市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

河村たかしセクハラ?/政務活動費返還訴訟

1. 河村たかし、韓国フェスティバル会場で女性アイドルにセクハラ行動
2. 名古屋市減税日本ゴヤ政務活動費に係る不当利得返還請求事件(令和4年(行ウ)第36号)


本編の前に、少々柔らかいネタから。

河村たかし、韓国フェスティバル会場で女性アイドルにセクハラ行動

先日(11月12日)、名古屋市内で行われた「韓国フェスティバル」に、河村たかし名古屋市長として呼ばれ、その際バックステージで出演していた女性アイドルと記念撮影していたようだ。

11月12日 韓国フェスティバル

この河村が見せている指の形は「フィグ・サイン」と呼ばれているもので、「性行為」を表す卑猥なジェスチャーとされている。明らかなセクハラに当たる。

ja.wikipedia.org

一緒に写っている女性たちは「指ハート」と呼ばれるジェスチャーをしている。

ja.wikipedia.org

状況によっては一緒に写っている女性を性的に侮蔑するものとも捉えられかねない。また、その女性たちが韓国における女性の正装であるチマ・チョゴリを着ていることや、河村たかしにおける日頃の言動などを勘案すると、民族差別の意志があったものと見られ、「南京事件否定発言」に続く国際問題にも発展しかねない。

jp.reuters.com

無償化連絡会・大阪が名古屋市長に抗議文 – 無償化連絡会・大阪


私のツイッター上の投稿に対し「河村は指ハートをやろうとして間違っただけじゃないのか」などとする擁護発言も寄せられたが、2018年の韓国フェスティバルでは同じように女性アイドルと記念撮影を行い、この場では通常の「指ハート」を行っている。

2018年韓国フェスティバル

「南京発言問題」に続いて「金メダル事件」更にこの「セクハラ・ジェスチャー」問題。そもそも「総理を狙う男」だったのだが、齢74となり、このような問題行動を繰り返し、更にその責任もろくに取っていない*1ようでは、総理などなれるはずはなく、行き場がないので自身批判していた多選を重ね、名古屋市長の椅子にしがみつく姿は醜悪にすぎる。

3アウトチャンジだ。即刻名古屋市長の座を降りることを要請する。

追記:
www.mag2.com

www.j-cast.com

www.news-postseven.com

名古屋市減税日本ゴヤ政務活動費に係る不当利得返還請求事件(令和4年(行ウ)第36号)

以前ブログにも書いたように、減税日本ゴヤ所属の浅井康正市議(名東区)の政務活動費支出について疑義がある。浅井市議は令和2年8月に名東区内にA4版、A3版のチラシをポスティングしたとして、政務活動費を請求している。(1,132,065円:按分率100%、つまり全額公費よりの支出)しかし複数の名東区住民から「そのようなチラシは見たことない」との証言を得ている。

これについて本人に公開質問状を送り、名古屋市会議長にも調査依頼を行ったが、満足な回答が得られなかったために住民監査請求を行った。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

住民監査請求によっても納得の行く結論が得られなかったために住民訴訟を提訴した。

監査結果 - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

住民監査における問題点は後述する。

政務活動費(旧称、政務調査費)の支出に対する住民訴訟は各地で行われていて、その支出に疑義があれば、住民の側が原告となって、当該地方自治体を被告として訴える事になる。(その前に、住民監査を提起する必要がある)

しかし、被告とされた地方自治体も、その政務活動費の支出については、報告を受けるだけなので、実態については把握していない。形式的に書類が揃っていれば支出されるのが実情だ。つまり政務活動費の返還訴訟において、その支出の適法性を主張するのは当該会派または議員となる。そして返還命令が出れば、そのお金を出すのも当該会派または議員なので、「補助参加人」として利害関係者として政務活動費の支出について、適法性を主張することになる。

今回の住民訴訟においては、
原告・市民(つまり、私、一人! ちなみに代理人(弁護士)もなし!)
私(原告)が提出する「証拠書類」には「甲」の分類名が付く。
被告・名古屋市長 河村たかし(証拠書類の分類名は「乙」
補助参加人・減税日本ゴヤ(証拠書類の分類名は「丙」)
補助参加人代表者・浅井康正
となる。(面倒くさい!)

通常の政務活動費に対する疑義の裁判では、出張費や事務所費などについてはその実態に対する疑義が提起されている。五百旗頭幸男監督による映画「はりぼて」は富山市議会における政務活動費の問題を追求したものだ。
しかし、広報紙(広聴広報費)については、その内容による「按分率*2」が争われる事が多いようだが、配布実態まで争われる例はないようだ。

しかし、今回の問題はこの配布実態そのものに疑義がある。通常の民事裁判における不当利得返還訴訟であれば、不法行為の立証責任は原告側、訴えた側にあるのだが、政務活動費の訴訟においては、原告は一般の市民で、政務活動費の支出実態を知ることはできない。それを知り得るのは当該支出を行った会派か議員本人になり、さらに政務活動費は公金の支出であるという事も踏まえ、会派、議員に適法な支出を立証する責任があると、判例が示されている。(平成29年1月31日仙台地方裁判所など)そこで住民監査の段階から当該広報紙の印刷、配布実態を減税日本ゴヤ、浅井康正市議に求めている。

住民監査の段階では、印刷については水野プランニングが行い、ポスティング、配布は「株式会社ポトス」に再委託されているとして、配布にかかわる「領収書」と株式会社ポトスにおける「部数表」が提出され、配布は行われているものと判断された。

住民監査において提出されたこの「株式会社ポトス」の「領収書」は当該広報紙が配布されたとする重要な根拠であって、当然公開されるべき証拠である。にも関わらず名古屋市住民監査委員はこの監査結果を根拠づける「領収書」の開示を拒んだ。

今般、私が住民訴訟を提示したのも、この「領収書」を見たいがためと言っても過言ではない。主権者たる住民からの監査請求に対して、その監査結果の根拠をなす証拠を開示もせず、監査結果だけを伝えるという態度は民主主義にもとる。後述する「見落とし」を含めて、今回の名古屋市住民監査委員は怠慢であると強く抗議する。

さて、住民訴訟に移行しこの「領収書」が補助参加人・減税日本ゴヤから提出された。「丙第4号証」がそれだ。

丙第4号証「領収書」

これが「領収書」であるとして出されたものだ。

これは「領収書」ではない、「領収書(控)」となっており、常識的に考えれば発行者側の「株式会社ポトス」において保管されているものだ。さらに法令で定められた収入印紙が貼っていない、収入印紙を貼っていないものを法的に「領収書」として扱う行為は脱法行為となる。

名古屋市住民監査委員はこの脱法行為を行ったことになる。(上で書いた「見落とし」とはこのことではない、それはもっと酷い)

8月31日の公判において原告(私だ、私!)から、「裁判長、被告補助参加人から提出された丙第4号証ですが、これは『領収書』ではないのではないですか」との指摘に、裁判長は適法に対応し、被告補助参加人代理人(一部の人にはおなじみの小島敏郎青山学院大学教授で愛知県政策顧問、名古屋市経営アドバイザー、東京都特別顧問、都民ファーストの会東京都議団政務調査会事務総長で弁護士資格をもって早稲田リーガルコモンズ法律事務所所属の弁護士先生であらせられる https://legalcommons.jp/member/kojima )に「領収書」の提出を命じられました。

裁判長が「領収書はあるんですよね?」と聞かれたのに対して小島先生は「あります」と答えられたものであります。当たり前です。水野プランニングは、政務活動費を売上としてお金を受領していますが、その代金は再委託した業者の価格そのままとのことで、491,865円は、政務活動費から直接(水野プランニング、水野昇氏は1円もマージンを取らずに)株式会社ポトスに支払っている事になっています。しかし水野プランニングには売上としてこの約50万円(印刷を含めると1,132,065円)が立っていることとなり、その原価である株式会社ポトスの発行した領収書がなければ全額を営業利益として計上しなければならなくなります。しかし、水野昇氏が1円もマージンを取っていないのであれば、その原価を明かす証拠として、この株式会社ポトスの領収書を示せば良いのであって、その場合営業利益はゼロですから課税もされません。

つまり、このノーマージンの営業行為に対して水野昇氏が課税を免れるためには、株式会社ポトスの領収書は必須の書類であって、それは法人税法の規定から7年間の保管義務が課せられています。

こんなこと、一般の商売をやった人間なら当たり前の常識で、瀬戸市議を努め、瀬戸市長選挙まで出られた水野昇氏が知らないわけはない。

つまり、当該領収書が水野プランニングに無い訳がない。

といったわけで今回、「丙第12号証」として提出されたのがこれです。

丙第12号証「受領証明書」

これも「領収書」ではないですね、それも本公判が始まって以降の今年9月5日に発行された書類です。

つまり、「水野プランニングから株式会社ポトス」に配布・ポスティング代金としてお金が支払われた証は立っていないということになります。(領収書を紛失した時って再発行をお願いすることもあるだろうけど、そうした場合は「領収書(再発行)」とかってすると思うんだけど、この「受領証明書」ってどう理解すれば良いんだろう)

次に、補助参加人・減税日本ゴヤが、配布を行った実績であるとして示したものは、「名東区長久手市エリア地区別部数表」と呼ばれるもので、「丙第5号証」「丙第6号証」として提出された。

丙第5号証 部数表
丙第6号証 部数表

ところで、原告(私だ)は裁判長から「名東区で配布がなかったことを明かす証拠を提示しなさい」と言われた。そもそもそれは「不在証明」に当たるため、不可能であることは承知の上で、蓋然性を高めるものを提出せよとの意向であると受け止めて、私も名東区全域にチラシを配布して「減税日本のチラシを見た人は居ませんか」と声をかけてみることを企画した。ついては、当該広報紙と同じ株式会社ポトスにチラシ配布・ポスティングの見積もりを取ってみた。株式会社ポトスが提示したのが「甲第24号証」となる。

甲第24号証 ポトス見積もり

結局、このポスティング代金が私の私費から捻出するには高額であること、このチラシを配布して誰も申し出てこないからと言ってそれで「配布されていない証」とする事はできないことなどから配布・ポスティングはしなかった。しかしこの「名東区長久手市エリア地区別部数表」はこうやって提示できる。つまり、この部数表を持っているからと言って配布・ポスティングを行ったという証にはならないのだ。

もう一つ、上の、「丙第5号証」「丙第6号証」を見ると「入金日」「入金確認」という欄が未記入となっている。これはつまり「見積もり段階」の書類であり、支払いや配布実績を表した書面とはいえないことを表している。

 ・・・結局、水野プランニングが配布を行ったとする証は一つも無いことになる。印刷にしてもそうだ。住民監査からこの訴訟に至るまで水野プランニングにおいて印刷を行ったという証拠は一つも提出されていない。原稿、版下、デザイン、紙の購入代金、インク代、印刷物の輸送代金(広報紙は名東区で約6万枚になる)、折込み等だ。

また面白い情報提供ももらった。知事リコール運動/偽造署名騒動でお馴染みの倉橋英樹豊川市議が、2019年瀬戸市議会議員選挙ポスター公費請求一覧を公表している。ここに「水野昇」氏の名前がみえる。水野プランニング代表、水野昇氏はこの選挙で自らのポスターの作製を外部業者に委託している。

甲第25号証_倉橋英樹豊川市議のSNS上の投稿における2019年瀬戸市議会議員選挙ポスター費用公費請求額一覧


さて、名古屋市住民監査委員は上記のように「領収書」といえないものを「領収書」と認め、更にその証拠の開示を拒んだまま監査結果だけを一方的に告げたことになる。そしてその結果は住民訴訟では鎧袖一触証拠とは受け入れられなかった。「法と証拠に基づいて審理されるべき」(被告補助参加人準備書面より)住民監査は蔑ろにされている。しかしまだこれは可愛いものだ。

今回の広報紙の内「A4版」を「丙第2号証」として提出されている。

丙第2号証(表)
丙第2号証(裏)

裏面の白紙を提示しているのは誤りではない。

この広報紙を印刷したとする水野プランニングの領収書はこれであり、

甲第4号証:水野プランニング2020年8月6日発行領収書(f0105)

ここには「A4 90kg 両面印刷」と書かれている。
今回住民訴訟において補助参加人は「誤記である」と述べているが、信憑性は薄い。

そして大問題は、この広報紙実物と、その領収書における齟齬について、名古屋市住民監査委員は一切言及していない。完全に見逃しているのである。行政の無謬性を言うのであればもう少し上手くごまかすべきだ。それができないのであればいっそバカ正直に「正義」を振りかざしてみたらどうだろうか。主権者は市民であって、監査は市民に代わって行政の過ちを見直す行為だろう。それを行政の言いなりになって、その誤りの糊塗に手を貸すのでは監査の意味はないし、市民の権利、主権者の定義、民主主義の原則そのものを毀損する。

名古屋市住民監査委員の今回の監査結果は民主主義を破壊する行為であると指摘しておく。

最後に面白い発言をご紹介しよう。

「領収書が真正であるかどうか。字面が正しいだけだというなら、そんなものは審査になりませんので、その領収書が、本当にその人がそのお金を受け取ったのかとかということについては、議長がやるなら議長、議長が嫌だったら市長がやるなりして、これは名古屋市民の本当の血税ですので、誰かがその使い道の正しさを、領収書の真正をやっぱり調査しないといけないと思います」(被告名古屋市長 河村たかし 平成23年7月11日名古屋市長定例記者会見における発言、甲第22号証)

名古屋市:平成23年7月11日 市長定例記者会見(市長の部屋)

名古屋市減税日本ゴヤ政務活動費に係る不当利得返還請求事件」事件番号「令和4年(行ウ)第36号」

次回公判は11月24日(木曜日)午後1時30分
名古屋地裁11階、1102法廷

どなたでも傍聴できます。


*1:金メダル問題における辞職、給与返納などの処分はまだ行われていない

*2:議員が配布する広報紙について、その内容が政務活動におけるものでなく、選挙のための政党や個人の広報(選挙活動)、後援会活動の要素がある場合は、全体の費用から当該記載事項の面積比率で「按分」して、政務活動部分のみ政務活動費からの支出が許容されるという比率

討論と議論

 現在、「ひろゆき」が炎上しているらしい。

 沖縄、辺野古基地建設反対運動に対する対応を起点とした議論のようだ。ここで「ひろゆき」が炎上しているという現在の傾向は「良い傾向」であると考える。その理由は後に述べる、そもそも「ひろゆき」とはどのような存在であるかという話も含め、少々昔話も加えて「匿名掲示板」や「SNS」とは本質的になにかという話もしていきたい。そしてそれを踏まえて、「議論」と「討論」の相違について考えていくことで、いま、言われている「熟議型民主主義」が成立する条件を押さえておきたい。


 まず、炎上の起点は次の「ひろゆき」のツイッター上の投稿にあったようだ。

 後に彼は「『座り込み抗議』と言われれば24時間座り込み続けていると思いますよね、でも、連続して座り込んでいないのなら、座り込みとかいうのは嘘じゃないんですか」とか言っているが「24時間座り込み続けなければ『座り込み』と言わない」というのは「ひろゆき」個人の定義であって、彼自身言うような「辞書にそのような定義」はない。

 更に「誰も居なかったので、0日にした方がよくない」というのはそうした自身の解釈に依拠した主張であって、抗議行動を続ける人たちに対する「揶揄」と解釈されても仕方がない。(こう解釈するのも、主観的判断でそれ自体を止める事は誰にもできない)

 このツイートを巡って、辺野古基地建設議論が巻き起こっている事は結構なことだが、「ひろゆき」のツイート、意図がそんな建設的な代物ではないことは明白だろう。そもそも「ひろゆき」が沖縄を訪れたのは他の企画のためだったそうだし、その後「ひろゆき」が語る沖縄米軍基地についての発言をみても、彼の理解が付け焼き刃であることは露呈しており、深い考えをもってこの発言をしたわけではない事は明らかだ。

 この問題を巡って本人を始めとする数人が議論を展開している。

www.youtube.com

 この議論は2層に分かれている。

 「ひろゆき」のツイートに対する議論と、この辺野古基地建設に関する議論だ。「ひろゆき」はここで概要「沖縄に米軍基地が偏在することは良くないと思っている、しかしそれは日本の問題であって、別の地域(佐賀県?)が基地を引き受けるなどしなければ解決しない。それなのに『戦争反対』『米軍出て行け』『自衛隊出て行け』と主張するだけでは解決につながらない。そもそもそうした主張は中国を利するだけだ。だから自分は批判した」と述べている。

 つまり、問題となるツイートは「批判」であり「冷笑」であることを吐露している。(ここで初期に「意図はない」と言っていたことが「嘘」とばれる、政治的意図を持って発言したわけだ。また唐突に「中国を利するだけ」などと言ってしまうとこなど後述する「逆張り似非保守」期待の新人ということになるんだろう)

 現在の日本社会における言論空間は貧弱になっている。*1

 その中でも「右派」であるとか「保守」と呼ばれる議論の劣化は目を覆うばかりだ。「WILL」「正論」「月刊Hanada」などに見られる議論は「保守」でもないし「右派」でもない、私には単に「反左翼」、「反戦後民主主義」にしか見えない。主張の根幹をなす理念も、政治哲学もない。そうした軸がない議論が「保守」になるわけもないのであって、その場その場で「逆張り」を行い、民主主義を主張し、政府権力に批判するものを嘲笑しようとする態度でしかない。

 しかし、安倍首相銃撃事件以降、安倍清和会と統一教会の問題や、「国葬」に対する理念なき対応、国民生活に対する政権与党のビジョンのなさなど、こうした「逆張り似非保守」の論陣に信憑性が失われている。

 名古屋市民であれば、「表現の不自由展」騒動と、それに続く河村たかしの扇動、及び「デマに始まり偽造に終わる」大村知事リコール運動(更に最近では、県営空港における自衛隊空港使用料の問題まで)まったく信憑性のない、扇動のための扇動に辟易としていることだろう。

 元TBS報道局長の山口敬之の性的加害問題や、それを扱う被害女性への二次被害など、人道的にも疑問の湧くデマが断罪され、それに加担した者たちの主張は信憑性を失っている。

日本の病理

 写真はこの性被害者を揶揄するイラストを描いた、はすみとしこ(左側でイラストを示しているのがはすみで、イラストには「枕営業失敗」とキャプションが付いている)を囲んで、被害者を嘲笑する「人として如何なものか」と首を傾げたくなる者たちである。左から、長尾敬、杉田水脈千葉麗子花田紀凱、門田隆将、加藤清隆である。

ニュース女子

 次の写真は山口敬之の不起訴をシャンパンで祝福した悪評高い「ニュース女子」の一コマで、左から山口敬之本人、足立康史和田政宗、上念司、最後の一人は誰か判らない*2
 
 長期間続いた安倍清和会政治の下で、戦後民主主義や、権力の健全性維持の為にこそ必要な政権批判に対して、理念や政治哲学もなく「逆張り」してきた「似非保守」論者の主張に対して、国民は、清和会政治の裏側にくっついていた統一教会の実態を知り呆れ返り、思い返せばわかる安倍政治の実態のなさ*3に落胆し、更にロシアのウクライナ侵攻に伴って「核配備」まで口にする「逆張り似非保守」論者の妄言に鼻自み*4、ロシアへの経済制裁に続く産業、貿易の減退、インフレの進行は国民自身の生活が国際的な安定と結びついていることを知る。

 いたずらに対中国、対北朝鮮との対立を煽り(更に対韓国にまで)、根拠のない「核配備」まで主張し、一国平和主義を主張すれば日本は存続不可能になるし、国民にとっても現在の繁栄を維持することはできない。いまこそ排外主義を廃し、国際的な強調と相互理解をすすめるべきことは明白だ。「逆張り似非保守」論者の出る幕は無いのだ。

 今回、「ひろゆき」の発言が大きく取り上げられている背景には、こうした「逆張り似非保守」の選手層の払底を感じる。あの「ひろゆき」でも持ってこないと「左派」や「民主主義」に対抗できないということだろう。私が「良い傾向」というのはこれである。


 そもそも「ひろゆき」とはどのような存在なのか。匿名掲示板である「2ちゃんねる」を設立した人物と言われている。「2ちゃんねる」の優れていたところは、「スレッドフロー」と言われた仕組みで、現在注目を浴びている話題が上位に表示されるシステムであった。これは「あめぞう」というハンドルネームを持った人の作った先行する「あめぞう掲示板」が発祥であり、当時はこのシステムの便利さから、他の「匿名掲示板」参加者が「あめぞう」に集中した。当時「あめぞう」の中で「あめぞう方式」の掲示板作成が研究され、一部ではソースもやり取りされていたようで、そうしたなかで「ひろゆき」も独自に設置したと紹介してきた。

 ここから「2ちゃんねる」住人と言われる人たちが様々な匿名掲示板に現れて、何かというと「続きは2ちゃんねるで議論しましょう」というような「勧誘」を続けていた。(当時「あめぞう」と並ぶもう一つの巨大な匿名掲示板群でも「2ちゃんねる」の紹介やアドレスを貼り付けて勧誘する行為が流行った)こうした行為を揶揄して「 2ちゃんねるに勧誘する奴らは、壺でも買わされてるんじゃないのか」*5とか「2ちゃんねるにいくと壺を買わされるぞ」などと言われていた。やがて「あめぞう」住人や他の匿名掲示板住人が「壺に帰れ」などと言ったことを受けて、「2ちゃんねる」のトップページに「壺」の絵が飾られる。

 そうこうしている間に「あめぞう」に「あめぞうスクリプト」「あめぞうウィルス」と呼ばれる事件が発生する。特殊なスクリプトで「あめぞう」の掲示板システムを機能させなくしたのだ。
 この行為は執拗で、対応、対策しても次々と発生させられ、やがて「あめぞう」住人は「2ちゃんねる」に移り、「2ちゃんねる」は匿名掲示板として隆盛を極める。

 当時匿名掲示板は法的にもグレーゾーンで、他者を揶揄するような、明らかな違法行為でも容認されているような文化があった。流石に住所氏名まで明記した個人への誹謗中傷は、犯罪を助長しかねないことから削除されていたが、そうした違法行為を行うものは、常軌を逸しており、削除しても削除しても、執拗に書き込みを繰り返すなどする。そこで「あめぞう」や他の匿名掲示板が取ったアプローチは「すべてはネタ、嘘である」といういかにもサブカル、いかにもポストモダン的なアプローチであって、「書かれていることはネタ、嘘であって、真に受けるほうが間違い」というものであった。これは今でも私は有効であると思っている。

 匿名掲示板やSNSなどの発言に根拠のあるものなど無い(ほんの僅かな例外以外)匿名掲示板やSNSの記述を、裏も取らずに信じることなどあってはならない。それを最近では主要マスコミでも「SNSに○○などと書き込みがあった」などという無責任な引用を行う。(そして匿名掲示板に書かれたようなことを無批判に信じ込み垂れ流す文化が、やがて海を超えて「4chan」となり、米国国会議事堂襲撃事件まで引き起こす)

 匿名掲示板は人々のストレス発散の「痰壺」であり「排泄物置き場」なのだ、しかし人々は、時に吐き出さずには居られない。何を書いても自由、どのような主張も自由。そうでも言わなきゃやっていられない。そんな心の澱を吐き出す場所が匿名掲示板であって、そこに心の準備もない者が覗けば良い結果にはならない。人間の心の闇は深い。*6

 ところが「ひろゆき」のやったことはこれの逆だった。匿名掲示板を新たな情報ツールぐらいに捉えていたんだろうか。「嘘を嘘と見抜けないと匿名掲示板を使うのは難しい」などと嘯いたわけだ。これって、「匿名掲示板に書かれていることでも事実はある」信憑性があると言っているのであって、そうであるならそこで書かれたことで信用毀損など損害を被った場合、匿名掲示板設置者に損害賠償責任があるということになり、事実「ひろゆき」は「2ちゃんねる」の書き込みによっていくつかの裁判で負けて賠償責任を負っている。

resistance333.web.fc2.com

https://web.archive.org/web/20060620033200/http://resistance333.web.fc2.com/1-3.htm

 これは、「ひろゆき」が「2ちゃんねる」開設以前に展開していたサイトだそうで、当時サブカル雑誌などが喧伝していた「ソーシャル・ハック」の一端を展開したものだ。(これのお陰で、警察が対応してこの方法が使えなくなった(笑))

 「ひろゆき」はこのサイトの手法を真似てか、無責任にも「2ちゃんねる」で負った賠償責任を「踏み倒している」そうだ。

 彼自身が匿名掲示板の社会的位置づけを間違えて、その結果負わなければならない責任についても逃げを打つという姿勢は卑怯であり、そもそもその位置づけ自体が間違っていたことに気が付かないことが愚かだ。

 もう一度言うが、匿名掲示板やSNSに書かれていることは、真に受ける方に責任がある。信じるには一人ひとりが裏とりをする必要がある。「ネット de 真実」を真に受けて、碌な事はない。「デマに始まり、偽造で終わる」といった愛知県知事リコール運動もその口で、河村や高須といったリテラシーのないバカが引っかかった「嘘」でしかない。そしてそれは時に社会的な損失まで生み出すわけだ。

 同様に今、「ひろゆき」の発言を真に受けて、それを批判することもバカバカしい。どうせ彼はよく知りもしないことを単に嘲笑したいがために揶揄しただけで、上記でも言ったように「座り込み」の定義も「あなたがそう思っただけですよ」というひろゆきのよく使うフレーズがそのまま当てはまり、「0日にしたほうが云々」に関しても同様である。その他の「ひろゆき」の発言も底は知れていて、逆に彼が「逆張り似非保守」に重用されるのであれば、それはそれで結構な傾向だ。

 さて、そんな中で次のような動画があった。

www.youtube.com

ひろゆきで学ぶ 詭弁の見分け方」

在特会などのヘイトスピーチに対峙してきた野間易通は、この中で香西秀信の次の発言を引く。

われわれは、言葉によって、自分の精神を、心を護らなくてはなりません。無神経な人間の言葉の暴力に対して、ハリネズミのように武装しましょう。うっかりと触ったときには、針で刺す程度の痛みを与え、滅多なことは言わないように思い知らせてやるのです。覚えておいてください。われわれが議論に強くなろうとするのは、人間としての最低限のプライドを保つためです。本書は、そうした「心やさしき」人たちに、言葉で自分の心を守れるだけの議論術を身につけていただくために書かれた本です。

 心の護身術、言葉の護身術としての「レトリックと詭弁」を身につけて、ヘイトスピーチ歴史修正主義、排外主義や「逆張り似非保守」のデマに対峙すべしということだ。

 これはまったく同意する。というか、当サイト自体が「河村たかし」というデマゴギーに対して、ささやかな針の一刺しをしているサイトでしか無い。
(誰ですか、「対減税日本チェンソーマン」とか言っている人は)
chainsawman.dog


 レトリックと詭弁については、先の動画や書籍に譲るとして

 動画の中で野間の説明に違和感があった「討論:debate」と「議論:discassion」について私見を述べて、「熟議民主主義」につながる条件を押さえてみたい。

 まず「討論:debate/ディベード」と「議論:discassion/ディスカッション」の相違について。これは明確で議論では前提として価値観や言語の定義を整えなければならない。論者の間の価値観(議論によって得たい結論)が異なるのであれば議論は成立しない。一般的に企業の営業会議では「利益の最大化」が「共通の価値観」として置かれるのだろう。その為に具体的にどうするかなら議論になる。(時に「企業の社会的意義」がテーマだ、とか言い始める者も居るが、そういう議論をするのであれば、事前に設定されなくてはいけない)

 これに比較して「討論:debate/ディベード」では、この「討論の持つべき価値観」まで含めて自由に設定ができる。一般的な学校の授業で行われるような「ディベード」では、相互の主張よりも、その主張がもたらす結果、利益こそが聴衆の評価対象となり、この機序に気がついた話者が勝利を得る。
 例えば、「制服は必要か」といったディベードを実施してみると、「不要論」に立つものは「個人の自由の尊重」を主張するかもしれないし、「必要論」に立つものは「親の経済力の差が学校生活に持ち込まれる」という主張をするかもしれない。もし十分に話者が主張を組み立てられたならば、聴衆のうちこの両者の価値観のどちらに親和的かでディベードの勝敗は決まる。
 実は、ディベードの授業では、単に生徒にディベードを行わせて挙手や拍手で勝敗を決めるという以上に、こうした主張の裏にある論理構成や、説得の方法を教える必要があるだろう。*7

 「討論:debate/ディベード」の勝敗は、聴衆の支持によって決まる。これはポピュリズム政治の成立機序とも重なる。しかし「討論/ディベード」において重要なのは、論理展開であったり、ムードや時には「嘘」(または、不確かな事実、一面的な事実)で十分なのであって、どのように聴衆が支持しようが正解でないことも多い。それは国民が求めている「価値観」と、「討論/ディベード」で持ち出されている「価値観」が異なっていても、つまり、論点がすり替えられていても、一般の聴衆は気が付かない事が多いという傾向とも繋がる。

 名古屋市における河村たかしの使ったこの「詭弁」の例を上げるならば、名古屋城天守の木造化復元だろう。<東京オリンピックの際の観光の目玉にする>。と言っていたのであれば、すでに東京オリンピックは終わってしまったのだから、計画を終了させれば良い。<木造天守は儲かる>と言っているが、収支計画は非現実的な前提に立っている。そう批判すると、まっとうな「議論」であれば、もっと現実的な前提で試算し直すとか、別の案を出すべきだが、河村たかしは、じゃあ、木造化しなくて良いんですか<名古屋市民の誇りじゃないですか、将来は国宝になります*8よ>と、文化論を振り回す。「名古屋市民の誇り」というのであれば、「昭和34年、当時の名古屋市民が総工費6億円のうち2億円を寄付して作った、まさに市民の建てた現在の天守を耐震改修して後世に伝えたほうが文化的価値は高いんじゃないのか」と主張すると、<名古屋には観光の目玉がない>などと価値観をすり替える。

 これがこの10年ほど続けられた詭弁だ。

 政治的議論において「価値観の判断」は政治家が行ってはならない。
 それは主権者たる国民、有権者の領分だ。

 なので「自分はこう思う」「自分はこれが重要だと思う」というような政治家は必要ない。「最後は有権者の皆さんが決めてください」という政治家が本物だ。

 こうした有権者が示した「民意」(価値観)を起点として、その価値観を実現する手立てを模索するものが政治家である。ここを勘違いしてはならない。

 実体政治における「議論/ディスカッション」ではテーマとなる「価値観」が示されなければならない。それが民意だからだ。それが不明確なまま「議論/ディスカッション」が行われているとすれば、それは不毛だ。

 例えば地域の開発問題があるとする、他方にはその土地の自然を守ろうとする住民が居るとする。開発が必要とする住民と、自然を守れという住民がお互いに議論しても平行線になるだけだ。価値観と価値観の対立は、個々人が自らの中で決すべき問題であって、政治的に圧力をかける問題ではない。こうした場合、両者の間で討論させるというのも失当だろう。

 結局、開発容認派はどの程度環境に配慮した計画に同意できるか、コスト高に同意できるかという議論になり、環境保護派は、どの程度の開発を容認するかという議論になるはずだ。行政はその両者の間に立って妥協点を探る以外にない。

 名古屋市における相生山道路問題は、この解が成立し、道路開発派は巨大隧道と、環境負荷の少ない橋梁建設という莫大な予算をかけることを容認した。それに対して環境保護派も当局の研究などを受けて道路開発を容認していた。・・・・河村が来るまでは。

 それをひっくり返して、ひっくり返したまま放置させているのが河村たかしだ。
 ヒメボタルは水棲ではなく、相生山には水辺など無いのに。
 ヒメボタルは名古屋城周辺の外堀通りという交通の要衝、さらに上に高速道路まで通っているような環境でも生息しているのに。

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 おっといけない、またチェーンソーを振り回してしまった。

 整理する。「討論/ディベード」では、前提となる価値観の合意などもない、お互いの立論を展開し、刹那的に同意を得られれば良い。そこでは様々なレトリックも活用されるだろう。先に「匿名掲示板では議論は成立しない」といったのは、予めの価値観合意が困難だからだ。

 しかし、政治的「議論/ディスカッション」では予め前提となる価値観の合意が必要となる。価値観が異なれば、議論は収束しない。どちらの価値観が重要かは、有権者が決めるべきで、政治家が決めてはならない。

 理想的には、政党とはこうした価値観を予め党の理念として明確化し、掲げておくもので、国民の政党への支持が、国民の支持する価値観の表明となり、その価値観に沿った議論が為される筈だ。

 政権与党が予め掲げた理念、マニフェストに対して、支持する有権者が多かったからその党は多数派を形成でき、与党となった。であるなら、価値観の異なる野党は、野党として政権運営には直接関わらないが、与党の掲げた理念(国民の多数が支持する価値観)と、実体的な施策の相違を批判したり、その価値観が来した現実を示すことで、現政権与党の価値観よりも、野党の政治理念、価値観のほうが有意であると主張し、有権者に選択肢を与える事もできる。

 政治家が、自身の主観的価値観を掲げて、異論に反論するという行為は幼稚にすぎる。国民、有権者も「主権者」として自らの求める、目指す「価値観」がなんであり、どういった意味を持つものなのか、しっかりと見極める必要があるだろう。

 現在の格差社会は、一部の人々に人間としての尊厳まで放棄させているが、それほど窮乏させられている人々が、更に社会における「選択と集中」を肯定するなど、より自分を窮地に追い込む政策を支持してみせたりする。こういった現象を「肉屋を支持する豚」と呼ぶようだが、これは人間性の深さなのか、はたまた多くの大衆における考えの浅さなのか。



立花隆の「論駁」における言葉を引いておこう。

 論争は、双方の議論が噛み合ってこそ意味がある。Aがある議論を立て、Bがそれに反論したら、Aはその反論を受け入れて自分の誤りを認めるか、それともBに対して再反論するかしなければならない。 一部誤りを認め、一部反駁するという手もある。 さらに議論をつづけるときは、誤りを認めるなどして合意された論点についてはそこでさておき、まだ合意ができない論点に双方議論を集中して、お互いに相手を論駁すべく格闘する。


 論争がそうして正しい形でつづけられていけば、論争はついに両者が合意するところまで行きついて終わるか、それとも、論点をギリギリ論証も論駁も不可能な地点まで煮つめることによって(すなわち、主観の相違への帰着とか、相異なるプロトコル命題への帰着など)、 お互いに「合意できないことに合意する」かである。正しい論争はキャッチボールのようなものである。お互いに論点をやりとりしなければならない。


 

*1:ここで言う「言論空間」とは主にSNS(ツイッターフェイスブックTiktok程度)や新聞、週刊誌、月刊誌程度であって、それ自体範囲が狭いことは自覚している。しかし、日本社会のオピニオンを長い間牽引してきた「月刊誌」において、その議論が劣化していることは明白だろう。

*2:知りたくもない

*3:北朝鮮拉致問題の進展、北方領土交渉の進展

*4:日本の「核配備」などよりも、国際協調の枠組み強化こそが世界の平和と安定にとって有効であることが明確化している

*5:今では説明も不要であると思うが、当時は統一教会霊感商法や原理運動が社会常識となっていた

*6:匿名掲示板では、後述するように議論は成立しない、存在意義があるとすれば思考実験の場であり自説の強度を測る場であり、他者の論理展開を見る場であろう

*7:こうした弊害を避けるために、立論を入れ替えて第2ラウンドを行う例もあるようだ

*8:明らかに「嘘」だ

「あいトリ負担金訴訟」に対する住民監査結果について

河村たかし市長の芸術の政治利用を許さない会」によって起こされていた「あいトリ負担金の控訴費用」に対する住民監査請求が9月2日に「棄却・一部却下」となった。

www.city.nagoya.jp

 名古屋市が同美術祭の負担金の一部について、あいトリ実行委員会(会長:大村愛知県知事)に支払いを拒否したことを受け、実行委員会が名古屋市を訴え、一審で名古屋市側の申立は全く認められず名古屋市敗訴となった。名古屋市の河村市長は控訴を行った(代理人:北口弁護士)わけだが。この控訴について違法・不当と訴えて控訴の取り下げなどを求めたものである。

 この訴えに対する、私のスタンスの詳細についてはすでに書いた。

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 今回、監査請求を行った事務局の方々や、代理人弁護士の方々と議論する中で、合意できたことは。

 裁判にかこつけて、名古屋市は同美術展内の「表現の不自由展」で展示された作品について、作者の公表している意図や、事実関係を踏まえない、非常に歪んだ解釈を、「名古屋市の主張」として展開していることであり、これは名古屋市民の総意の剽窃であり、公権力の私物化である。

www.city.nagoya.jp

 こんな文章が「名古屋市の主張」とされていては、まるで名古屋市民230万人はすべて気が違っているとでも思われることだろう。

 監査請求書にも書かれているように、公務員は ーもちろん、市長も含めてー 全体の奉仕者であり、自身の主観によって事柄を判断してはならない。にも関わらず、こうした作品に対する歪んだ評価は、その矩を踰えており、公平性を失っている。

 住民訴訟と異なり、住民監査においては「違法性」だけを問題とするのではなく、その行政事務の「不当性」をも監査の対象とする。同訴訟において「訴状」「控訴状」に上記のような正当性を欠く主張を繰り返す行為は、公平性がなく、そのような控訴主張は不当であることは明白だ。(公平性というよりも、正気を失っている)

 更に笑えることに、河村は「資料6」に示した定例会答弁において、「行政が関与する展示においては、特定の政治思想に偏ることなく、全体の奉仕者として政治的中立性は十分意識すべきものであります。」と発言している。(名古屋市 令和2年6月定例会 6月26日)

https://ssp.kaigiroku.net/tenant/nagoya/SpMinuteView.html?council_id=547&schedule_id=5&minute_id=60&is_search=true

 行政が政治的中立性を超えて何らかの主張を展開することは問題であるが、逆に、まったく政治的に中立、主張のない芸術作品というものも限られたものでしかなく、要はそうした芸術作品の持つ政治性について、作者、作品、そして鑑賞者の主体的行動/判断に行政が干渉、制限する行為が「行政の政治的中立性を欠く行為」に他ならず、それは2019年、あいトリの正面玄関でプラカードを掲げた河村たかしの姿に他ならない。

 この御仁は自分の行動の意味が判っていないのである。

 行政において政治的中立性が常に求められているのであれば、公共図書館は「資本論」を置いてはいけないのだろうか?しかし、「資本論」を公共知として公にすることで、マルクス・エンゲルスにおける初期「共産主義」の意味が把握できるのであり、それに対する批判も可能なのである。公的場所に芸術作品を展示するという行為は、その作品によってあぶり出される人間の在り方、社会の在り方を批判するという意味もある。よしんば芸術作品に政治的主張があるとしても、それによって揺るがされる社会は、社会のほうが脆弱なのであり、何かが間違っているのだ。

 単に少女が質素な木の椅子に座っているだけの作品を見て「心が踏みにじられる」のであれば、その者の心の中に、何か「やましいこと」があると知るべきだろう。


 さて、上記監査請求の代理人弁護士の方々に指摘を頂いた中で、監査の明らかな誤りがあるとの指摘があり、確認してみた。監査結果には次のような主張がある。

https://www.city.nagoya.jp/kansa/cmsfiles/contents/0000010/10918/aichitriennale2019_kansakekka0902.pdf

「住民監査請求の対象は財務会計上の行為に限られていることから、本件応訴及び控訴が違法又は不当であるかどうかの判断は監査委員のすべきところではない。仮に請求人の主張が、負担金の不払いが違法であり、その結果としての応訴費用及び控訴費用の支出が違法であるという主張であったとしても、平成 4 年12月15日最高裁判所判決において、先行する原因行為に違法事由が存する場合であっても、支出行為が違法となるのは、原因行為を前提としてされた当該職員の行為自体が財務会計法規上の義務に違反する違法なものであるときに限られると判断している。」

この最高裁判決はこれになる。

www.courts.go.jp

本文
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/277/054277_hanrei.pdf

 この事例では「先行する原因行為」は教育委員会の所管する職員の人事であり、(つまり、退職間際に1日昇進させて退職後の待遇を有利にさせる行為が争われている)「財務会計法規上の義務」を有する「当該職員の行為自体」は行政として人事決定を行った教育委員会とは独立しているために、「(教育委員会の行う)原因行為を前提としてされた(行政機関の)当該職員の行為」は「処分が著しく合理性を欠きそのためこれに予算執行の適正確保の見地から看過し得ない瑕疵が存するものと」解せない限り違法とはならない。とした判例である。
 この事例では当局と教育委員会という独立性が求められる機関の間の関係を前提として、違法性を棄却している。

 しかし、今次住民監査請求においては、「先行する原因行為」の中の政治的中立性の欠如(憲法第15条第2項からの逸脱、不当性)を主張しているのであって、「本件応訴及び控訴が違法又は不当であるかどうかの判断は監査委員のすべきところではない」としているが、まさにそれこそが監査すべき「先行する原因行為」なのであり、そこに不当性があれば当然「原因行為を前提としてされた当該職員の行為自体が財務会計法規上の義務に違反する違法なもの」となってしまうのであって、財務会計法上の措置、つまり予算執行時にアホウのようにハンコを並べるのは、何の為かと問われているのだ。誰一人としてその「先行する原因行為」についての違法・不当性を認識せず、誰一人としてその予算執行に疑問を持たないのであれば、人間が確認を行う必要など無い。

 また「住民監査請求の対象は財務会計上の行為に限られている」と言いながらも、その「財務会計上の行為」は「先行する原因行為」によって行われるのであり、その「先行する原因行為」について住民から監査請求が為されているのであれば、住民に対してその「先行する原因行為」についての正当性、遵法性を説明する責任があるはずであり、「 本件応訴及び控訴が違法又は不当であるかどうかの判断は監査委員のすべきところではない」等とするのであれば、「監査委員会には考える脳みそはない」と言っているに等しい。まったく無駄な存在と言う以外にない。

 本件訴状、及び控訴状ならびに「意見書」は、恥知らずにも名古屋市のHPに掲載されている。その発出元は「名古屋市」となっているが、これは河村たかしを市長として選んだ名古屋市民の恥の記録なのだろうか。そうかも知れない。

 いっそ、ガラスの箱にでも詰めて、永く市役所のホールにでも掲載しておくべきかもしれない。無責任な投票行動が、常識や文化、行政をどこまで貶めるものか。前車の轍として残しておくべきだろうか。


河村たかし市長の芸術政治利用を許さない会住民監査請求

追記(2022年8月25日):請求代理人より許可を得たので、住民監査の内容(名古屋市職員措置請求書)を掲載します。

個人名、住所等は伏せてあります。
フォント、文字数、行数等は改変してあります。

名古屋市職員措置請求書20220707.pdf - Google ドライブ


 「河村たかし名古屋市長による芸術の政治利用を許さない会」が住民監査請求を起こしている。8月19日に意見陳述が行われたようだ。

 「あいちトリエンナーレ2019」の負担金の一部について、名古屋市は「あいちトリエンナーレ2019実行委員会(会長:大村愛知県知事)」に支払いを拒否し、同実行委員会から支払いを求められ、訴訟に発展した。5月25日に判決が言い渡され、当然のことながら実行委員会側の完全勝訴の判決がくだされた。判決の中では河村市長がクドクドクドクド繰り返す「芸術への異様な評価」についても否定的な判断がくだされ、名古屋市の、というか河村市長の(というか、代理人である北口弁護士の)主張は完全に否定されている。

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名古屋市は、というか河村市長は諦め悪く控訴したわけだが、この控訴が無駄であると、名古屋市民176名が監査人となって請求されたのが今回の住民監査である。

この控訴について、「議会が控訴費用なんか予算承認しなければ控訴できないのではないのか、議会はなぜ諾々と河村市長の控訴を認めるんだ」という意見がある。

私も同じような意見を市議にぶつけたことがある。
その際に大意こう反論された。

「まず、大前提として公訴権というものがあって、当人が控訴したいと言っているものを妨げる権利は(よほど公序良俗に反しない、緊急性がない限り)議会にはない。これが第一段階。
 次に、ここで控訴を議会が止めるとする。すると河村市長は絶対にこう言う『むちゃくちゃですわ、わしが勝てた裁判を議会が邪魔したんですから』議会の責任にするだろう、そんな責任転嫁をさせたくない。それが第二弾階。
 そして大切な事は、どうせ控訴したって負けるに決まっている。判決が出るたびに『河村市長、あんた間違ってるよ』と言われるわけで、そうやって恥をかけば良い。最高裁まで三回あるんだから、三回恥をかける、これが大事な第三段階」

なので、訴訟費用は確かにもったいないが、本人がやるという控訴を止めることはできない。とのことだ。私は納得している。

なので、この住民監査で控訴が止まるのは困る(費用を河村市長自身で負担すれば良い)

しかし、そうした控訴の判断が、市民から見て許しがたい、政治利用、市政の私物化であることは間違いがなく、そうした意味を明確にする為にも、監査請求人の一人となって参加した。また、昨日の意見陳述に合わせて陳述書を提出させていただいた。(資料番号12だそうだ)

 この私が書いた陳述書については、私がここで公開する分には自由なのだそうで、担当弁護士の了承を得て、ここに掲載させていただきます。

 当ブログの既存記事を下敷きにしています。

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陳述書

令和4年8月15日
名古屋市監査委員御中

(資料番号12)



名古屋市は、あいちトリエンナーレ2019に係る経費として、本件負担金の総額を減額変更したことに伴い、令和2年5月21日に、「あいちトリエンナーレ実行委員会」より、不交付分の負担金(3380万2000円)等の支払を求めて負担金交付請求事件を提起された。
その後の意見陳述等を踏まえ、令和4年5月25日に、名古屋地方裁判所より敗訴の判決を言い渡された。


名古屋市は、同判決を不服として、令和4年5月30日に名古屋高等裁判所に控訴を提起したが、判決は法的にも適切なものであり、常識的に見ても妥当性を持つ。河村市長個人の特殊な主張によって名古屋市民の浄財である名古屋市の予算を費消することは適当ではなく、控訴にかかる日時もまた無駄である。名古屋市は即刻無駄な控訴を取りやめるべきである。


一審判決におけるすべての名古屋市側意見は公開されていないため、名古屋市が公式ホームページ上で公開している判決書(https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/page/0000153810.html)より、名古屋市側の意見とされている物を閲すると、その中には、日本国政府の政府見解と異なる独自の意見、または歴史修正主義と断じられても仕方のない意見もあり、名古屋市民としては名古屋市が公金をもって公の裁判において、このような意見を提出することは容認しがたい。また、本来各個人が自由に解釈すべき芸術作品について、河村市長個人の独特な、そして作者までもが否定している解釈を押し付け、一方的な評価を下している部分もあり、こちらも容認し難い。


今般の裁判における主たる争点は「事情の変更により特別の必要が生じたとき」には負担金の支払いを拒むことができると名古屋市は主張するが、その主張は正しいのか。(判決文にいう「争点(3)」)というものだが、その前にも手続き論として書面表決は規約13条8項の「会長が必要と認める場合」の要件を満たすかというもの(判決文にいう「争点(1)」)と、書面表決は定足数要件を満たすかという議論(判決文にいう「争点(2)」)もあるが、いずれも原告(「あいちトリエンナーレ実行委員会」)の主張が採用されている。


主たる争点はまた8項目に細分化されている。


(1)「事情の変更により特別の必要が生じたとき」の解釈
(2)本件での各事情の検討
(3)公共事業性とハラスメントについて
(4)政治的中立性について
(5)報告義務違反の有無
(6)運営会議の不開催
(7)その他の事情(原告に生じる不利益)
(8)事情の変更による特別の必要性の判断


この中でも「(3)公共事業性とハラスメントについて」から「(4)政治的中立性について」において、裁判所は不自由展に対して反対意見が多数寄せられたことを受け、鑑賞者に不快感、嫌悪感を生じさせたかもしれないとしながらも、そうした表現方法、芸術活動というものもあるのであって、そうした芸術活動を「ハラスメント」として、違法と断言することはできないとしている。


実態としては、不自由展に多く寄せられた反対意見というものは、実際の展示を見たわけでもない者たちが、一部政治的にゆがんだインターネットコンテンツ(主には、ユーチューブ動画)によってデマを吹き込まれた結果、その是非を考えないままその意見をオウム返しに述べたものばかりで、よしんばそれが正当な意見であるとしても、裁判所は法的に展覧会を否定できないとした判断であり、非常に力強い。


また、河村市長が今に至るも繰り返している「あいちトリエンナーレ」が公共事業であるという主張についても、「原告(あいちトリエンナーレ実行委員会)は権利能力なき社団であって、地方公共団体ではないから、本件芸術祭を地方公共団体が行うような公共事業であるということはできない」と退けている。河村市長はこの判決文を読んでいないのだろうか。または名古屋市長でありながら「公共事業」の意味を理解していないのかもしれないと危惧される。


これでまだ河村市長において「公共事業だから云々」という主張を繰り返し控訴しようというのであれば、単なる蒙昧と断定する以外無い。


判決文は、以上のような流れで、最後に判断を述べているが、全てについて被告=名古屋市の主張を退けている。原告側の完全勝訴で、これで控訴を行うなどとは単なる政治的パフォーマンス、公金の無駄な浪費でしかない。


そもそも河村市長は負担金を払わないとした時に、文化庁も不払いとしていて「文化庁が払うのなら、名古屋市も払いますよ」と言っていた。文化庁はその後支払いを行ったのだから、そのタイミングで名古屋市も追従しておけば面倒も裁判費用も必要なかった。あの河村市長の発言は何だったのか、無責任な食言である。


河村市長の政治的都合、決断力のなさで、名古屋市民の浄財を浪費しているにすぎない。




この判決文で引かれている被告=名古屋市の主張に、「政治的に中立であるべき地方自治体」である名古屋市において、正当性を疑うような記述がある。その一つは23ページ目からの「不自由展実行委員会の構成員5名は、いずれも、美術の専門家ではなく、いわゆる左翼系メディアに登場するジャーナリストないし左翼系活動家としてしられている」とする記述以降のものであって、完全に政治的偏向があり、歪んだ政治思想に満ち、品位を欠いた揶揄である。


そして呆れたことに、名古屋市が公開している判決文のこの部分は対象者氏名らしきものをここでは黒塗りしているが、判決文全体では先に5名の氏名は記述されており黒塗りの意味もない誹謗中傷行為である。


もう一つ指摘をしておくと、被告=名古屋市は、こうした構成を原告(あいちトリエンナーレ実行委員会)事務局も知っていたと主張しているが、ではその原告(あいちトリエンナーレ実行委員会)の会長代行である河村たかし名古屋市長は知り得なかったのだろうか?


十分に知りえる立場にいながら、その構成をこうして事後に批判するというのは、当たらないのではないのか?


判決文19ページに著された名古屋市側の主張とされる次の記述も政府見解からも逸脱し問題である。


「キム作品についていえば、いわゆる従軍慰安婦問題は、新聞社が、捏造した虚報を全世界に向けて大々的に、何度も繰り返し発信し続けたことにより、韓国をはじめとする全世界の人々に、あたかも慰安婦の強制連行が歴史的事実であるかのように誤解され、信じ込まれてしまったものである。これによって、日本及び日本国民は著しい国辱を受けた」


二段階で考える必要がある。「従軍慰安婦問題」とその「強制連行」の問題だ。ここでいう「新聞社」の「捏造した虚報」というものは、いわゆる「朝日新聞による吉田証言問題」を指していることは明らかだがそこで「捏造」されたものは、「吉田なる人物が従軍慰安婦の強制連行に手を貸した」ということであって、全体としての「従軍慰安婦」の存在は否定されていないし、「強制連行」の歴史的事実も否定などされていない。


政府見解としては「従軍慰安婦」は歴史的事実であって、それを地方自治体が裁判上の主張として否定する行為は、行政の一貫性の上からも失当であり看過し難い。


「吉田なる人物が従軍慰安婦の強制連行に手を貸した」事実はなかったが、それは全体としての「従軍慰安婦の強制連行」の実在を揺るがすものではない。


アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)という団体がある。戦時性暴力についての資料を参集し、インターネット上で公開している。(https://wam-peace.org/
このサイトで、「連行」というキーワードで資料を検索すると、様々な証言や裁判資料、郷土史料などが参照できる。


例えば、吉見義明名誉教授(映画「主戦場」でも発言が引用されていた、日本近現代史の泰斗)監修の「東京裁判-性暴力関係資料」からの「桂林 軍事委員会行政院戦犯罪証拠調査小隊」による裁判資料には次のような記述がある。


「工場ノ設立ヲ宣伝シ四方ヨリ女工ヲ招致シ麗澤門外ニ連レ行キ強迫シテ妓女トシテ獣ノ如キ軍隊ノ淫楽ニ供シタ」


また東京裁判における「ビールマン夫人宣誓供述書」には次のようにある。


「是等兵士ノ幾ラカガ這入ッテ其ノ中ノ1人ハ私ヲ引張ッテ私ノ室ヘ連レテ行キマシタ。私ハ一憲兵将校ガ入ッテ来ルマデ反抗シマシタ。其憲兵ハ私達ハ日本人ヲ接待シナケレバナラナイ。何故カト云ヘバ若シ吾々ガ拒ンデ応ジナイナラバ、居所ガ判ッテヰル吾々ノ夫ガ責任ヲ問ハレルト私ニ語リマシタ。コノ様ニ語ッタ後、憲兵ハ其兵士ト私トタケ残シテ立去リマシタ其時デスラモ私ハ尚ホ抵抗シマシタ。然シ事実上私ハヤラレテシマイマシタ。彼ハ衣服ヲ私ノ身体カラ裂キ取リマシタ。ソシテ私ノ両腕ヲ後ニ捻リマシタ。ソコデ私ハ無力トナリ、ソノ後デ彼ハ私ニ性交ヲ迫リマシタ。・・・此ノ状態ガ3週間継続シマシタ」


こうした証言、史料は一つや二つではない。そうした数々の史料のうち、その一部でしか無い「吉田証言」の虚偽性だけを暴き立ててあたかも全体が虚偽であるかのごとく主張する行為は、論理学の解らない愚昧の所業である。


更にいうと、こうした東京裁判並びに連合国軍事法廷の裁判を受託することが、第二次世界大戦以降日本が主権を回復するための講和の条件であった。


サンフランシスコ平和条約」の第十一条には次のような記述がある。


「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。(略)」


日本は、上記裁判の結果を受け入れることで、講和を得た。この条約の効力は当然今も働いている。この裁判結果を受け入れたくなければ、もう一度この国はGHQの占領下に戻してもらうか、条約の破棄を宣言すべきだろう。


それもできないまま、他国には条約を守る(東京裁判等の結果を受け入れる)ふりをしつつ、内向きには「東京裁判史観からの脱却」などと、今更ながらの責任逃れを行う。そのような二枚舌こそ、恥ずべき行為であり、日本及び日本国民の「著しい国辱」と言うべきなのではないか。
二枚舌、嘘つきは名古屋市の代表者として相応しくない。


名古屋市が公金をもって斯くも破廉恥な主張を行うことは容認しがたいものである。




河村市長は令和元年9月20日に、あいちトリエンナーレのあり方について原告(あいちトリエンナーレ実行委員会)会長の大村秀章愛知県知事に「公開質問状」を送っている。


https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/cmsfiles/contents/0000121/121114/190920.pdf
この「5」において「質問の趣旨」として「阪口正二郎」氏(現:早稲田大学社会科学総合学術院 社会科学部教授)の論文を引用している。しかし、その阪口正二郎教授は、令和元年8月14日に「現代ビジネス」誌上で次のように述べておられる。


「ここで今回の『排除』に公権力が関わっていると考えるのは、河村たかし名古屋市長が、今回の展示物に対して『日本国民の心を踏みにじる行為』だとして、展示の中止を求める抗議文を実行委員会に提出していたことによる。河村市長の行為は公権力の行為として誤っている。」(「表現の不自由展」中止と「ヤジ排除」不寛容な日本社会の深刻な状況(阪口 正二郎) | 現代ビジネス | https://gendai.media/articles/-/66519?page=2


つまり、河村市長は自らの公開質問状で根拠として挙げた法律上の有識者に、直接行為を否定されているのであり、この段階で考えを改めるべきである。また、同公開質問状で引用されている阪口 正二郎論文「芸術に対する国家の財政援助と表現の自由」(法律時報74巻1号参照:https://cir.nii.ac.jp/crid/1520854805438556544)を引いてみると、同論文は先行研究として奥平康弘さん(2015年に亡くなった東京大学名誉教授であり、憲法、特に表現の自由アメリカ合衆国憲法の泰斗)の「福祉国家における表現の不自由➖富山県立近代美術館のばあい」(法時60巻2号75頁)(1988)「法ってなんだ」184頁(大蔵省印刷局、1995)及び「”自由”と不連続関係の文化と”自由”と折合いをつけることが求められる文化➖最近の美術館運営問題を素材として(上)(中)(下)」(法セミ547号80頁、548号82頁、549号77頁)が掲げられている。


もちろんここで言う「 富山県立近代美術館のばあい」とは、大浦信行さんの『遠近を抱えて』を巡る騒動のことであり、当時は「天皇コラージュ問題」とされたものが、現在において「天皇写真焼却問題」とされているものである。


実は、こうして一つのテーマが30年以上にわたって議論されている(というか、政治的道具として芸術作品が使われ、一方的な誹謗を受けている)わけだが、そうした歴史的な重層性は河村市長の文章からはうかがい知れない。


阪口正二郎論文「芸術に対する国家の財政援助と表現の自由」には次のような記述がある。「芸術と国家の関わりについての憲法上の問題を析出しようとする文章であり、本稿は問題の解決策を提示しようとするものではなく、問題をいかなるものとして認識すべきなのか、筆者なりの認識を示す。」(「1.はじめに」)
同論文は阪口教授の私見であり試論であるとされる。つまり、河村市長が公開質問の主張を補強する根拠とするには、そもそもそぐわないものである。


続く「2.芸術に対する国家の援助と干渉」及び「3.政府言論という問題」において阪口教授は述べる。


「一方で国家の側からすれば芸術をコントロールしようとする動機があり、他方で芸術の側からすれば自己の普及のためには国家による財政的な援助を期待せざるを得ず、こうした両者の要求が広範に交錯する現代の国家にあって(略)文化に属する芸術に対して国家が選別的な形で援助を行う際にも、やはり政府言論という視座は無視しえない意味を持つはずである。」と、注意を促している。


「4.政府言論のディレンマ」において、その「政府言論」についての論考は深められていく。


「国家が私人のなす表現行為に対して内容に基づく<規制>を行う場合、わいせつ表現や名誉毀損など一定のカテゴリーに属する表現行為の場合を除いて、規制は最も厳格な審査に服する。では、私人の表現行為に対する国家による内容に基づく選別的な<援助>の場合にも、同様に考えるべきだろうか。あるいは、そもそも政府言論に問題があるのだとすれば、より広く、政府言論は一般的に許されないと考えるべきだろうか。(略)政府言論には危険性と同時に積極的なメリットがあり、そのことは、政府言論の危険性が問題になる、表現行為に対する国家の選別的な形での援助についても(略)少なくとも部分的にはあてはまる。『政府言論のディレンマ』『政府言論のパラドックス』と呼ばれる。」


「民主主義国家において、われわれが主権者として国家の行動を監視し賢明な判断をしようとすれば、われわれは政府の立場を知る必要がある。」


「さらに、資本主義のもとで言論市場が一定の私的権力によって独占される危険性がある場合に、国家は、そうした環境にあっては容易に市場に登場しそうにない私人の表現行為に財政援助をなすことで、言論市場をより豊かなものにすることによって、民主主義や個人の自立といった価値に貢献することができる。」


「国家が表現行為の内容に基づいて選別的に援助をなすことが禁じられている領域があることを考えればわかる。それは、道路や公園などいわゆるパブリック・フォーラムの領域である。」


「道路や公園など典型的なパブリック・フォーラムの領域において、国家が表現の内容に基づいて規制を行う場合、規制は厳格な審査に服し、よほどのことがなければ合憲とされることはない。道路や公園が公の営造物であろうと、国家はそこで私人が自己の所有する土地において振舞うのと同じように振舞うことが許されているわけではない。」


「『芸術としての卓越性』という選別基準も、(略)一般的には許されるはずである。(略)芸術作品としてすぐれたものではないという理由で国家が援助を拒否することは可能である。そもそも芸術活動への財政援助という制度の趣旨は、すぐれた芸術作品の供給を促進することにあるはずであり、質の劣った芸術活動にまで援助することは制度の趣旨に反し、制度それ自体の存立を危うくさせる可能性がある。」


「しかし他方で、国家はいかなる内容に基づく選別をしても許されるというわけでもないはずである。たとえば、自民党を支持する芸術家には補助金を支出するが、自民党を批判する芸術家には補助金の支出を拒否するといった形での選別的援助は憲法上の問題を提起する。」


「国家が芸術活動に財政援助をなすかどうかは国家の正当な裁量の範囲内にあり、しかも国家は財政援助をなすにあたって、私人の表現行為を規制する場合とは異なって、一定の内容に基づく選別をなすことも許されていると考えられるが、だからといって国家の内容に基づく選別に憲法上の制約が全くないわけではない。」


最後の「6.観点に基づく選別」において。表現行為の内容に基づく選別を「主題に基づく選別」と「観点に基づく選別」という伝統的な表現の自由理論の分類に従って考察すると、「主題に基づく選別が、国家が芸術に援助をなす場合には、国家が単純な検閲者として立ち現れる場合とは異なって、一般的に許される可能性がある。」


観点に基づく選別はどうだろうか。「自民党を支持する芸術家」という例で考えたように「観点に基づく選別の禁止というルールは有効そうに見える。」しかし、話はそんなに単純ではない。


「芸術としての卓越性」といった基準は、観点に基づく選別とそう簡単には切り離せない。


「芸術活動に対する国家の援助という領域においては、観点に基づく選別の禁止というルールですら、ある程度適用範囲を限定し、すぐれた芸術の促進という制度の存立目的と合理的関連性のない『純粋な観点に基づく選別』を禁止することにとどまざるをえないだろう。(略)学問の自由の場合と同様に、やはりこの領域において肝要なことは、すぐれた芸術に対して援助を行うという制度それ自体をできるだけ政治から切り離し、『(芸術としての卓越性という)基準を政府が過度に政治化させないようにすること』であり、制度それ自体の自律性を確保することである。」


明白だろう。「すぐれた芸術に対して援助を行うという制度それ自体をできるだけ政治から切り離し(略)政府が過度に政治化させないようにする」ことが肝要であると政治の介入を排除しているのである。


つまり、ここにおいて、河村市長の主張は阪口教授の論考で否定されている。




この阪口論文に先行する奥平論文において、まるで予言を見ているような、歴史的重層性に驚かされる。


先に上げた「福祉国家における表現の不自由➖富山県立近代美術館のばあい」及び「”自由”と不連続関係の文化と”自由”と折合いをつけることが求められる文化➖最近の美術館運営問題を素材として(上)(中)(下)」は奥平康弘さんの著書「憲法の想像力」(日本評論社 2003年)に収録されているようだ。以下ではその書籍からの論考を述べる。


繰り返すが、阪口正二郎教授の論文を、公開質問状の中で引用したのは河村たかし名古屋市長本人であり、その阪口正二郎教授の論文は先行研究として奥平康弘さんの論考を下敷きとしている。


同書142ページより「”自由”と不連続関係に在る文化と”自由”と折合いをつけることが求められる文化/最近の美術館運営問題を素材にして」と、阪口さんが参照している論文が掲載されている。(初出:「法学セミナー」2000年7・8・9月号)


「『天皇コラージュ』事件とは、1986年3月、富山県立近代美術館が催した『’86富山の美術』展で展示されていた大浦信行作品『遠近を抱えて』を、数十日後に県議会において県議二名が『不快だ』と非難し、さらにそれをきっかけに右翼団体が大規模な反対・抗議運動を組織化し、大きな騒ぎになったことに、端を発する。県の美術館はこうした動きに動転し、問題の作品を早速非公開とする措置を講じた。県側の対応はまことに徹底したものであって、問題作品を館外に売り払い、同展覧会のための図録も一切焼却してしまった。
県議たちにより『不快だ』として『展示するチャンス』=『表現の自由』を奪われた作品は、当時存命中であった昭和天皇の写真を題材にし、その周辺にヨーロッパで名画として知られているボッティチェリの裸婦像の部分などを組み合わせて作られた連作コラージュ版画である。県議らは、これを『天皇のプライヴァシー』『天皇の肖像権』を侵した不敬作品であるときめつけたのであった。『天皇中心の”神の国”』を信じる(あるいは信ずる振りをする)ことによって人びとの注目をひこうとした地方政治家の思惑は、ものの見事に当たった。また、なにかことを起こすことによって、勢力の維持・拡大をはかろうとしていた右翼団体にとっては、これは物怪の幸いであった。全国のあちらこちらから拡声器を積んだ自動車をもって、続々と富山市に集結。喜々として抗議運動を展開した(富山県立近代美術館問題を考える会編『全記録 裁かれた天皇コラージュ』桂書房、2001年、参照)」(憲法の想像力 p.145)


事実として明白なように「昭和天皇御真影」を焼いたのは、大浦さんの作品を収めた図録を焼いた富山県立近代美術館なのであって、そう追い込んだのは、「不快だ」として大浦作品を否定した県議や右翼団体である。


こうした出来事に出会い、その心情を映像作品にしたのが、今回あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」で展示された大浦作品の「オリジナル作品」であり、本来は1時間を超える映像作品となっている。それをあいちトリエンナーレの会場では20分程度のダイジェストにまとめて展示していた。同会場では、作品の閲覧前に注意書きがなされ、不用意に閲覧しないように警告、ゾーニングがなされていた。そうした中で動画を勝手に報道引用し、更に「天皇焼損シーン」だけを切り取って繰り返し放映したのがテレビのワイドショーであり、インターネット上の違法転載サイトである。
批判はこの切り取られた「天皇焼損シーン」に対して行われているものであり、もはや大浦さんの作品とはいえない、あまりにも歪められた事実経過と言わねばならない。


その後、富山県では大浦作品の再展示を求める訴訟が起こされ、いわゆる「天皇コラージュ問題」として取り上げられることになるが、再展示は認められなかった。


「公の施設としての美術館は、従来からの実定法システム(およびそれを前提とした行政法論理)に守られて、美術館経営に関して非常に広い --ほとんど不当といいたくなるほど広い-- 裁量が授権されていると考えられてきている。富山県立近代美術館が『天皇コラージュ』作品に対しておこなった非公開措置も、これの当否を訴訟という形式をもって争うことは、たいへんに難しい。誰が、いかなる権利にもとづいて、美術館のどんな行為を、違法として争うことができるのだろうか。要するにいままでは、県が配分する予算の範囲内で美術館は、作品の購入・売却・展示・その差し替えなど、経営の根幹にかかわる部分において、裁量、すなわち『法から自由』の行動余地を与えられてきている。館の措置によって利害・損害を受ける者があるにしても、そのすべては『法と無関係』な事実上の(反射的な)利得に過ぎないのであって、裁判上の救済その他の法の対象たりえない --そういう建前で制度が作られ運用されてきている。」(憲法の想像力 p.147)


つまり上記で阪口教授が指摘されたように、「『政府が過度に政治化させないようにすること』であり、制度それ自体の自律性を確保」されているがために、美術館が「非公開」と決めてしまえば、それを覆すことはできない。


これは翻って言えば、正当な法的観点から見た場合、今回のようにあいちトリエンナーレ実行委員会や、その個別展示である「表現の不自由展・その後」のキュレーターなど、展示主体が公開を決めた以上、政治が介入する事は不当であるということだ。作品に対する意見や批判は自由に行えばいいが、政治的に介入すれば不当な事となる。当たり前過ぎて、繰り返すのもバカバカしいが、河村市長の判断が、不当であり、間違っている。


更に奥平さんは同書で非常に示唆に富む事例を報告されている。それはまるで今日の予言である。それが「ニューヨーク市ブルックリン美術館」における騒動の顛末である。


「まず、ブルックリン美術館をめぐる話である。ことのありようはこうである。ブルックリン美術館は、1999年10月はじめに、ある大規模な特別展を開く予定で計画を進めていた。ところが、この展覧会で展示されることになっていたいくつかの作品の内容がよろしくないという理由で、開幕間際、9月半ば過ぎになって、当該美術館の親元であるニューヨーク市の市長R・W・ジュリアーニが、美術館側に計画の変更を求めるという事態へと発展した。しかし美術館はこれに応じなかったため、ジュリアーニ市長は、毎月公費で支払われる美術館運営費(月額49万7554ドル)の打ち切りを決定するとともに、美術館に対する土地建物の貸与契約の破棄を通告するという、異例の強硬な挙に出たのである。すなわち、いまや美術館は、ひとつの展覧会計画を実行しようとしたために、それに異議を挟む市長によって、美術館の存立そのものを葬り去られる瀬戸際に立たされるにいたったのである。」(憲法の想像力 p.150)


「この騒ぎがどんなふうに結着がついたかというと、 (略) 散々のケチにもかかわらず美術館は当初の計画を全く変えること無く、予定どおり (略) 難なく終幕を迎えた。 (略) 暫定推定での入場者数18万人にのぼり、現代物としては美術館はじまって以来最多の観客を集めたという。 (略) この現象の背後にはジュリアーニ市長の馬鹿騒ぎがあったのであって、展覧会成功はこの市長の愚行の功績によるところが大きかったという皮肉的な見方が成り立つかもしれない。」(憲法の想像力 p.151)


あいちトリエンナーレ2019においても、来場者数が67万人を超え、過去最多となった。「市長の愚行の功績によるところが大きかった」というところまで同じとなった。


問題の作品展とは「センセイション――サーチ・コレクションのなかのイギリス若手芸術家たちの作品群」と題するもの。


「市長(ジュリアーニニューヨーク市長:引用者補足)が本件展覧会『センセイション』開催反対理由として挙げたのは、まずC・オフィリ『聖なる処女マリア』である。この、ケニア出身の画家が描くマリア像では、一方の乳房に象の糞を素材に用いており、その背景には臀部や女性器の写真小片が散りばめられているという構図の、いってみれば独特にアフリカ調が強くうかがわれる作品である。ジュリアーニ市長は、この作品をつかまえて『私を不快にする』『むかつく』と酷評し、さらに公金支出打ち切り決定を次のように説明した。『あなた方は、政府の補助金をもらって、他のだれかの宗教を冒涜する権利など持っていないのだ。だから、われわれ市当局としては、美術館長がまともな分別を取り戻すようになるまで、美術館への公金支出を中止するなど、やれることはすべてやる意向である。美術館としては、自分たちが政府から補助してもらっている施設である以上は、社会に在る人びとがもっとも個人的に深く抱懐する信条を傷つけるようなことがあってはならない、と悟るべきなのである。』と語り。
返す刀で市長はまた、動物の肉片等をフォルマリン漬けにしたものを素材にしたハーストの作品にも言及し、これにも『むかつく』と評して打ち棄てた。爾来、この騒動のなかでは、『むかつく』(sick)というジュリアーニ市長の評言が流行を見ることになる。」(憲法の想像力 p.157)


ジュリアーニ市長は宗教感情に訴えたが、かれ自身カトリック教徒であるのは公知の事実であり、従来からそれを売り物にもしてきたところでもあって、かれのこの訴えはニューヨークに少なくはない同宗派の面々の支持を見込んだうえでのことである。」(憲法の想像力 p.158)


つまり、今回のあいトリ騒動では日本国内の「天皇崇拝者」の宗教的シンボルが「穢された」のであろうし、ブルックリン美術館での騒動では、カソリックの宗教的シンボルである「マリア像」が「穢された」ということなんだろう。


ジュリアーニ市長からみれば、この作品(C・オフィリ「聖なる処女マリア」:引用者補足)は反カトリック的であるがゆえに『むかつく』のであるが、じつをいえば、これを作ったオフィリもまたカトリック教徒なのであって、この作品にはなんの神聖冒涜・反カトリック的な意味合いをこめていないのだ。と抗弁する。象の糞を使ったのが侮辱的証拠だという非難に対しても、オフィリの出身地アフリカのある地域では、民族宗教のうえで象の糞は豊穣神のシンボルとしてむしろ神聖視され、かかるものとして象徴的に用いられてさえいるという話もあるのである(オフィリは、本件展覧会で展示されるかれの他の作品のいくつかでも、同じく象の糞を素材に用いている)。」


「作品の美醜をめぐる美学的な判断というものは、なかなかに微妙なものがある。そうだから、公金を扱う権力者は極力この判断世界に入るのを避けねばならないということになるのだが、ジュリアーニ市長はそうは考えなかったようである。」(憲法の想像力 p.158)


つまり、ジュリアーニ市長の無理解がこの騒動の発端なのであり、異なるエスニシティに対する不寛容が問題だったわけだ。


このブルックリン美術館での騒動、ジュリアーニ市長の騒動、または「センセイション/サーチ・コレクション」の騒動は、美術に詳しい人々の中では有名だそうだが、あいちトリエンナーレ騒動では、そうした意見は聞かれなかった。河村市長は、画廊を経営していた「画商」だった筈なのだが、こうした事例について、ご存じなかったのだろうか?


「80年代 (略) 芸術家たちの作品評価をめぐり大論争が生じた。こうしたばあい、議論の場は、けっしてただ単に芸術家同士あるいは芸術愛好者とか鑑賞市民とかいった、諸個人間の芸術論争という形で展開するのではない。きわめてしばしば、公金支出という契機を媒介として公権力主体が出てきて、芸術論争にある種独特な公的裁断をくだすという構造というかしくみになっている。そこに現代社会の特徴のひとつを見いだす、とさえ言える。」(憲法の想像力 p.174)


今回、このニューヨークにおける騒動と教訓を理解しないものが、この愛知県において同工異曲の騒動を引き起こしている。ビスマルクの警句「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは将にこのことだろう。


奥平康弘さんは同書で次のようにも述べてみえる。


「シフリン(Steven H. Shiffrin(Cornell Law School ) チャールズ・フランク・リービス法学部名誉教授:引用者補足)は、ある書物(The First Amendment, Democracy, and Romance, Harvard Univ. Press, 1990:引用者補足)によって『なぜ表現の自由は保証されねばならないのか』という問題に独創的な考察を加えているのであるが、それは結果において、さっきから言っている『想像力』ということと通底するところがある。


シフリンは言う。表現の自由なるものは、一九世紀中葉以降の詩人R・W・エマソンウォルト・ホイットマンなど個人主義的・反抗的・反権威主義的な人たちに象徴されるような性格のロマンティックな傾向を持つ者たちにこそ保障されるべきなのだ、と。どうしてそうなのか。


こういった人たちの言説は、反体制的・革新的・創造的であって、少数派であるがゆえに、政府や社会によって抑圧されるのが常である。けれども、こうした思潮こそが、社会に活力を与え、人びとを生き生きとさせ、民主主義を推し進めるものなのであって、そうだから、こういった傾向の意思表明を自由闊達に行わせるためにこそ、表現の自由憲法保障はあるのだ(あるべきなのだ)、とシフリンは言う。ここにはまさに、「想像力」をはたらかせ憲法憲法たらしめようというぼくの主張しているところと、オーバー・ラップしているところがあるのではないだろうか。」(憲法の想像力 p.22)


河村市長は、将に自由を尊重し、個人主義的であり、反抗的であり、反権威主義的な者だったはずだ。


そうした者が、自ら権力を握り、狭隘な思い込みから他者を批判し、他者の思想を排除し、聞く耳を持とうとしない。文化や価値観といったものの多様性を理解せず、他者の主張に対する「想像力」を失う。


権力が腐敗するとは、この「想像力」を失ったとき、思想の空間がよどみ、腐敗が始まるのだろう。


以上のように、名古屋市控訴審においても、特定の芸術作品について、河村市長個人の独特な見解に基づいて非難し誹謗する主張を繰り返していることは名古屋市民として容認することはできません。


以上

後日請求書本文(名古屋市職員措置請求書)も、許可が得られれば掲載する予定です。


カルトのジャーゴンとしての「自虐史観」

歴史は勝者のためにある
と言われる。現在放映されている大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の底本となっている『吾妻鏡』も、鎌倉幕府の勝者となった北条氏に立った記述であると言われている。中国の『史記』を著した司馬遷は、時の権力者が歴史を歪めようとしたことに抗して、宮刑に処せられたとも言われている。これも『漢書』に著されたところで、その他の説もあり、それぞれの著者が司馬遷に対してどう思っていたか、その主観がそれぞれの「歴史」を浮き上がらせる。

歴史には「自虐史観」も「自尊史観」もない。人間は恥多い者であり、また尊い者でもある。それらはそれぞれの環境や経緯によって現れた側面であって、一方的に正しいヒトや集団があるとは思えないし、逆に極悪非道なヒトや集団も無いのだろう。歴史の中で語られるそうした人々にも、別の側面は有ったのだろうし、歴史がその人物を万全と描ききることなどできるわけがない。

この「自虐史観」や「自尊史観」という言葉には注意した方がいい。「カルトは特殊な言葉(ジャーゴン)を使う」と言われているように、この言葉にも特殊な、暗示、洗脳の作用がある。「自虐史観」と繰り返し気に入らない歴史的事実に向かって決めつけていくことで、揺るぎない事実からも目をそむけ、歴史の現実から遊離してしまう。歴史はヒトの生きてきた物語であって、それを少しでも正しく捉え、理解することはヒトそのものの理解を助ける。歴史を歪めて理解するということは、このヒトに対する理解をも歪めるということとなり、歪んだ人間理解は、歪んだ判断に通じてしまう。

統一教会は韓国に対する日本の戦争犯罪や責任を信者に植え付けるそうだ。そしてその贖罪を求めるという。これを受けて「自虐史観」を子どもに教える教育がいけないのだ。という馬鹿な人達が居るけれど、そりゃあ話が逆だ。私が聞くところ、学校教育では日本の戦争犯罪についてあまり教えないと聞く。近現代史については通り一遍の学習にとどめ、カリキュラムの進み方によっては触れもしないそうだ。これは下手に日本の戦争犯罪や加害を授業で扱うと、「なぜ子どもたちに自虐史観を植え付けるのか、お前は日教組か!」と父母からクレームを受けるかららしい。実際私は日本が第二次世界大戦で米国と戦争したということを知らない高校生に会ったことがある。

つまり、大学に入りたての若者が、韓国に対する日本の戦争加害を知らない無垢なまま、カルト教団が洗脳用に用意したエキセントリックな日本の戦争犯罪や加害を写した動画でも見せられれば、罪悪感を植え付けるのは容易だろう。

正しいアプローチは、日本の戦争加害について、正しく伝え、その責任についても正しく理解を促すような授業を行うべきだ。確か片山さつき議員などは、「私は自分が行っていない戦争犯罪に責任を取ることはできない」と言っていたようだ。これはある一面その通りで、ヴァイツゼッカー演説「荒れ野の40年」でも、同じように、自分が行っていない結果に責任を求めるのは妥当ではないと述べている。(「自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません」)

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

しかし、自分が生まれる前に、自分の生まれた国が行った行為について理解しておくことは必要で、そうした「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」と戒めている。

こうした授業を行うことで、歴史的事実と、その事実への向き合い方を教えることは意義がある。例えば韓国のヒトに「お前は日本人だ、日本人は韓国に酷いことをした、自分のおじいさん、おばあさんは日本に酷い目にあった、謝罪しろ」などと責められた場合にも、そうした歴史的事実や言われたことを否定するのではなく、「私は確かに日本人で、日本人が韓国の人々に戦争の当時、酷い行いをしたことは歴史で習って知っている。それは申し訳ないことだと思っている。しかし、私自身はあなたや、あなた達韓国のヒトに対して酷い行いをしようとは思っていない、私のことを日本人だからと決めつけずに、一人の私として見てくれないか」と、伝えることも可能だろう。そう言ったところで伝わるか伝わらないかは判らないが、自分の身に覚えもない行動を、通り一遍の謝罪でごまかすのではなく、事実と事実を見つめ、共棲の機会を探ることはできるはずだ。

歴史的事実から「自虐史観」などという歪んだ言葉を使って目を背けるよりも、事実を直視し、それを乗り越えていく方法を模索すべきではないのだろうか。

真実に向き合うには、勇気が必要なのではなく、単純に謙虚であれば良い。


河村流減税(縮小均衡論)が奪ったもの

 新自由主義視野狭窄の思想だ。空間的には自国だけ、自分だけの狭い範囲の利己主義を肯定し、それを「現実主義」などとごまかす。時間的には過去からの教訓を汲もうとせず、将来への備えを否定する。今、ここでだけ有利な、目先の「思いつき」に固執する。これが新自由主義に他ならず、竹中平蔵などの主張に賛同する、自民党の清和会や維新がこうした主張を繰り返している。

 社会設計には健全な冗長性が必要であるにも関わらず、”今の社会”にとっての最適ばかりを追い求めると、社会の変化に対応できなくなる。

 医療、保健行政を削減してきた大阪が、このコロナ対応でどのようなひどい結果を招いたか、

www.youtube.com

 すでに明白だろう。

 そうしたところ、今朝の新聞を読んでいて驚き、呆れた。この参議院選挙に立候補している維新の候補が「ひとりの子も死なせない日本!」というキャッチコピーを掲げている。  

 前名古屋市副市長、河村たかし名古屋市長の下で副市長を努めていた人物だ。

某維新候補

 名古屋市が「ひとりの子も死なせない」と言えるだけのなにかの成果を上げているのであればまだしも。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/i/ichi-nagoyajin/20211124/20211124152506.jpg

 に示されているように、名古屋市内の中学校における生徒の自死事案は止まってなどいない。この問題の責任のすべてが、河村市政によるものなどとは主張しない、それぞれに様々な原因、問題があったのだろう。しかし、少なくともこの4年で11名の尊い命が失われている。こうした現実を受けて、では河村*1はなんらかの対策を取ろうとしているのだろうか。十年一日の如く「なごや子ども応援委員会」の設置を言うだけで、それが効果を見ていないことはこの資料からでも読み取れる。

 そもそも例えば、市民集会など開いて名古屋市民の意見を聞くという事が行われただろうか。全く行われてもいない。無策。

 それでいて、この11名の事実を無視するかのように「ひとりの子も死なせない」などと、策があるかのように喧伝する姿勢は有権者を騙すにしても、子どもの命を種にして有権者を騙す。人としてあるまじき行為ではないかと思えてならない。

 更に言うと「ひとりの子も死なせない」などという主張自体が視野狭窄に陥っている、非常に視野の狭い狭隘な主張であると指摘せねばならない。

 河村たかしはこの10年ほどで、名古屋から約9,000人の子どもを失わせている。

 日本の社会は出生数がどんどん落ちている。少子高齢化に対応していった結果、その想定以上に出生数が落ち、少子高齢化に拍車がかかっている。

 本来は、こうした子どもの減少や、社会の存続をはかるために「こども庁」を設立するという議論であったはずが、知らぬ間に「こども家庭庁」といういかにも自民党清和会的な、頭の悪そうな夾雑物が挟み込まれた。

 政治が「家庭」について、あれこれ口を出すなんてのは、全く僭越至極な態度であり、政治の本来の在り方は、国民個々人の求める「家庭」の姿を受け入れるプラットフォームづくりではないのだろうか。さらに「あるべき家庭」なんて口出しまでしそうな勢いで、こんな事を続けていけば、却って「あるべき家庭」の姿からはじき出された人々が、子どもを持つことが一層困難になる。

 急務は、どのような人であれ、どのような形であれ、子どもを産み育てられる社会のあり方が模索されるべきではないのか。そしてそれこそが政治が語るべき事柄ではないのか。

 以前、「縮小均衡論」が社会を縮め、経済を縮小させ、若者から結婚や育児の機会を奪っていると主張した。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

 すでに4年前の話だ。

 私はそこでこう述べた。

「この生まれなかった『失われた第3の人口の山』に示される、数十万人、百万人を超える子どもたちの背景には、失われた数十万という家庭があり、そこで育まれる生活や喜びがあった筈だ。ヒトが育ち、独り立ちをして職を得、社会を支える。その中で伴侶と出会い、家庭を築き、子どもを生み、育てる。そして子どもたちの成長を見守り、子どもたちの成長から学び、やがて子どもたちの独り立ちを見守る。必ずではないし、絶対でもないが、こうした当たり前の生活の姿は、ヒトの幸福そのものだろう。そうした幸福を、根こそぎ奪ったモノが、この30年ほどの日本の経済政策だ。『ひとり暮らしの40代が日本を滅ぼす』のではない、日本を滅ぼす経済政策が、雇用政策が、ひとり暮らしの40代を生んだのだ。」

 厚生労働省のサイトに出生数の推移がある。

出生数推移

www.mhlw.go.jp
 
 この図表の元となった出生数推移を見ると、2009年の出生数を基準にすると、累計で約80万人出生数が減っている。(2009年の出生数が、2019年まで続いていた場合と、現実との差が約80万人)

 ある人はこれを「子どもを産む前に殺してしまっている」と評した。

 公務員の給料が高いと見れば、それを引き下げようとするようなさもしい「引き下げデモクラシー」が、この日本の社会をどんどんと奈落の底に落としていった。

 他人を引き下ろしても、自分は浮かばれない。逆に、他人が浮かぶように考えることが、回り回って自分の身をも助ける。これが理性のある人間の姿ではないのか。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

 そうはせずに、公務員の給与を引き下げる、議員の報酬を引き下げる。そうしたさもしい精神が、やがて自分の収入をも引き下げることとなり、社会全体の経済を収縮させる。

 経済は、トレード・オフの関係にはない、公務員給与が下がれば民間の給与が上がるなどということはない、経済とは循環であり、メリーゴーランドのようなものだ。公務員給与が上がれば、公務員の消費が活発になり、市中の消費が活発化する。市中の消費が増えるということは、雇用が生まれ、市中の企業の売上も増え、そこに雇用されている社員の給与も上がっていく。社員の給与が増えれば、より一層消費は拡大し経済が活発化する。

 メリーゴーランドの何処かを止めたり、遅くすれば全体が止まり、減速する。名古屋市における「河村流減税政策」(通貨発行権のない地方が、歳出を削減して減税を行う政策)は、歳出を削減する事で、その事業を受ける民間企業の売上を減らすという縮小均衡を加速する政策であり、経済が収縮する時には行ってはならない失政である。(なので、日本全国どこも真似をしないし、経済学や行政学からも完全に無視をされている)

 しかし、こうした縮小均衡論の影響は確実に名古屋市内にも影響を及ぼし、名古屋市内における出生数も全国平均同様、減少を続けている。

名古屋市内出生数推移

 河村たかし名古屋市長となった2009年を基準に考えると、2020年までの11年間で累計9,194人「生まれなかった」事になっている。

 為政者として、この出生数の減少を我が事のように考えなければ、政治家ではない。「ひとりの子も死なせない」などとは、こうした現実を把握できない亡者の虚言にほかならない。河村たかしはこの10年ほどで、名古屋から約9,000人の子どもを失わせ、そこにあった当たり前の生活の姿、ヒトの幸せを奪っているのである。


*1:ここに敬称など要るか?

あいちトリエンナーレの負担金請求事件判決より(他一件)

 あいちトリエンナーレの負担金請求事件について、名古屋市(被告)が敗訴した。勝訴したのは原告「あいちトリエンナーレ実行委員会」(正確に言うと「愛知県」ではない)

 この判決文について、名古屋市がHP上で情報公開している。

www.city.nagoya.jp

 全編で100ページを超えるもので、一体誰が読むんだといった代物だけれど、私は読みます。

 その中でも被告(名古屋市)の主張として展開される、「従軍慰安婦の強制連行」についての記述(P.19)と、不自由展キュレーターへの誹謗中傷(p.21)は捨て置け無い問題であると考えます。(後述)

 判決文の中に「引用」されている被告=名古屋市の発言ですが、この裁判の中で被告=名古屋市の主張として、「地方公共団体が公共事業として行うことには、政治的中立性が求められる」と主張しているにも関わらず、被告=名古屋市の主張は明白に政治的偏向であり、矛盾しています。これらの発言について、追求してみたいと思います。

名古屋港管理組合での出来事

 その前に、最近の減税日本ゴヤのトホホな出来事を一つご報告しておきます。

 名古屋港は名古屋港管理組合が管理しており、名古屋市や愛知県とは独立で運営されています。(代表は名古屋市長と愛知県知事が2年毎に交代であたります。今年は河村市長が代表となっています)

www.port-of-nagoya.jp

 その運営は名古屋港管理組合議会(名港議会)を設け民主的な運営を担保しています。名港議会は30名で構成され、名古屋市会議員、愛知県会議員からそれぞれ15名が当たっています。

議員名簿|名古屋港管理組合公式ウェブサイト

 また、一般の地方公共団体と同様に監査委員も設けられており、その内の一名は議員から選任されています。

監査委員及び事務局|名古屋港管理組合公式ウェブサイト

 この監査委員に今年は名古屋市会から一人が選任されるのですが、これは名古屋市会の議会運営委員会で誰を選任するか計られました。その結果として自民党のN議員が監査委員として選任されることとなり、名古屋市の代表監査委員(民間)でもある人物と、2名が名古屋港管理組合の監査委員候補として、人事案件として名港議会に提案されることとなりました。

 この名古屋市議会運営委員会の段階で、減税日本ゴヤからは、特段意見もなく、人事案に対しては賛成の立場だったわけです。

 ところが、名港議会でこの人事案件が提出された際に突然、減税日本ゴヤの中川市議だけが議会から退席してしまいました。

 非公式には、減税日本ゴヤが、このN議員の過去の言動を「ハラスメントである」と訴えていることから、監査委員に選任するべきでないと主張した者がいたようですが、他の減税日本ゴヤの議員は人事案件に賛成の立場を取っていますし、そもそもこの議員を監査委員に押す議会運営委員会での議論では、減税日本ゴヤからはそうした意見も、反対も出ていなかったわけで、突然意見を変えたことになります。

 更にいうと、人事案件はこの議員と、名古屋市の民間監査委員の2名に対する賛否なのですから、その選任拒否は民間監査委員に対しても拒否することになります。

 後ほど名古屋市会、議会運営委員会でこの中川市議の退席について議論がされたわけですが、その際中川市議は「生理現象のため退席した」と主張しました。

 つまり、人事案に反対であったわけではなく、個人的事情で退席したとしたわけです。

 減税日本ゴヤが、真剣にこのN議員の言動を批判し、その人事案に対して否定するのであれば、選任を決める議会運営委員会で意見表明すべきでしょうし、そうした準備や明白な意思もなく、行き当たりばったりで名港議会に望み、退席という中途半端な行動を取るというのも無責任な話です。議員の判断、権能というのは有権者の付託を受けてのものであって、その有権者に説明できないような行動は、議員として行うべきではない。

 「生理現象のため退席した」などとする逃げ口上は、議員としての資質を疑うものとしておきます。

 減税日本ゴヤはもっと真面目に仕事をすべきでしょう、事前に議論を深めないから、こうした子どもじみた行き当たりばったりの行動が続き、議会に混乱を招いている。自分たちの(というか、一部議員の)  無能  思いつきの行動が、多くの人々の迷惑を引き起こしていることに自覚的であるべきです。

あいちトリエンナーレの負担金請求事件判決より

 さて、では本題の判決文の問題点に移りましょう。

 100ページ超の判決文ですが、p.39からの「裁判所の判断」までは、被告=名古屋市と、原告双方の主張が引かれているだけで、事実認定はされていない。裁判所の判断から読めば、客観的に何が起きたのかが理解できます。

(1)開幕までの経緯
(2)開幕後から中止に至るまでの経緯
(3)本件不自由展の展示状況等
(4)抗議・強迫の状況
(5)再開及び閉幕までの経過
(6)閉幕後の経過

 こうした経過については特段驚くほどの事はありません、しかし、経緯について確認したい方には格好の資料と言えます。

 p.63から始まる「争点」を追っていくと裁判で何が争われているのかがわかります。

 主たる争点は「事情の変更により特別の必要が生じたとき」には負担金の支払いを拒むことができると被告=名古屋市は主張するが、その主張は正しいのか。(争点(3))というものですが、その前にも手続き論として書面表決は規約13条8項の「会長が必要と認める場合」の要件を満たすかというもの(争点(1))と、書面表決は定足数要件を満たすかという議論(争点(2))もありますが、いずれも原告の主張が採用されています。

 主たる争点はまた8項目に細分化されています。

(1)「事情の変更により特別の必要が生じたとき」の解釈
(2)本件での各事情の検討
(3)公共事業性とハラスメントについて
(4)政治的中立性について
(5)報告義務違反の有無
(6)運営会議の不開催
(7)その他の事情(原告に生じる不利益)
(8)事情の変更による特別の必要性の判断

 この中でも「(3)公共事業性とハラスメントについて」から「(4)政治的中立性について」は勉強になります。

 ここで、裁判所は不自由展に対して反対意見が多数寄せられたことを受け、鑑賞者に不快感、嫌悪感を生じさせたかもしれないとしながらも、そうした表現方法、芸術活動というものもあるのであって、そうした芸術活動を「ハラスメント」として、違法と断言することはできないとしている。

 実態としては、不自由展に多く寄せられた反対意見というものは、実際の展示を見たわけでもない者たちが、一部政治的にゆがんだインターネットコンテンツ(主には、ユーチューブ動画)によってデマを吹き込まれた結果、その是非を考えないまま脊髄反射的に起こした行動でしかないが、それが正当な意見であるとしても、展覧を否定できないとした判断で、非常に力強い。

 また、河村市長が今に至るも繰り返している「あいちトリエンナーレ」が公共事業であるという主張についても、「原告(あいちトリエンナーレ実行委員会)は権利能力なき社団であって、地方公共団体ではないから、本件芸術祭を地方公共団体が行うような公共事業であるということはできない」と退けている。河村たかしは判決文を読んでいないのだろうか。または「公共事業」の意味を理解していないのかもしれない。名古屋市長のくせに。

 これでまだ河村*1が「公共事業だから云々」という主張をして控訴しようというのであれば、単なる蒙昧と断定する以外無い。

 判決文は、以上のような流れで、最後に判断を述べているが、全てについて被告=名古屋市の主張を退けている。原告側の完全勝訴で、これで控訴などというのは単なる政治的判断、往生際の悪さでしかない。

 そもそも河村は負担金を払わないとした時に、文化庁も不払いとしていて「文化庁が払うのなら、名古屋も払いますよ」と言っていた。文化庁はその後支払いを行ったのだから、そのタイミングで名古屋も追従しておけば面倒も裁判費用も必要なかった。

 河村の政治的都合、決断力のなさで、名古屋市民の浄財を浪費しているにすぎない。

 と、これが全体像だが、この判決文で引かれている被告=名古屋市の主張に、「政治的に中立であるべき地方自治体」である名古屋市において、正当性を疑うような記述がある。それがp.23からの「不自由展実行委員会の構成員5名は、いずれも、美術の専門家ではなく、いわゆる左翼系メディアに登場するジャーナリストないし左翼系活動家としてしられている」とする記述以降のものであって、完全に「ネトウヨ」の妄想レベルの揶揄ではないのか。そして呆れたことに、名古屋市が公開している判決文のこの部分は対象者氏名らしきものをここでは黒塗りしているが、判決文全体では先に5名の氏名は記述されており、そもそも公表もされている。

 もう一つ指摘をしておくと、被告=名古屋市は、こうした構成を原告事務局も知っていたと主張しているが、ではその原告の会長代行である河村たかし名古屋市長は知り得なかったのか?

 十分に知りえる立場にいながら、その構成をこうして事後に批判するというのは、当たらないのではないのか?

 この部分は、ぜひ名古屋市側の被告答弁書を精査して名古屋市または、北口弁護士の作文の問題点として追求してみたい。

 もう一つがp.19の記述である。

 引用する
 「キム作品についていえば、いわゆる従軍慰安婦問題は、新聞社が、捏造した虚報を全世界に向けて大々的に、何度も繰り返し発信し続けたことにより、韓国をはじめとする全世界の人々に、あたかも慰安婦の強制連行が歴史的事実であるかのように誤解され、信じ込まれてしまったものである。これによって、日本及び日本国民は著しい国辱を受けた」

 二段階で考える必要がある。「従軍慰安婦問題」とその「強制連行」の問題だ。ここでいう「新聞社」の「捏造した虚報」というものは、いわゆる「朝日新聞による吉田証言問題」を指していることは明らかだが(被告=名古屋市、または北口弁護士による当該主張書面を確認したいが)そこで「捏造」されたものは、「吉田なる人物が従軍慰安婦の強制連行に手を貸した」ということであって、全体としての「従軍慰安婦」の存在は否定されていないし、「強制連行」の歴史的事実も否定などされていない。

 政府見解としては「従軍慰安婦」は歴史的事実*2であって、それを地方自治体が裁判上の主張として否定する行為は、行政の一貫性の上からも失当であり看過し難い。

 「吉田なる人物が従軍慰安婦の強制連行に手を貸した」事実はなかったが、それは全体としての「従軍慰安婦の強制連行」の実在を揺るがすものではない。

 アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)という団体がある。戦時性暴力についての資料を参集し、インターネット上で公開している。

wam-peace.org

 このサイトで、「連行」というキーワードで資料を検索すると、様々な証言や裁判資料、郷土史料などが参照できる。

“連行” の検索結果 – 日本軍慰安所マップ

 例えば、吉見義明名誉教授(映画「主戦場」でも発言が引用されていた、日本近現代史の泰斗)監修の「東京裁判-性暴力関係資料」からの「桂林 軍事委員会行政院戦犯罪証拠調査小隊」による裁判資料には次のような記述がある。

「工場ノ設立ヲ宣伝シ四方ヨリ女工ヲ招致シ麗澤門外ニ連レ行キ強迫シテ妓女トシテ獣ノ如キ軍隊ノ淫楽ニ供シタ」

a-2915 – 日本軍慰安所マップ

また東京裁判における「ビールマン夫人宣誓供述書」には次のようにある。

「是等兵士ノ幾ラカガ這入ッテ其ノ中ノ1人ハ私ヲ引張ッテ私ノ室ヘ連レテ行キマシタ。私ハ一憲兵将校ガ入ッテ来ルマデ反抗シマシタ。其憲兵ハ私達ハ日本人ヲ接待シナケレバナラナイ。何故カト云ヘバ若シ吾々ガ□ンデ応ジナイナラバ、居所ガ判ッテヰル吾々ノ夫ガ責任ヲ問ハレルト私ニ語リマシタ。コノ様ニ語ッタ後、憲兵ハ其兵士ト私トタケ残シテ立去リマシタ其時デスラモ私ハ尚ホ抵抗シマシタ。然シ事実上私ハヤラレテシマイマシタ。彼ハ衣服ヲ私ノ身体カラ裂キ取リマシタ。ソシテ私ノ両腕ヲ後ニ捻リマシタ。ソコデ私ハ無力トナリ、ソノ後デ彼ハ私ニ性交ヲ迫リマシタ。・・・此ノ状態ガ3週間継続シマシタ」

a-3446 – 日本軍慰安所マップ

 こうした証言、史料は一つや二つではない。そうした数々の史料のうち、その一部でしか無い「吉田証言」の虚偽性だけを暴き立ててあたかも全体が虚偽であるかのごとく主張するのは、論理学の解らない愚昧の所業である。


 更にいうと、こうした東京裁判並びに連合国軍事法廷の裁判を受託することが、第二次世界大戦以降日本が主権を回復するための講和の条件であった。

サンフランシスコ平和条約」の第十一条には次のような記述がある。

 「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。(略)」

 日本は、上記裁判の結果を受け入れることで、講和を得た。この条約の効力は当然今も働いている。この裁判結果を受け入れたくなければ、もう一度この国はGHQの占領下に戻してもらうか、条約の破棄を宣言すべきだろう。

 それもできないまま、他国には条約を守る(東京裁判等の結果を受け入れる)ふりをして、内向きには「東京裁判史観からの脱却」などと、今更ながらの責任逃れを行う。そのような二枚舌こそ、恥ずべき行為であり、日本及び日本国民の「著しい国辱」と言うべきなのではないか。

 二枚舌、嘘つきは名古屋市の代表者として相応しくない。


おまけ、中曽根康弘大勲位が関与した慰安所設立について。

www.shugiin.go.jp


*1:もういい加減、敬称付けるのが面倒

*2:安倍政権以降「従軍」を否定してみたり、河野談話は政府見解ではないとしているようだが、後述するように東京裁判等で明らかな慰安婦強制に対して軍の関与が証言されており、そうした裁判結果について「政府見解」はサンフランシスコ平和条約で明白に受け入れているのであるから、政府見解としては「従軍慰安婦」は歴史的事実である