを送る人々が未だに少なからず居るという事に驚かされる。


 公務員給与を引き下げれば、民間給与が上がるとでも思っているのだろうか?

 これは全くの逆だ。

 公務員給与を引き下げられれば、地方自治体の財政が好転するとでも思っているのだろうか?

 これは全くの誤解だ。

 国や地方自治体は確かに厳しい財政状況にある。しかしそれは年々増大する社会保障費の負担が大きいからで、公務員給与の影響など、この増大幅に比べれば微々たるものだ。
 社会保障費の増大を公務員給与の削減で賄おうなどとすれば、即座にすべての公共サービスは機能不全を起こすだろう。

 例えば、名古屋市の歳出、約1兆円の内、人件費の占める割合は1,644億円(平成24年度)であって、16%でしかない。

 http://www.city.nagoya.jp/zaisei/page/0000053377.html

 「性質別歳出の推移」をご覧頂けば、人件費の割合の少なさと、「扶助費」の拡大のインパクトをご理解いただけると思う。



 これでいてまだ公務員給与の引き下げに拍手喝さいを送る。

 公務員が日本社会の害悪であるかのように「思い込む」とすれば、

 完全に「刷り込み」にあっているとしか思えない。


 こういった人々の頭の中には、いまだに「利用者がずらっと並んだ区役所のカウンターの中で、我関せずと新聞紙を読みふける公務員」というようなステレオタイプの姿が浮かんでいるのだろうか。

 または、ほんの一握りの高級官僚がワタリをする姿を描いた新聞や雑誌の記事が染みついているのかもしれない。

 しかし、こういった思い込みから公務員批判を行い、例えば給与を削減し、人員を減らしても、そのしわ寄せは底辺に行く。利用者や現場の職員が困窮するだけで、トップの高級官僚にとっては痛くも痒くもない。

 弱い者が、更に弱い者を叩く事になるだけだ。


 自分の持っている長いスプーンに入っているスープを、まず、公務員の口元に持っていく。そうすれば、公務員の持っているスプーンに入っているスープが、自分の口元に回ってくる。

 経世済民の思想とは、こうした循環の思想ではないのだろうか。


 (蛇足)
 こうしてみると、面白い事に気が付く。

 経済は循環だ。
 しかし、経済を簒奪と誤解している人が居る。
 上で述べた公務員給与の引き下げが叶えば、自分のもとにその原資が転がって来るとでも思っているヒトや、法人税率の引き下げを求める人々などそうした口だろう。

 スープをいっぱいに溜め込んだ長いスプーンを抱えて泣く地獄の亡者に等しい。

 法人が内部留保を幾らため込んでも意味など無いのに、実際に、今の日本の経済を歪めているのは、この企業の内部留保だろうにね。

 経済は循環してこそ意味がある。

 

 私は以前「政治は奪い合いだ」といった。

 政治は簒奪だ。

 経済とは資本を持つものに財が集中していく仕組みになっている。
 (収穫逓増の原理)
 財とは設備や土地であったり、権利であったり、知的財産もそうだろう。

 こういったリソースを持つものは、財を得、それが集中していく。
 こういったリソースを持たない者は、それをどんどん吸い上げられる。


 こうして格差は拡大し、固定化していく。

 20世紀以前であれば、この社会的歪が拡大すると、社会は不安定になり、やがては革命が起きる。

 しかし、現代のような管理統制社会においては革命は起きない。

 「革命」は「維新」という よく似た それでいて全く異なる存在に矮小化される。


 本来は資本を持たざる者こそが、政治の現場で簒奪を図らなければならない。
 (そして、簒奪された財はまた、経済という現場で資本を持つ者に移転し集中し、これで循環が成立する)


 ところが、現代の日本では、資本を持たざる者は政治の現場に失望を抱くか、政治の現場とは異なるフィールドで、本来の政治とは異なるゲームを行っている。
 (公務員叩きであるとか、自然保護(二酸化炭素)ゴッコであるとか、在特会や維新ゴッコなどが、政治の意匠をまとったゲームでしょうね/この相違は その政治的行動に戦略的目標があるか、簒奪する具体的な社会的リソースがあるかどうかにかかっている。
 大阪の維新の会の打ち出した「大阪都構想」は簒奪すべき社会的リソースは明白だった。しかし、彼等の設計ではそれが得られないことが明らかになっている、故にゴッコ遊びでしかない)


 資本を持たざる者たちが、失望をして、政治のフィールドで何物も獲得しようとしないなら、社会は循環させる財を無くす。社会が循環する財を無くせば、経済は縮小均衡のループに入って行かざるを得なくなる。


(蛇足の蛇足)
 このブログは河村市長の悪行を暴くブログでもなければ、私は河村市長に恨みがある訳でもない。扉もトンカチで叩いたりはしない。そんな気も無い。

 このブログを開設した意味は地域委員会について色々な疑問があったので、それらをまとめて行こうとしたからに過ぎない。

 また、河村市長にたいしても、衆議院議員時代には支援者の一人であったし、タウンミーティングも幾度か参加して居る。(それ以上の出来事もあるが、まだ公表できる段階ではない/と、臭わすぐらいはできる状況になっている)

 河村市政に褒めるところが有ったとして(有るか?あまり思いつかない、と言うよりもハッキリ言って無いと思うが)それをブログで取り上げても意味がない。それは、誉めたくないからではない、良い物であるならば(それが有るならだが)そのままで良いからで、それは論評の対象とは成らない。

 良くないことがあるのであれば、それは指摘する必要があるだろう。

 このブログが河村市長の失政やミスを集約しているように見えるのは、こうした指摘をしていくうちに、それが集約してしまったからだろう。

 こんなにもやることなす事ミスや失政だらけの人物も珍しい。
(東京都の石原都知事も似たようなものだったが)


 ブログをつぶさに読まれればお判りになると思うが、私は元々「新自由主義」に親和的だった。

 河村氏の「減税政策」についてもどう評価してよいか判らなかった。ぼんやりと「良い事だ」と思っていた(新自由主義者なので)

 しかし、調べていくと河村氏の言う事のおかしさが際立ってきた。
 彼が読めと(本会議場で)言った「リチャード・クー」の著書を読んでみて、クー氏自身が「減税政策よりも財政再建」と言っていたり、公共経済学の定説として減税政策が否定されているという事を知り、それを河村市長本人に質問しても、満足な回答は得られなかった。

 つまり、河村市長自身が説明責任が果たせなかったのである。


 今、相生山問題も扱っているが、これにしても道路の建設に対しては賛成も反対も意識してはいなかった。そもそも私の生活に(たぶん)この道路は有ろうと無くなろうと全く影響は与えないだろう。ただ、河村市政の他の例と同様に、不作為による怠業の一例として、道路建設反対派の方や、現地の方の意見を伺う機会を持った。そして結果として、道路建設反対に対して懐疑的な態度に至ったに過ぎない。

 ここで今年中に河村市長は道路建設に対する判断を下すとしている。私が最も批判するとすれば、この判断自体を来年や、春に行われる統一地方選挙の選挙後にまで先送りした場合だろう。私が至った結論と同様の、道路建設再開の判断が下されれば、このブログでは扱う事は無くなるだろう。上に述べたように指摘する意味がないからである。

 道路建設中止の判断が下されれば、その判断は様々な矛盾を孕むので、それを指摘することはあるだろう。

 
 今、「ヘイト・スピーチ」というものが議論になっている。人間の変えられない特性、人種、宗教、性別、趣味嗜好を対象として、論評をしても意味がない、変えられないのだから。
 だからといって、こうした特性に対する好悪を持つなという圧力も、それは無理と言うものだ。

 個人が、特定の人種や宗教、趣味嗜好に好悪の感情を持つのは自由だろう。
 しかし、その感情を表現の自由言論の自由と表に出す事は自由ではない。

 確かに「表現の自由言論の自由」は憲法で保障されている。(第21条)
 しかし憲法ではその前段(第13条)でこうも謳われている。

十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 「すべて国民は、個人として尊重され」なければならない。その属性で扱いが左右されるべきではない。

 そして、「自由・権利」は「 公共の福祉に反しない限り」尊重されるのだ。

 他者に対して、その人格、属性に対して直接論評するような行為は、言葉の暴力であり、「公共の福祉に反し」た行為だ。

 こうした「ヘイト・スピーチ」を行う集団が、自分たちの言論を圧殺する行為は「逆差別ではないのか」と子どものような反論を加えているが、こうした行為に対する論評は当然可能だ、それは変えられるのだから。

 しかし、もう一段思考を深めると、こうした差別者に対して、それを排除するという言論は、確かにそれ自身が「ヘイト」に陥る可能性がある。

 人種差別という趣味嗜好を持つことで、差別されるいわれはないだろうからだ。
 ただ、私自身も、そんな人物は好きになれない。私自身もそういった趣味嗜好はある。

 内心の自由とは、こういった一般性を持ちえない趣味嗜好について、各個人が心の中で留めるべきと考えるから尊重されるのではないだろうか。

 長々と回り道をしたが。

 私は河村たかしという人物の人格には興味は無い。

 色々と漏れ伝えられる人格的な問題ついても、それが公的な領域にないと判断したことについては書いていない。

 今後も、河村市長が市長として何をし、何をやっていないかについては(きわめて政治的な思惑を含むと明言しつつ)書いていくが、彼自身の人格については触れないように心掛ける。

 というか、知った事ではないのだ。