市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

愛知県知事リコールにおける注意喚起

現実を正しく認識できないことをなんと呼べば良いのだろうか?
「理解力に乏しい方」「頭の不自由な方」だろうか。
私は別にそのヒトの知的能力が低いことで、そのヒトを揶揄するつもりはない。

 そうだな、ハッキリさせておこう。

 当ブログでは河村たかし名古屋市長や減税日本、及び減税日本ゴヤに所属するもの、及びその周辺者の誤りを指摘し、時には私の表現力の拙さから揶揄に映ることがあるかもしれないが、私は民主主義を最低の制度ではあると思っていても、現状ではこれしか選択肢はないと思っている。そういう意味ではかのチャーチルの名言「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」は至極名言といえる。

 つまり、どんな者であろうと政治に参画はできる。そしてどのような言説であれ提示できる。表現の自由である。

しかし、表現の自由を盾に、放縱を許せば表現の自由そのものが脅かされる。

あいトリ 知事ー市長意見交換(問2における表現の自由とヘイトスピーチの誤解) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

 いわゆる「賢人政治」など信じないし、賢人を定義する基準も無いと考える。

 私が疑義に感じるのは、異論に対して開かれていない姿勢だ。
 (特に、権力を持ったもの、社会に一定の発言力を持ったものが異論に対して開かれていない姿勢は、醜悪であると断ずる。ちなみに当ブログへの反論は、自由に投稿欄にどうぞ)

 主体ではなく、客体。つまり政治の議論における論点が常に客観的な、具体的な世界にあるのであれば、どのような異論であれ開かれていなければならない。(一事不再理という原則はあるので、いわゆる「過去ログ読め」、現実世界であれば「判例を参照しろ」「先行研究を参照しろ」というのは当然の指摘だ)

 例えば、河村たかし減税日本の議員たちの発言には、こうした先行事例への研究が圧倒的に不足している。河村たかしの発言が不明確でチグハグなのは、こうした学習を行おうとせず(つまり知らないまま)それでいて自身の発言の正当性だけを言い募るから、発言に矛盾が起こる。

 つまり「嘘をつき始めると、際限なく嘘を言い続けることになる」

 人間というものは自己正当化のために嘘を言っていると、その嘘を本当と信じ込むくせがある。自分の嘘を、嘘と認識できているうちは良いが、そうした正しい認識すらできなくなり、やがて自身の嘘を真実と思い込み、自身の嘘に自分が騙される。弱い人間は、自分の嘘に飲み込まれてしまうのだ。

 河村たかしのこうした虚言に振り回されれば、必ずその虚偽と現実の間で「板挟みに合う」と指摘したのは2011年(平成23年)の事だ。

2011-07-02

 (現に今も、減税日本ゴヤの市議が、この板挟みにあって体の不調を来しているようだ。正直言って、このリコール騒動よりも、そちらの方が気にかかる)

 私はそのヒトの人格をあれこれ論評するつもりはない。属性などもどうでもいい。
 その行動だけを問題にする。

 虚偽は指摘するし、公共空間、客体、客観的世界を論点とする政治の言説に、個人の主観を押し付ける行為には批判を加える。

 そして、正々堂々とした議論と、徹底した論考の中からしか、この世界や社会をより良くする道は見いだせないと考える。そうした知的作業を怠るものには、公共空間には出てきて欲しくはない。自分の世界に閉じこもっていても十分幸せは得られるはずで、公共空間を歪めて、第三者の幸せの可能性を阻害してまで、主観を漏出させる行為は否定する。

 例えば、あいちトリエンナーレ会場、閉鎖された会場で「少女像」や大浦作品に触れる事を阻害する権利は誰にもない。表現の自由であり、それを享受する自由であるはずだ。一部の者はそれを「反日プロパガンダ」というが。

河村たかしは 「プロパンダ」 と言うらしい。
河村 たかし(本人) on Twitter: "いよいよ 今日 ハジマッタ 愛知県知事あいちトリエンナーレ会長 大村氏 リコール。日本初 知事 リコール。普通は 愛知県議会でやる。しかし 愛知県議会 まったく 動かず。ナゴヤ市愛知県 主催 あいちトリエンナーレ 反日プロパンダ が ハイジャック。共産党は大村リコール反対 正式表明。やっぱり。… https://t.co/DfkNqDYDOw"


 単に少女が静かに座っているだけの「像」で揺るがされる国家って何?
 そんな脆弱な国家ならさっさと倒れればいい。

 写真を焼かれることは「不敬だ」とかいうバカも居るが、昔から神社などでは聖なるものは「お焚き上げ」で天に帰すのがこの国のしきたりじゃなかったのか?また、そんな一部の「まつろわぬもの」「聖なるものが判らぬもの」が居たとして、児戯のような行為で揺るぐ権威なのだろうか?それは天皇制に対する不信なのではないか?


 さて、大村愛知県知事へのリコール運動だが、本当にポンコツな運動という以外にない。

 以下に示すように、直接請求の制度ぐらい満足に理解できないような程度なので、公費による芸術活動への支出の是非なんて判断つくはずもなく、結果として河村たかしが大村知事宛に送った「質問状」程度の認識(勝手な思い込みというか何というか)で批判しているのに過ぎない。

あいトリ 知事ー市長意見交換(はしがき) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

 つまりは、「公共空間を歪めて、第三者の幸せの可能性を阻害してまで、主観を漏出させる行為」を行っているわけだ。


 当初は「8月1日に開始」であるとか「瞬速で決まる」などと威勢が良かったが、請求代表者の確認申請が7月31日にずれ込んで、そんな申請手続き一つ満足にできない事を露呈した。更に、実際にこうした申請と同時に(または、先駆けて)行われるはずの組織内会合が行われていない。(これは、今日に至るも行われていないようだ)
 つまり、組織としての体をなしていない。(それでいて100万人とは大きく出たものだが)

 前評判やら、東京のメディアでは大きく取り上げたものもいるようだが、実体としてはポンコツこの上なく。とてもではないが、愛知県下69選挙区で署名収集を実行できるような実体ではない。(地区管理者とかも居ないようだ)

 挙句の果ては、請求代表者(その数37名!)が愛知県の公報で公開されたと、知らされると「妨害」だの「訴える」だの大騒ぎし始めて。

 直接請求の請求代表者は、署名収集の前に公報で住所、氏名が公開されるって知らなかったらしい。大笑い。

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愛知県選挙管理委員会告示第23号(令和2年8月25日)

著作権法 第三十二条 2 国若しくは地方公共団体の機関、独立行政法人又は地方独立行政法人が一般に周知させることを目的として作成し、その著作の名義の下に公表する広報資料、調査統計資料、報告書その他これらに類する著作物は、説明の材料として新聞紙、雑誌その他の刊行物に転載することができる。)


web.archive.org
【大村知事リコール運動】賛同した人々の実名と住所(個人情報)、愛知県公報で開示される
@政治知新


こんな報道も有った。
www.zakzak.co.jp

「『署名した人の個人情報が漏洩(ろうえい)する』といったデマが横行し」と書かれている。

高須克弥が「僕は怒り狂っております」と発言したツイートはこれになるだろうけど。

こう来て

こう来て

この香山リカさんのツイート

の元ネタは

私のコレなんすけど。

どこに「署名した人の個人情報が漏洩(ろうえい)する」って発言があるんでしょうか?

①告訴
②アカウントの停止申告
③警察には地方自治法74-4に基づいた被害届け

は私の元には来ておりません。

来るんすかね?

ちなみに、直接請求の署名簿は、署名収集後「縦覧」されます。
地方自治法74条の2第二項)

 署名簿の「縦覧」は決められた場所で「自由に見ること」を言います。
 「署名したものが、自分の分を確認するためだけに、自分の分しか見れない」とバカなデマを飛ばすヒトが居ますが。

 誰かが自分の署名を偽装して行ったかもしれない。自分の署名が無いことを確認したい。となれば、全ての署名簿を確認する以外に確認の方法がないのは明らかで、「選挙管理委員会が代わって確認する」なんて反論するお子様もいらっしゃいますが、そんな手数は掛けられない上に、その「選挙管理委員会の確認」の正確性はどう担保するのですかね?

 つまり、当人に「縦覧」させて心置きなく確認させる以外に真実性の担保はできません。
 (縦覧の機能はこれだけではない、ここではまだ情報開示しません)


また、これは重要なことですが。

 署名収集の際に、受任者が収集するとなれば、受任者を証明する「委任状」が必要です。

 委任状も示さず、誰が集めているかわからないような署名収集に、住所、氏名、生年月日や押印、または拇印を押すなど危険な行為ですし、違法な署名収集です。

 この「委任状」には、請求代表者37名全員の住所、氏名、押印(朱肉によるもの、コピーは不可)が必要であり、委任を受けた受任者は署名収集の際自身の住所、氏名を「公表」し、収集を行わなければなりません。これで署名簿が正当に収集されている保証ができるのです。

以前、署名収集の注意喚起を作りましたが、それをバージョンアップしました。

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その署名危険です

すでに、愛知県警(中村署)、県選管、名古屋市会(非公式)には注意喚起を行っており、リコール収集団体にも、これから行って「申入書」を手交してきます。(予定では、8月30日 午後3時頃の予定)

追記:「お辞め下さい大村秀章愛知県知事 愛知100万人リコールの会」または「愛知リコールの会」または「やろまい愛知県知事リコールの会」へは手交してきました。

その際、非公式に名古屋市会へ注意喚起を行い、その情報が減税日本ゴヤ佐藤夕子市議に伝わっているとお聞きしておりましたが、佐藤夕子市議からは収集団体へ情報は伝わらないだろうと推測しておりましたところ、案の定、事務局の田中考博氏は佐藤夕子市議からは何も伝えられていないと言われました。


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あいトリ 知事ー市長意見交換 (問5)  補足 <後編>

あいトリにおける、河村たかし名古屋市長と大村秀章愛知県知事の間の往復書簡の問5の中で引用元とされた一橋大学の阪口正二郎さんが、その論文の中で先行研究として奥平康弘さんの2つの論文を挙げてみえる。

あいトリ 知事ー市長意見交換(問5)

福祉国家における表現の不自由➖富山県立近代美術館のばあい」(法時60巻2号75頁)(1988)「法ってなんだ」184頁(大蔵省印刷局、1995)

「”自由”と不連続関係の文化と”自由”と折合いをつけることが求められる文化➖最近の美術館運営問題を素材として(上)(中)(下)」法セミ547号80頁、548号82頁、549号77頁


奥平康弘さんの書籍に収録されているようで、購入させていただいた。

憲法の想像力(日本評論社 2003年)

www.nippyo.co.jp
憲法の想像力の通販/奥平 康弘 - 紙の本:honto本の通販ストア


同書142ページより「”自由”と不連続関係に在る文化と”自由”と折合いをつけることが求められる文化/最近の美術館運営問題を素材にして」と、阪口さんが参照している論文が掲載されている。(初出:「法学セミナー」2000年7・8・9月号)

 『天皇コラージュ』事件とは、1986年3月、富山県立近代美術館が催した『’86富山の美術』展で展示されていた大浦信行作品『遠近を抱えて』を、数十日後に県議会において県議二名が『不快だ』と非難し、さらにそれをきっかけに右翼団体が大規模な反対・抗議運動を組織化し、大きな騒ぎになったとこに、端を発する。県の美術館はこうした動きに動転し、問題の作品を早速非公開とする措置を講じた。県側の対応はまことに徹底したものであって、問題作品を館外に売り払い、同展覧会のための図録も一切焼却してしまった


 県議たちにより『不快だ』として『展示するチャンス』=『表現の自由』を奪われた作品は、当時存命中であった昭和天皇の写真を題材にし、その周辺にヨーロッパで名画として知られているボッティチェリの裸婦像の部分などを組み合わせて作られた連作コラージュ版画である。県議らは、これを『天皇のプライヴァシー』『天皇の肖像権』を侵した不敬作品であるときめつけたのであった。『天皇中心の”神の国”』を信じる(あるいは信ずる振りをする)ことによって人びとの注目をひこうとした地方政治家の思惑は、ものの見事に当たった。また、なにかことを起こすことによって、勢力の維持・拡大をはかろうとしていた右翼団体にとっては、これは物怪の幸いであった。全国のあちらこちらから拡声器を積んだ自動車をもって、続々と富山市に集結。喜々として抗議運動を展開した(富山県立近代美術館問題を考える会編『全記録 裁かれた天皇コラージュ』桂書房、2001年、参照)


憲法の想像力 p.145 太字引用者)

事実として明白なように「昭和天皇御真影」を焼いたのは、大浦さんの作品を収めた図録を焼いた富山県立近代美術館なのであって、そう追い込んだのは、「不快だ」として大浦作品を否定した県議や右翼団体である。

こうした出来事に出会い、その心情を映像作品にしたのが、今回あいトリで展示された大浦作品の「オリジナル作品*1」であり、本来は1時間を超える映像作品*2となっている。それを会場では20分程度のダイジェストにまとめて展示していた。そうした切り取り作品から、更に「天皇焼損シーン」だけを切り取って繰り返しテレビ、ネットに掲示された。

あまりに歪められた事実経過と言わねばならない。

その後、富山県では大浦作品の再展示を求める訴訟が起こされ、いわゆる「天皇コラージュ問題」として取り上げられることになるが、再展示は認められなかった。

 公の施設としての美術館は、従来からの実定法システム(およびそれを前提とした行政法論理)に守られて、美術館経営に関して非常に広い --ほとんど不当といいたくなるほど広い-- 裁量が授権されていると考えられてきている。富山県立近代美術館が『天皇コラージュ』作品に対しておこなった非公開措置も、これの当否を訴訟という形式をもって争うことは、たいへんに難しい。誰が、いかなる権利にもとづいて、美術館のどんな行為を、違法として争うことができるのだろうか。要するにいままでは、県が配分する予算の範囲内で美術館は、作品の購入・売却・展示・その差し替えなど、経営の根幹にかかわる部分において、裁量、すなわち『法から自由』の行動余地を与えられてきている。館の措置によって利害・損害を受ける者があるにしても、そのすべては『法と無関係』な事実上の(反射的な)利得に過ぎないのであって、裁判上の救済その他の法の対象たりえない --そういう建前で制度が作られ運用されてきている。


憲法の想像力 p.147 太字引用者)

つまり<前編>で阪口さんが指摘されたように、「『政府が過度に政治化させないようにすること』であり、制度それ自体の自律性を確保」されているがために、美術館が「非公開」と決めてしまえば、それを覆すことはできない。

これは翻って言えば、正当な法的観点から見た場合、今回のようにあいトリ実行委員会や、その個別展示である「表現の不自由展」のキュレーターなど、展示主体が公開を決めた以上、政治が介入する事は不当であるということだ。(作品に対する意見や批判は自由に行えばいいが、政治的に介入すれば不当な事となる)

もう、もう当たり前過ぎて、繰り返すのもバカバカしいが、河村たかし名古屋市長の判断が、不当であり、間違っている。

そうした当たり前の結論を伝えるだけでは面白くない。奥平さんは同書で非常に示唆に富む事例を報告されており、それはまるで今日の予言であり、その出来事を聞けば、昨年の「あいトリ騒動」はデジャヴとして扱われていただろう。それが「ニューヨーク市ブルックリン美術館」における騒動の顛末である。


ブルックリン美術館(ニューヨーク市ブルックリン区)をめぐる騒動

 まず、ブルックリン美術館をめぐる話である。ことのありようはこうである。ブルックリン美術館は、1999年10月はじめに、ある大規模な特別展を開く予定で計画を進めていた。ところが、この展覧会で展示されることになっていたいくつかの作品の内容がよろしくないという理由で、開幕間際、9月半ば過ぎになって、当該美術館の親元であるニューヨーク市の市長R・W・ジュリアーニが、美術館側に計画の変更を求めるという事態へと発展した。しかし美術館はこれに応じなかったため、ジュリアーニ市長は、毎月公費で支払われる美術館運営費(月額49万7554ドル)の打ち切りを決定するとともに、美術館に対する土地建物の貸与契約の破棄を通告するという、異例の強硬な挙に出たのである。すなわち、いまや美術館は、ひとつの展覧会計画を実行しようとしたために、それに異議を挟む市長によって、美術館の存立そのものを葬り去られる瀬戸際に立たされるにいたったのである。


憲法の想像力 p.150)

https://newsbyl-pctr.c.yimg.jp/r/iwiz-amd/20180507-00084876-roupeiro-000-54-view.jpg?w=800
トランプ大統領ジュリアーニ市長

追記(2020/11/8):

笑える
www.amazon.com
variety.com

 この騒ぎがどんなふうに結着がついたかというと、 (略) 散々のケチにもかかわらず美術館は当初の計画を全く変えること無く、予定どおり (略) 難なく終幕を迎えた。 (略) 暫定推定での入場者数18万人にのぼり、現代物としては美術館はじまって以来最多の観客を集めたという。 (略) この現象の背後にはジュリアーニ市長の馬鹿騒ぎがあったのであって、展覧会成功はこの市長の愚行の功績によるところが大きかったという皮肉的な見方が成り立つかもしれない。


憲法の想像力 p.151)

あいトリ2019においても、来場者数が67万人を超え、過去最多となった。「市長の愚行の功績によるところが大きかった」というところまで同じとなった。


問題の作品展とは「センセイション――サーチ・コレクションのなかのイギリス若手芸術家たちの作品群」と題するもの。

 市長(ジュリアーニニューヨーク市長:引用者補足)が本件展覧会『センセイション』開催反対理由として挙げたのは、まずC・オフィリ「聖なる処女マリア」である。この、ケニア出身の画家が描くマリア像では、一方の乳房に象の糞を素材に用いており、その背景には臀部や女性器の写真小片が散りばめられているという構図の、いってみれば独特にアフリカ調が強くうかがわれる作品である。ジュリアーニ市長は、この作品をつかまえて「私を不快にする」「むかつく」と酷評し、さらに公金支出打ち切り決定を次のように説明した。「あなた方は、政府の補助金をもらって、他のだれかの宗教を冒涜する権利など持っていないのだ。だから、われわれ市当局としては、美術館長がまともな分別を取り戻すようになるまで、美術館への公金支出を中止するなど、やれることはすべてやる意向である。美術館としては、自分たちが政府から補助してもらっている施設である以上は、社会に在る人びとがもっとも個人的に深く抱懐する信条を傷つけるようなことがあってはならない、と悟るべきなのである。」と語り、


 返す刀で市長はまた、動物の肉片等をフォルマリン漬けにしたものを素材にしたハーストの作品にも言及し、これにも「むかつく」と評して打ち棄てた。爾来、この騒動のなかでは、「むかつく」(sick)というジュリアーニ市長の評言が流行を見ることになる。


憲法の想像力 p.157)


サーチ・コレクション
artscape.jp


クリス・オフィリ「聖なる処女 マリア」
https://www.moma.org/media/W1siZiIsIjQzMTIzMyJdLFsicCIsImNvbnZlcnQiLCItcXVhbGl0eSA5MCAtcmVzaXplIDIwMDB4MjAwMFx1MDAzZSJdXQ.jpg?sha=a5303206ceee4f62

www.moma.org


クリス・オフィリ@ニューミュージアム
www.amepuru.com


ダミアン・ハースト「金と死」
www.artpedia.asia

 ジュリアーニ市長は宗教感情に訴えたが、かれ自身カトリック教徒であるのは公知の事実であり、従来からそれを売り物にもしてきたところでもあって、かれのこの訴えはニューヨークに少なくはない同宗派の面々の支持を見込んだうえでのことである。


憲法の想像力 p.158)

つまり、今回のあいトリ騒動では日本国内の「天皇崇拝者」の宗教的シンボルが「穢された」のであろうし、ブルックリン美術館での騒動では、カソリックの宗教的シンボルである「マリア像」が「穢された」ということなんだろう。

 ジュリアーニ市長からみれば、この作品(C・オフィリ「聖なる処女マリア」:引用者補足)は反カトリック的であるがゆえに「むかつく」のであるが、じつをいえば、これを作ったオフィリもまたカトリック教徒なのであって、この作品にはなんの神聖冒涜・反カトリック的な意味合いをこめていないのだ。と抗弁する。象の糞を使ったのが侮辱的証拠だという非難に対しても、オフィリの出身地アフリカのある地域では、民族宗教のうえで象の糞は豊穣神のシンボルとしてむしろ神聖視され、かかるものとして象徴的に用いられてさえいるという話もあるのである(オフィリは、本件展覧会で展示されるかれの他の作品のいくつかでも、同じく象の糞を素材に用いている)。


 作品の美醜をめぐる美学的な判断というものは、なかなかに微妙なものがある。そうだから、公金を扱う権力者は極力この判断世界に入るのを避けねばならないということになるのだが、ジュリアーニ市長はそうは考えなかったようである。


憲法の想像力 p.158)

つまり、ジュリアーニ市長の無理解がこの騒動の発端なのであり、異なるエスニシティに対する不寛容が問題だったわけだ。

このブルックリン美術館での騒動、ジュリアーニ市長の騒動、または「センセイション/サーチ・コレクション」の騒動は、美術に詳しい人々の中では有名だそうだが、昨年からのあいトリ騒動では、そうした意見は聞かれなかった。

また、河村市長というのは、画廊を経営していた「画商」だった筈なのだが、こうした事例について、ご存じなかったのだろうか?

 80年代 (略) 芸術家たちの作品評価をめぐり大論争が生じた。こうしたばあい、議論の場は、けっしてただ単に芸術家同士あるいは芸術愛好者とか鑑賞市民とかいった、諸個人間の芸術論争という形で展開するのではない。きわめてしばしば、公金支出という契機を媒介として公権力主体が出てきて、芸術論争にある種独特な公的裁断をくだすという構造というかしくみになっている。そこに現代社会の特徴のひとつを見いだす、とさえ言える。


憲法の想像力 p.174)

今回、このニューヨークにおける騒動と教訓を理解しないものが、この愛知県において同工異曲の騒動を引き起こしている。

ビスマルクの警句「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは将にこのことだろう。

奥平康弘さんは同書で次のようにも述べてみえる。

 シフリン *3 は、ある書物 *4 によって「なぜ表現の自由は保証されねばならないのか」という問題に独創的な考察を加えているのであるが、それは結果において、さっきから言っている「想像力」ということと通底するところがある。
 シフリンは言う。表現の自由なるものは、一九世紀中葉以降の詩人R・W・エマソンウォルト・ホイットマンなど個人主義的・反抗的・反権威主義的な人たちに象徴されるような性格のロマンティックな傾向を持つ者たちにこそ保障されるべきなのだ、と。どうしてそうなのか。


 こういった人たちの言説は、反体制的・革新的・創造的であって、少数派であるがゆえに、政府や社会によって抑圧されるのが常である。けれども、こうした思潮こそが、社会に活力を与え、人びとを生き生きとさせ、民主主義を推し進めるものなのであって、そうだから、こういった傾向の意思表明を自由闊達に行わせるためにこそ、表現の自由憲法保障はあるのだ(あるべきなのだ)、とシフリンは言う。ここにはまさに、「想像力」をはたらかせ憲法憲法たらしめようというぼくの主張しているところと、オーバー・ラップしているところがあるのではないだろうか。


憲法の想像力 p.22)

名古屋市河村たかしとは、将に自由を尊重し、個人主義的であり、反抗的であり、反権威主義的な者だったはずだ。

そうした者が、自ら権力を握り、狭隘な思い込みから他者を批判し、他者の思想を排除し、聞く耳を持とうとしない。文化や価値観といったものの多様性を理解せず、他者の主張に対する「想像力」を失う。

権力が腐敗するとは、この「想像力」を失ったとき、思想の空間がよどみ、腐敗が始まるのだろう。

追記:
ある方から、昨年の県検証委員会 河村市長へのヒアリングでニューヨーク美術館の話が出ていると聞いた。それでも残念ながらこのジュリアーニ市長の件、サーチ・コレクションの件は参照されていない。
先行事例に当たれないということは残念なことだ。
まあ、それ以上に「議論」は浅いが。

(このPDFの最後が、そのヒアリング議事録になっている)
https://www.pref.aichi.jp/uploaded/life/268580_935071_misc.pdf



あいトリ 知事ー市長意見交換(はしがき)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問1)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問2)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問2における表現の自由とヘイトスピーチの誤解)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問3)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問4)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 阪口論文
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 奥平論文
あいトリ 知事ー市長意見交換(問6)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問7)


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注意喚起

*1:「遠近を抱えて PartⅡ」

*2:「遠近を抱えた女」

*3: Steven H. Shiffrin(Cornell Law School ) チャールズ・フランク・リービス法学部名誉教授 https://www.lawschool.cornell.edu/faculty/bio.cfm?id=72

*4: The First Amendment, Democracy, and Romance, Harvard Univ. Press, 1990 https://www.hup.harvard.edu/catalog.php?isbn=9780674418646

あいトリ 知事ー市長意見交換 (問5)  補足 <前編>

あいちトリエンナーレ(以下、「あいトリ」)における、河村たかし名古屋市長と大村秀章愛知県知事の間の往復書簡は、両者の考え方を明白にするものであり、あいトリに係る大村知事へのリコールについても示唆を与えるだろう・・・などと白々しいことを言っていても始まらない、この往復書簡は、ズバリ河村たかしのめちゃくちゃを表すこととなる。

自分の言いたい放題を言っておいて、大村知事からの返答をろくに評価、批判もせずに、またまた一方的な反論を、いわゆる「脊髄反射」のように繰り返す。

特に、この問5については、引用元とした一橋大学の阪口正二郎さん本人が、直後に河村市長の行動を否定する意見を表明しているのであり。

あいトリ 知事ー市長意見交換(問5)

gendai.ismedia.jp

自説の根拠を求めた有識者より直接否定されたのであれば、自らの不明を恥じて静かにしておくべきだろうが、厚顔にも大村知事に対してリコールを求める騒動を起こして、こうしてまた自らの恥を蒸し返すとは、いったいどういう脳みそをしているのだろうか。

恥とか、反省という言葉はないのかもしれない。いい傾向だ、そうして生き恥を振りまいていただきたい。

さて、そうした問5だが、果たして阪口さんの「引用」が正しものであるか、ここにひかれた論文を国会図書館から取り寄せてみた。*1

阪口正二郎著「芸術に対する国家の財政援助と表現の自由」法律時報74巻1号

CiNii 論文 -  芸術に対する国家の財政援助と表現の自由 (特集 "表現の自由"の探求--メディア判例研究会五周年記念企画)

国立国会図書館

国立国会図書館オンライン | National Diet Library Online

そうしたところ、驚くことが分かった。
この阪口論文に、先行研究として奥平康弘さんの

福祉国家における表現の不自由➖富山県立近代美術館のばあい」(法時60巻2号75頁)(1988)「法ってなんだ」184頁(大蔵省印刷局、1995)

「”自由”と不連続関係の文化と”自由”と折合いをつけることが求められる文化
➖最近の美術館運営問題を素材として(上)(中)(下)」法セミ547号80頁、548号82頁、549号77頁

が掲げられている。

もちろんここで言う「 富山県立近代美術館のばあい」とは、大浦信行さんの『遠近を抱えて』を巡る騒動のことであり、当時は「天皇コラージュ問題」とされたものが、現在において「進化(?)」して「天皇写真焼却問題」とされているわけだ。

実は、こうして一つのテーマが30年以上にわたって議論(?)されているわけだが、そうした歴史的な重層性は河村市長の文章からはうかがい知れない。

これは、日本だけにとどまらない、一般的な傾向に思えるのだが、最近の粗雑な政治議論の中で、「歴史的重層性」への軽視が見受けられるような気がする。歴史の中で自分に都合の良いところだけをチェリーピックして歪んだ世界観に浸っているというのは、居心地がいいものなのだろうか。

話題を日本国内における「右派の台頭」といったものに絞ってみた時にも、その端緒はいわゆる「歴史教科書問題」であろうし、そうした動きが活発化したのが「新しい歴史教科書」問題だろう。その際に「右派」から提案された主題は、地政学などではなく、「日本神話」だった。まったく頭が痛い。いわゆる「日本神話」を持ち出した明治型国民国家という設計が、その後どういった悲惨な結末を迎えたか、そうした評価を忘れている。
私が理解するところ、「日本神話」を国民教育に取り入れたのは、西洋型一神教世界観(デカルト的機械論的世界観といってもいい)を国民に提示して、いわゆる「四民」を「臣民」として一体化させることによって、当時の国民国家をキャッチアップしようとした社会設計であって、国家の上級官僚は葉隠的に理解していた。つまり、アタマから信じてなど居なかった。

いわゆる「維新の志士」たち、白刃を掻い潜ってきた国家リーダーにとって、天皇制も、その神話も「使える」から使ったに過ぎない。それが時が下り、軍のリーダーすら「神風」に頼るという知的劣化を起こしてしまった、それが「日本神話」を巡る制度設計の過誤だったはずだ。戦後、吉田茂―池田―佐藤というリーダー、更にその背後に居た福田恆存、田中美知太郎、小林秀雄等などの人々は、戦前のこうした「一点張り」の危険性を熟知し、広範な多様性に活路を見出そうとした。実は、こうした考え方こそ、この日本の国柄であり「天皇中心の神の国」などという世迷い言こそ唾棄すべきものと捉えるか、方便品としてありがたく「使わせて」もらうべきものであって、今またこうした言辞を頭から信じ込むような輩が社会のオピニオンを握ろうというのは、社会の劣化でしか無い。


まあ、ともかく。
こうした、阪口―奥平という重層的な議論をたどると、そこには驚くほど今日的な先行問題が存在していたことがわかる。

その前に、阪口さんの論文を俯瞰させていただこう。

阪口正二郎さんの「芸術に対する国家の財政援助と表現の自由」(法律時報74巻1号)の要約はおよそ以下のようになっている。

1.はじめに
2.芸術に対する国家の援助と干渉
3.政府言論という問題
4.政府言論のディレンマ
5.内容に基づく選別
6.観点に基づく選別


「1.はじめに」において阪口さんは次のように前提を述べる。

 芸術と国家の関わりについての憲法上の問題を析出しようとする文章であり、本稿は問題の解決策を提示しようとするものではなく、問題をいかなるものとして認識すべきなのか、筆者なりの認識を示す。

と試論を提示しようとする。(つまり、何らかの主張を補強するための根拠とするには、そもそもそぐわない)

続く「2.芸術に対する国家の援助と干渉」及び「3.政府言論という問題」において。

 一方で国家の側からすれば芸術をコントロールしようとする動機があり、他方で芸術の側からすれば自己の普及のためには国家による財政的な援助を期待せざるを得ず、こうした両者の要求が広範に交錯する現代の国家にあって(略)文化に属する芸術に対して国家が選別的な形で援助を行う際にも、やはり政府言論という視座は無視しえない意味を持つはずである。


と、注意を促している。
  
「4.政府言論のディレンマ」において、その「政府言論」についての論考は深められていく。

 国家が私人のなす表現行為に対して内容に基づく<規制>を行う場合、わいせつ表現や名誉毀損など一定のカテゴリーに属する表現行為の場合を除いて、規制は最も厳格な審査に服する。では、私人の表現行為に対する国家による内容に基づく選別的な<援助>の場合にも、同様に考えるべきだろうか。あるいは、そもそも政府言論に問題があるのだとすれば、より広く、政府言論は一般的に許されないと考えるべきだろうか。(略)政府言論には危険性と同時に積極的なメリットがあり、そのことは、政府言論の危険性が問題になる、表現行為に対する国家の選別的な形での援助についても(略)少なくとも部分的にはあてはまる。「政府言論のディレンマ」「政府言論のパラドックス」と呼ばれる。

 民主主義国家において、われわれが主権者として国家の行動を監視し賢明な判断をしようとすれば、われわれは政府の立場を知る必要がある。

 さらに、資本主義のもとで言論市場が一定の私的権力によって独占される危険性がある場合に、国家は、そうした環境にあっては容易に市場に登場しそうにない私人の表現行為に財政援助をなすことで、言論市場をより豊かなものにすることによって、民主主義や個人の自立といった価値に貢献することができる。

 国家が表現行為の内容に基づいて選別的に援助をなすことが禁じられている領域があることを考えればわかる。それは、道路や公園などいわゆるパブリック・フォーラムの領域である。

 道路や公園など典型的なパブリック・フォーラムの領域において、国家が表現の内容に基づいて規制を行う場合、規制は厳格な審査に服し、よほどのことがなければ合憲とされることはない。道路や公園が公の営造物であろうと、国家はそこで私人が自己の所有する土地において振舞うのと同じように振舞うことが許されているわけではない。

 『芸術としての卓越性』という選別基準も、(略)一般的には許されるはずである。(略)芸術作品としてすぐれたものではないという理由で国家が援助を拒否することは可能である。そもそも芸術活動への財政援助という制度の趣旨は、すぐれた芸術作品の供給を促進することにあるはずであり、質の劣った芸術活動にまで援助することは制度の趣旨に反し、制度それ自体の存立を危うくさせる可能性がある。

 しかし他方で、国家はいかなる内容に基づく選別をしても許されるというわけでもないはずである。たとえば、自民党を支持する芸術家には補助金を支出するが、自民党を批判する芸術家には補助金の支出を拒否するといった形での選別的援助は憲法上の問題を提起する。

https://mizuma-art.co.jp/wp-content/uploads/2018/01/MFN5.jpg

 国家が芸術活動に財政援助をなすかどうかは国家の正当な裁量の範囲内にあり、しかも国家は財政援助をなすにあたって、私人の表現行為を規制する場合とは異なって、一定の内容に基づく選別をなすことも許されていると考えられるが、だからといって国家の内容に基づく選別に憲法上の制約が全くないわけではない。


最後の「6.観点に基づく選別」において。

表現行為の内容に基づく選別を「主題に基づく選別」と「観点に基づく選別」という伝統的な表現の自由理論の分類に従って考察すると、「主題に基づく選別が、国家が芸術に援助をなす場合には、国家が単純な検閲者として立ち現れる場合とは異なって、一般的に許される可能性がある。」


 観点に基づく選別はどうだろうか。「自民党を支持する芸術家」という例で考えたように「観点に基づく選別の禁止というルールは有効そうに見える。」しかし、話はそんなに単純ではない。

 「芸術としての卓越性」といった基準は、観点に基づく選別とそう簡単には切り離せない。
 

 芸術活動に対する国家の援助という領域においては、観点に基づく選別の禁止というルールですら、ある程度適用範囲を限定し、すぐれた芸術の促進という制度の存立目的と合理的関連性のない「純粋な観点に基づく選別」を禁止することにとどまざるをえないだろう。(略)学問の自由の場合と同様に、やはりこの領域において肝要なことは、すぐれた芸術に対して援助を行うという制度それ自体をできるだけ政治から切り離し、「(芸術としての卓越性という)基準を政府が過度に政治化させないようにすること」であり、制度それ自体の自律性を確保することである。


明白だろう。「すぐれた芸術に対して援助を行うという制度それ自体をできるだけ政治から切り離し(略)政府が過度に政治化させないようにする」ことが肝要であると政治の介入を排除しているのである。

つまり、ここにおいて、河村たかしの主張は否定されているのだ。

ところが、この阪口論文に先行する奥平論文において、私たちはまるで予言を見ているような、デジャヴをみているような歴史的重層性に驚かされ、そうした「輪廻の輪」から逃れられない、業の深い河村たかしという衆生に憐みを感じるのだ。

しかし、それは次回に譲ろう。

あいトリ 知事ー市長意見交換(はしがき)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問1)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問2)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問2における表現の自由とヘイトスピーチの誤解)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問3)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問4)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 阪口論文
あいトリ 知事ー市長意見交換(問5) <補足> 奥平論文
あいトリ 知事ー市長意見交換(問6)
あいトリ 知事ー市長意見交換(問7)



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注意喚起


*1:というよりも、ここで阪口さんのその論文を引用しているように見えるけれども、これって単にスカリア判事の発言を孫引きするためだけに参照しているだけであって、学位論文でもこんな無茶は通らないだろう、一橋とはいっても、というか一橋だからか、河村たかしの練度が知れる

文化庁「鉄筋コンクリート造天守等の老朽化への対応について」令和2年6月

本日のブログは、ある意味むちゃくちゃ手抜きかもしれない。ほとんど私は書いていない。

名古屋城天守の木造化は、遡ると平成26年の名古屋市会での議論を起点としており、その理由は「老朽化した天守閣建物を改修するとしたなら、文化庁は木造以外認めない」という河村市長や名古屋市当局の主張だった。

会議録表示
名古屋市 平成26年6月定例会 6月27日
河村市長発言

 天守閣につきましても、よく文化庁に問い合わせされましたけど、これはショッキングな話で、鉄筋コンクリートによるもう一回再建は認めないということを文化庁がはっきり言っております。したがいまして、あと何年もつか知りませんけど、30年なのか、50年なのか、100年なのかわかりませんが、もう朽ちたときにはあれは壊さないけません。


 そうすると、何にもなしになってしまうのか、それとも、木造再建をするかということで。

会議録表示

会議録表示
平成27年 経済水道委員会 6月17日


西野市民経済局総務課長
名古屋城天守閣の整備に関する調査につきまして・・・・


 前提でございます。平成26年度の調査に当たっては、現天守閣は再建されてから55年が経過し、老朽化が進行していること。天守閣の耐震性能が現行の基準にそぐわないこと。耐震改修を行った場合でもコンクリートの寿命がおおむね40年であること。文化庁の見解として、現在の鉄筋コンクリート造の天守閣を解体した場合、再建する天守は木造に限ることの4点を前提として調査を行いました。


 現天守閣は、石垣の石材の劣化や設備の老朽化などの課題が生じているほか、耐震改修した場合でもコンクリートの寿命がおおむね40年となっております。また、現天守閣を解体し、再建する場合は木造での復元に限られるといった文化庁の見解がございます。」


西山委員 
 「天守閣の再建は木造復元しかないとお話をされましたけれども、その根拠はあるのでしょうか。文化庁の見解を示した通知、文書はありますでしょうか。」


寺本市民経済局名古屋城総合事務所整備室主幹 
 「文化庁より、天守閣の復元につきましては木造復元という回答をいただいておりますが、その文書となるものにつきましては、きちんとその点についての明文化はございませんけれども、史跡等の整備の手引というものがございまして、その中でもうたわれておりますが、史実に忠実な復元をすることというふうに文化庁のほうからは指導を受けております。」

河村市長や名古屋市当局は議会に「文化庁は木造化以外認めない」と伝えてきたわけだが。
その文化庁が今年の6月、次のような文章を出してきている。

www.bunka.go.jp
史跡等における歴史的建造物の復元の在り方に関するワーキンググループ
-鉄筋コンクリート天守等の老朽化への対応について(取りまとめ)- 文化庁

https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kondankaito/shiseki_working/roukyuka_taiou/pdf/92335501_01.pdf
鉄筋コンクリート天守等の老朽化への対応について(取りまとめ)
令和2年6月
史跡等における歴史的建造物の復元の在り方に関するワーキンググループ

 RC造天守の建築物については、木造か延命化のどちらが史跡等の本質的価値に資するかを検討したうえで、今後木造による再現の可能性を模索するなど、個別の史跡等の事情により様々な整備方策を執ることが考えられるが、この取りまとめでは、RC造天守の役割等も踏まえつつ、史跡の活用方策とバランスをとりながら、RC造天守のほか、RC造で再現された櫓などの建造物(以下、RC造天守等という。)の老朽化への対応を行う場合について、その在り方を提示するものである。

 RC造建物の耐用年数は約50年とされており(※財務省減価償却資産の耐用年数等に関する省令別表第一による)、史跡等に所在する既存のRC造天守はいずれも建築後50年を超過しているところである。


 耐震診断等により耐震強度が不足していること等も踏まえ、築後50年を超過したこれらのRC造天守のうち、いくつかの天守においては、従来果たしてきたその機能などに鑑みつつ、コンクリート部分の再アルカリ化、構造補強等の長寿命化のための措置が行われた。


その他のRC造天守等においても同様に、財務省令上は耐用年数を超える一方、従来果たしてきたその機能などに鑑みて、今後も、老朽化対策の検討に及ぶことが想定される。

特に、次などにも注目してみたい。

3.既存のRC造天守が果たしてきた役割


-史跡の上に建つ建築物として期待されてきた機能-


○RC造天守は、その多くは往時の外観を模して再現されているように、史跡等の往時の姿を今に伝え、その本質的な価値を正しく理解していくうえで一定の役割を果たしてきた。


○これらについては、史跡等との関係において、本質的価値の理解に資してきた意義が当該史跡等の保存活用計画や整備計画等に示されていない場合がある。(※1)

また、天守自体が「歴史的景観の形成に寄与」する近代の建築物として国の登録有形文化財(建造物)として評価されているものもある。

というのは同じRC造の大阪城天守閣を指すものと思われる。

大阪城天守閣
平成の大改修


 上で(※1)とした指摘、「これらについては」つまり、「RC造天守は(略)史跡等の往時の姿を今に伝え、その本質的な価値を正しく理解していくうえで一定の役割を果たしてきた」「本質的価値の理解に資してきた意義」があったにも関わらず「当該史跡等の保存活用計画や整備計画等に示されていない場合がある」との指摘であるが、名古屋城における「当該史跡等の保存活用計画や整備計画等」には示されているだろうか。


http://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/cmsfiles/contents/0000105/105368/keikaku.pdf
特別史跡名古屋城跡保存活用計画

この中で、「RC造天守」について語られている箇所は少ない。

2-2 特別史跡名古屋城跡の概要
2-2-2 歴史的環境
(1)名古屋城の歴史
■現代(市営期:昭和20年(1945)~)
 「昭和34年(1959)には市民の機運の高まりにより市制70周年記念事業として、大天守・小天守と正門(榎多門)を鉄骨鉄筋コンクリート造で再建した」(p.28)


第3章の「3-2-2 特別史跡名古屋城跡の構成要素」の「表3-1 特別史跡名古屋城跡を構成する諸要素」(p.63)では、天守閣は正門(榎多門)とともに「外観復元建造物」という扱いになり、区分としては「(Ⅱ)本質的価値の理解を促進させる諸要素」となっており、「(Ⅰ)本質的価値を構成する諸要素」ではないということになっている。

なぜ、こんな事が起こるのかと言うと、この「保存活用計画」の「本質的価値」に重大な欠陥があるからである。*1

第3章の「3-1 本質的価値」(p.58)に次のように述べられている。

上記の指定説明文を踏まえ、昭和 7 年及び昭和 27 年の指定当時の視点から本質的価値を以下のとおり整理する。 (p.58)

つまり、昭和、平成、令和と歴史を重ねてきている特別史跡名古屋城跡の「本質的価値」を昭和27年までの視点からだけ整理してしまっているのだ。

これは、恣意的な歴史の切り取りであり、重大な欠落、改ざんである。

名古屋城には昭和27年以降、歴史は流れていないとでもいうのだろうか。

まことに失礼千万な文章ではないのか。

以前の平成18年版「全体整備計画」を見てみたい。



特別史跡名古屋城跡全体整備計画 全文.pdf - Google ドライブ
特別史跡名古屋城全体整備計画
平成18年9月 名古屋市

第3章 名古屋城の現状
8.現状の課題
⑦ 建造物の復元


 二之丸、西之丸、御深井丸の主要建物は明治期に陸軍の鎮台が置かれた際に取り壊され、本丸多聞は明治24年の濃尾大震災で崩壊し、天守閣、東北隅櫓、本丸御殿、表一之門は昭和20年の空襲で消失した。


 これらの建造物、特に廃城後市民に長く親しまれてきた戦災消失建造物を復元することは、名古屋の歴史的・文化的シンボルとしての名古屋城の価値を高める上で有意義であると考えられる。


 なかでも本丸御殿の復元については市民の関心も高く、これらの建造物の復元整備が必要である。


 なお、建造物の復元整備にあたっては、遺構の保存を前提に、文化財としての正統性を損なうことのないよう、精密な復元考察が求められている。文献・絵図や実測図・写真などの史料調査の成果を生かした実証的な復元が必要とされている。

第4章 全体整備計画


1.保存・活用の基本理念


 名古屋城は名古屋のシンボルとして400年の歴史を歩んできた、名古屋に住む人々にとって長く「外から眺めるシンボル」であった名古屋城は、昭和5年(1930)の宮内省から名古屋市への下賜を契機に一般に公開されるようになり、名実ともに名古屋市民の歴史的財産・市民の愛着と誇りのシンボルとなった。


 昭和20年(1945)の戦災で、天守閣・本丸御殿をはじめ城内の建造物の多くが消失したが、市民の名古屋城再建にかける願いは大きく、昭和34年(1959)、名古屋の戦後復興を象徴するプロジェクトとして天守閣が再建された。戦前は多くの国宝を有する「文化財」としての性格が色濃かったが、戦後は公共のオープンスペースとして市民の憩いの場となっている。市民の間には戦前の名古屋城を懐かしみ、名古屋のシンボルをより魅力あるものとして再生したいとの思いが根強い。


 一方、名古屋城の歴史的遺産としての価値は、天守閣や御殿などの建造物のみではなく、石垣や堀、大きな特色の一つと指摘される庭園、地下に埋蔵されている遺構など名古屋城の歴史をあらわす全ての文化財によってつくられている。


 こうした歴史的遺産としての価値と、文化的シンボル、文化観光資源、公園緑地など名古屋城が持つ多様な役割を踏まえて適切な保存管理をし、活用を図っていくために、下記の項目を基本理念として掲げる。


文化庁の「取りまとめ」の続きを見ていこう

https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kondankaito/shiseki_working/roukyuka_taiou/pdf/92335501_01.pdf
鉄筋コンクリート天守等の老朽化への対応について(取りまとめ)

4.今後のRC造天守等の老朽化対策とその在り方について


○RC造建物の耐久年数が50年と言われていることもあるが、それは財務省令におけるRC建物の減価償却上の年限であり、RC建物自体の寿命を指すものではない。


老朽化対策が適切に行われれば、相当年数長寿命化を実現することは不可能ではないと考えられるが、効果的に長寿命化していくためには、常時における不断のモニタリングやきめ細かいメンテナンスを行うことが重要である。


これにより、更なる長寿命化(やメンテナンスコストの逓減化)を図っていくことが期待される。なお、耐震診断の際には、RC造建造物が、土台である石垣にどのような影響があるかについても把握することが望ましい。


○RC造天守等それ自体は、史跡等の上に建築されているものである以上、史跡等の価値の理解に関わるものであるが、木造で再現された復元基準上の「復元」とは異なる。
このため、「天守等復元の在り方について」に記載された手順や留意事項などを踏まえながら、史跡等の本質的価値の理解促進に繋げていくことが重要である。


○RC造天守等の老朽化対策を行うに際しては、史跡等の保存活用計画や整備計画等に、RC造天守等が建築された歴史的経緯、史跡におけるこれからの役割、保存・活用の手法等を明確に記載していくことが必要である。



5.おわりに


○史跡等における天守以外のRC造で再現された建造物であっても、いずれ老朽化対策の必要性が生じることに加え、地域において担うべき役割や史跡の価値の理解を促進させる機能を明確に位置づけることが望まれる。


○(国指定、地方指定、未指定を問わず、)史跡等に所在する老朽化するRC造天守等は、今後、木造による再現の可能性の模索や長寿命化措置など、個別の史跡等の事情により様々な整備方策を執ることが考えられるが、老朽化対策を行う場合には、3.の既存のRC造天守等の役割等も踏まえつつ、4.を参酌し、史跡の活用方策とバランスをとりながら、メンテナンスを行っていくことが望ましい。

木造による再現は排除していないが、それには様々な整備手法との比較考量*2が必要なのであり、「史跡の活用方策とバランスをとりながら、メンテナンスを行っていくことが望ましい」のである。現にあるRC造天守を乱暴に扱ってよいものではない。

こうした「取りまとめ」が今年の6月に文化庁から示された背景には、名古屋市の「先行解体」という乱暴な申請が有ったと解釈するのは、私のうがった見方だろうか。


*1:石垣やお堀など、特別史跡としての価値を否定するものではないが、名古屋城跡にはそうした築城時の歴史的遺構という価値だけでなく、江戸時代、明治、大正、昭和、そして平成、令和という積み重なった歴史を語る遺構としての価値もある。特に、昭和における戦災で消失したという事実は、名古屋城跡にとって他に類するものがないほどの重大事であるはずで、そうした歴史を語らないとするならば、そのような歴史認識はあまりにも偏り、狭いものだろう

*2:「史跡等における歴史的建造物の復元に関する基準」(平成 27 年 3 月 30 日 史跡等における歴史的建造物の復元の取扱いに関する専門委員会) http://www1.city.matsue.shimane.jp/bunka/bunkazai/matsuejyou/sisekimatsuejyohozonkatsuyou.data/siryou5.pdf

映画「なぜ君は総理大臣になれないのか」

話題の映画「なぜ君は総理大臣になれないのか」を見てきた。

www.nazekimi.com

www.youtube.com

この予告を見たときには、興味は持ったがそれほど惹かれなかった。
しかし、題材である小川淳也代議士が香川1区選出と気づいて一気に興味が湧いた。

香川1区、高松市には市会議員のとみの和憲氏が居て、彼とは因縁浅からぬ仲だからだ。

tomino.online

なぜ、彼、とみの和憲氏と因縁ができたかは、ここでは置く。しかし、とみの高松市市会議員も、非常に誠実で真面目な人物である事は疑いがない。

そのとみの議員と立憲民主党として轡を並べている小川淳也衆議院議員となれば、俄然興味が湧いた。

www.junbo.org

2003年の衆議院選挙、総務省を辞め初の立候補。しかし落選。取材はここからはじまる。
2005年に初当選、2009年には政権交代を果たし、政権与党の国会議員となる。

しかし・・・いくら気高い政治思想があっても党利党益に貢献しないと出世できず、選挙区当選でなければ発言権も弱い。小川の地元である香川1区の対抗馬は、自民党平井卓也 。平井は地元有力メディアである四国新聞西日本放送のオーナー一族で、強固な地盤を持つ。
そのため、小川は惜敗しては敗者復活の比例当選を繰り返してきた。権力への欲望が足りず、家族も「政治家には向いていないのでは」と本音を漏らす。


(公式サイト作品紹介より)

http://www.nazekimi.com/

2012年に安倍自民党に政権を奪われ、下野、党は混乱を続ける。2017年の総選挙において、小池百合子の提唱する「希望の党」への合流が課題となり、前原の側近としての立場に翻弄されていく。

選挙戦において思わず口に出した「打倒、小池だよなぁ」との一言には、本音が見えた気がした。


 予告編でも取り上げられているが、その希望の党での選挙戦で、小川は街を行く人から「おまえ、安保法制反対しとったじゃろが」と非難される。「イケメンみたいな顔しやがっておまえ、心はもう、真っ黒やないか」

 これと、選挙キャンペーンに帯同した娘さんが道行くサラリーマン風の男性にリーフレットを渡そうとすると、受け取りを拒否される。当時の希望の党への逆風を見事に表現しているシーン。

 このシーンに上西充子氏*1が、映画のパンフレットで次のように述べている。

 そのいずれもが、私たち自身の姿であると思った。私たちは多くの場合、投票し、結果を確認することはあっても、その議員や政党のことを、深く知ろうとはしない。その議員や政党が、議会でどのような審議をしているか、わざわざ見に行こうとしない。「どうせ政治家なんて信用にならない人たち」と、与党も野党もひとくくりにした粗雑な言葉が広められている現状に疑問を持たず、一方で、自分たちを見捨てることはさすがにないだろうと、根拠なく楽観している。
 (略)
 2019年3月1日。根本匠厚生労働大臣不信任決議案の趣旨弁明に野党各派を代表して立った小川議員は、1時間49分の大演説の終盤でこう語った。


 「小手先の改革ではどうにもならない構造問題が、この国の未来には横たわっています。そして、私たちが真に国民の負託に応えるために、血みどろになる覚悟でその課題に向き合うために、私たちに求められるのは、国民に対する信頼であります。


 政治家が国民に信頼されていない。しかし、政治家もまた国民を信用しきれていない。このはざまを、このすき間を埋めなければ、小手先でない、正しい改革は成し遂げられません」


 『なぜ君は総理大臣になれないのか』このタイトルで問われているのは、小川議員の資質ではない。政治に対する、政治家に対する、有権者としての私たちの向き合いかただ。


(公式パンフレットより)

 私は、国民の「選球眼」の悪さに嫌気が差している。

 ここ数年、数十年だろうか。この人はと思える政治家が道を閉ざされ、何だこいつは?と思えるような者がバッチを付けていく。有権者は信じられないくらい無責任に議員を選ぶ。もっと無責任なことには、そうした投票行動すらしない。上で上西さんが「根拠なく楽観している」と指摘するのは、こうした投票棄権者の多さを言っているのだろう。

 政治を語る人は多いが、その言葉は地に足が付いていない。
 特に、テレビにおけるワイドショー型、討論風味の政治ショーの影響は大きい。

 木の葉が沈んで、石が浮かぶ不条理には耐えられない。
 事実よりも扇情的な言葉がもてはやされ、善悪や損得よりも、主観的な好悪が優先される。

 政治は事実を根拠として議論されねばならない。
 例えば、名古屋市の減税政策におけるシミュレーションの異常性こそが私が感じる政治議論だ。

減税検証シミュレーションに対する疑惑 - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

 名古屋城木造化の事業についての是非は、主観的な価値観によるものかも知れない。それは議論しても主観の押し付け合いに終止してしまうだろう、しかし、その基本設計代金の支払いについての違法性は客観的な議論ができる。

名古屋城天守の有形文化財登録を求める会

 後は、司法の判断を待つだけだ。


 こうした事柄について、様々なメディアに取り上げてもらうように資料を提供すると、「難しすぎる」や「読まれない」と拒否されてしまう。

 こうした読者自身が頭を使わなければ理解できないような話題については、記事にしてもあまり読まれず、読者は付いて来ないそうだ。しかし、私は思う。[uke: |: ] 読者が付いてこないから、こうした話題を題材にしないために、読者はより扇情的で簡便な話題に飛びつき、咀嚼の難しい問題を考えようとしない、そうした問題を考えようとしない読者は、そうした問題に興味を示さない。興味を示さないから記事にならない。記事にならないから基礎知識がない。基礎知識がないから理解できない、理解できないから記事を読もうとしない、読者が付いてこない[uke: :| ]。*2


 まったくくだらない。ココ最近、中部地区のスポーツ新聞(中日スポーツを含む)における、「あいちトリエンナーレに係る大村知事リコール問題」に費やされる活字の量は異常だろう。それでいて、リコール事務局ですら、リコール制度そのものを理解しておらず、当初のリコール開始時期(8月1日)が守れていない。(リコール制度一つ満足に理解できないものが、知事よりも地方自治地方自治における文化事業を理解していると思える驕りは一体どこから湧いて出てくるものだろうか)

 この問題で取り上げられている金額が約4千万円。河村市長が上でも述べたように「違法な事務」を進めてまで強行した名古屋城木造化、そのために買い込んだ原料の木材、これの保管料が年間約1億円と言われており、今、最短で完成できるとしても2028年と言われている。つまり、8億円からの金額は無駄に支出されることになる。

 適正に基本設計業務を進め、それが成立しないのであれば木材など買わなければ、支払わなくても良いお金が8億円。なぜ、こんな無理な施策を展開したか。その理由は、河村市長の「最重要政策」*3である、名古屋城木造化が「進んでいるように見せかけるため」でしか無いことは明白だ。

 そして、挙句の果てにこの6月には文化庁からこんな「最後通牒」まで突き付けられている。

史跡等における歴史的建造物の復元の在り方に関するワーキンググループ-鉄筋コンクリート造天守等の老朽化への対応について(取りまとめ)- | 文化庁

 事実に基づく議論。事実に基づく政治を行わなければ、この国は保たない。

 あの小池百合子に300万票以上の票が集まるということは、有権者は何の根拠も持たず、ただ「テレビに毎日出ている人」「名前を知っている人」に投票しているに過ぎない。それでジャーナリズムの意味があるのだろうか。

 有権者に嘘をつく政治家は排除しなければならない。

 政治家の嘘を許すから、政治家は緊張感を失い、嘘をつき続ける。

 特に、今回。小池百合子が候補者討論から逃げたように、公約などまったく無視で「税金で食って極楽」を決め込んでいる政治家が腐るほど居る。実際に腐っているのだろう。

 そして、そうした者たちは、都知事選挙における小池百合子よろしく、メディアに注目されることを嫌っているようにも見える。「ギュゲスの指輪」を使って身を隠しているのだ。

 こうした「働かない代議士」「要らない政治家」は政治の場からとっとと退場してもらわなければ、政治に緊張感が生まれない。風まかせのいい加減な政治家ばかりになる。


 有権者、メディア、政治家それぞれが、相互に監視し、批判し、豊かな議論を起こさなければ、本当にこの国は沈んでしまうと思う。


 最後に2つばかり、映画の中の小川代議士が語った言葉で、心に響いた言葉がある。


 小川代議士は総務省の出身だが、こうした官庁で一番偉いのは誰かと説明する際に、制度的には大臣に決まっているが、官僚にとって大臣などお客様に過ぎない。(市の当局者にとって、市長はお客様に過ぎない)事務次官が一番偉いのかと言うと、そうでもない。その上にOBが居る。このOBの影響力が官庁を支配し、そうした昨日と同じ今日、今日と同じ明日という強力な慣性力が官庁を支配する。これを突き動かすには政治家になるしか無かった。

 政治は1か0になってしまう。49対51でも、51の方が100持っていってしまう。それではダメで、51には49を背負う覚悟がいる。

 これこそ、政権を持つ者が守るべき言葉であり、こうした常識が奇異に映るほど、今は常識が失われていると感じた。


 また、映画を見たのは、シネマテークだったが、途中、田崎史郎と宴席を設けて意見交換をしているというシーンで客席から舌打ちが聞こえた。田崎史郎といえば官邸からお金が出ているほど安倍政権ベッタリと言われているジャーナリストで、小川代議士がそこに近いことを嫌ったヒトが居たのだろうと思ったが。
 こういう感覚がおかしい。

 政治とは包摂する仕組みを模索する文化的な営為だ。「気の合った仲間」だけで集まるような話ではない。逆に、まったく政治的指向の異なる者同士だからこそ、対話を重ねて相違点と妥協点を探れなければならない。自分と異なる意見の者は「間違っている」から「排除」するという態度*4は、幼稚にすぎる。


2019年3月1日。根本匠厚生労働大臣への不信任決議案趣旨弁明
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2019年2月4日 衆議院予算委員会(統計不正問題追求)
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2012年2月19日 桜を見る会 前夜祭ANAホテルコメント問題追求
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私はこの質問で、菅官房長官に対して語った次の言葉は大切だと思っている。

 私は、立場をわきまえずに申し上げますが、(菅)官房長官の手腕には一目も二目も置いていますよ。本当に、それは私だけではないでしょう。ここにいる委員の先生方、麻生財務大臣もそうだと思いますよ。

 でも、官房長官、ちょっと若げの至りで申し上げさせていただきたいんですが、御党の後藤田正晴先生とか、野中広務先生とか、梶山静六先生とか、まさに異彩を放った官房長官、歴代いらっしゃいますね。政権運営においても巧みだったと思う。しかし、もうちょっと、何というんですか、どこかに、政権の都合と社会の規範との間でもっともがき苦しんでいる先輩方だったんじゃないですか。私は、菅義偉という人はそれができる人だと思いますよ。

 完全に魂まで政権運営に身を売ってしまったら、何が残るんですか。この長期政権の日にちだけが残るんですか。日本の社会のモラルを、私は、ある種崩壊させながらこの政権は最長に至っていると思っている。それが正せるとしたら、いや、全責任、最終責任は安倍晋三先生にありますよ、しかし、正せるのは、菅義偉、あなたしかいないじゃないですか。全部、何でもかんでも政権の都合で、魂まで身売りするような状況だったら、何のために政治家になったんですか。そういう話にもなりかねない。その前提でぜひ御答弁をいただきたいわけです。

  目先の利益や、しがらみだけで、不正に目をつむるのであれば、その人物は、その嘘のためにこの世に居たことになってしまう。ひとを、他人を欺くために生まれてきたことになってしまう。

 身過ぎ世過ぎの活計以上に、ひとには重要なものが有り、それを構築できるのが、政治家というものなのではないのだろうか。


*1:法政大学教授、国会パブリックビューイング代表

*2:ウクレレ記法が使えない??

*3:であることがお笑い草だが

*4:嘘つきの政治家は排除しなければ、議論が成立しない

ギュゲスの指輪

嫌なものを見た。
私は通勤の都合上名古屋の繁華街「錦三」の辺りを通ることが多いのだが、夕方、「夜のお姐さん」たちの出勤時間に、そうした女性に声をかける若い男性の姿が目につくようになった。

事情通に事情を聞いたところ「割の良いアルバイトを紹介しますよ」と誘って、いわゆるAV(Audio Visualではない方)への出演を促すらしい。錦のお店に出ているような女性なら、見てくれは良い。そしてこのコロナ禍で、そうした「夜のお姐さん」たちも収入が減っている。それを見越して声をかけているというのだ。

第一波の自粛騒動のときには、店舗閉鎖に伴って補償も色々と工夫された。第二波が現実のものとなって、「自粛」の「要請」はされているが、強制力はなく、そして補償もない。困るのはそこで働く人達だ。彼ら、彼女らは、好き好んで夜の街で働いている人ばかりではない(好き好んで働いている人もまたいるけれども)

「板子一枚下は地獄」というような、ギリギリのところで、生活とプライドを守って暮らしている、その弱みに付け入るように甘い言葉をかける。

まさに、この世の地獄だ。

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そうした感染拡大に怯える市民を尻目に、このバカはこんな記者会見をしている。

この状況で何を半笑いで伝えられるのだろうか。

他人の痛みなどなにもわからないのだろう。本当のバカだ。

一時間もある動画、無理して見る必要はない。頭にくるだけだ。

具体的な政策は一切なし、途中で検査体制の質問が飛べば、具体的なエビデンスは示さず否定し、そうした報道を非難するだけ。つまり、自己弁護と自己正当化に終止している。

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陽性判明者で入院できていない者についても、当局を庇うだけ。本当なら軽症者受け入れ施設の不足を指摘し、施策強化すべきだろうが、市長は自己弁護をするだけ、記者はこの当然の追求もせず。

「隔離」がどうしたとか、幼稚な言葉遊びに費やす時間がもったいない。
検査、発見、隔離、治療 これ以外に感染症に対応する方法はない。単純な原理原則に立脚すれば、こんな言葉遊びが如何にバカバカしくムダか解ろうというものだ。

緊張感の欠片もない、弛緩した記者会見である。


最近、ある人とギリシャ哲学について会話している時に「ギュゲスの指輪」の話を思い出した、この話にはじめて触れた頃には判らなかったこの寓話の意味を、今になってはっきりと理解することができた。

プラトンの「国家」(ポリティア)にある話だ。

ギュゲスという羊飼いがある「指輪」を見つけた。この指輪をして玉受けを回すと自らの姿を消すことができる。(姿が消える「指輪」といえば、トールキンの「指輪物語」(ロード・オブ・ザ・リング)を連想する方も多いだろう。ーー関連しているとも言われているがトールキン自身は何ら言及していないようだーー)

ギュゲスはこの指輪の不思議な力を使い、やがて王の座を手に入れる。

この逸話を引いてグラウコン(プラトンの兄)はソクラテスに「ギュゲスのように誰にも知られずに、不正を働いて、栄華を極められるのであればそれでいいではないか。世の人々は、良い評判が利益につながると説き、正義を勧めるが、欺き続ける事ができるのであれば、正義などなす必要はない」つまり、「バレなきゃ何やったって良いではないか」と問いかけた。

それに対してソクラテスソクラテスの言葉として、プラトン)が主張するには「正義とは社会から要請されたものではない。不正に身を委ねる者は、自らの精神を醜く、汚すということであり、外的な状況がどうあろうとも ーーたとえ栄華を極めようともーー 、その状態は惨めなものなのだ」というものだった。

つまり、誰にもバレなくても。やり放題やって、外面だけ誤魔化して評判を手に入れても、そうしたさもしく、姑息な生活態度は、自分自身を醜くするというのである。(いかにも、プラトンの倫理観)*1

指輪物語」においては、指輪の不思議な力で姿を隠しても、冥王サウロンの視界からは逃れられない。逆に姿を隠すことでサウロンに注視される。陰でコソコソと不正な事をやっていても、自分の良心(それも、そうした事を続けていけば、酷く歪んだ良心だろう)の追求から逃れることはできない。*2

市民が感染拡大に怯えていても、そうした困窮に思い至らず、思わず皮肉な半笑いを浮かべてしまうことにもなるのだろう。ーーそんな醜い者にはなりたくないーー。

現在、安倍首相が国会にも出ず、記者会見も開かず、国民の目から逃れているように見える。まさに、「ギュゲスの指輪」をしているように見える。こうして(人の噂も)75日経てば、悪評も終息してしまうとでも思っているのだろうか。

名古屋市河村たかしもそうだ。

感染拡大が急速に広がる名古屋において、保健所は業務量が逼迫し、軽症者用の宿泊施設の準備もない。まったく文字通り「無策」であるにも関わらず、そうした姿を報道しない。

市民の目には触れない。

市長と、市政記者クラブが共同で、河村たかしの姿を市民の目から隠している。


さて、そういったところで、河村たかしに対する「冥王サウロン」たる、当ブログが、無能市長河村たかしの実像のほんの一端を公開していこう。

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7月14日 市長の一日(メモ付き)

ご覧いただいているのは7月14日(火曜日)の市長動向と、市長の退庁時間だ。
市長にはタイムカードなど無いので、市長室秘書課に情報公開を求めたところ、公式文書はないが市民に対する情報提供はできるとして、報道発表による「市長の一日」の抜書と、メモをもらった。それによると7月14日、火曜日には河村たかし名古屋市長は、午後1時の来客対応のあとは、公務がなかったために、午後2時に退庁している。お家にお帰りになっている。

なぜ、7月14日の市長の退庁時間について、私が情報公開を求めたのか。

カンの良い方はおわかりだろうと思いますが、その日の午前11時30分頃。名古屋市名東区役所において、生活保護を担当する区役所職員が刃物で刺されるという事件が発生している。

www.chunichi.co.jp

https://web.archive.org/web/20200717045314/https://www.chunichi.co.jp/article/88700

社員が会社の窓口で顧客に刺されたというような事件が起きた場合、民間企業の社長、経営者はどういう対応を取るだろうか。

事件に対するコメントを発表するなりして、社員/職員を守るような対策を取ろうとはしないものだろうか。

少なくとも、なにも対策せずにとっとと(午後2時に)退庁するということはないだろう。

地元マスコミは報じない、市民の目には触れないまま。ギュゲスの指輪で姿を隠した、身勝手な殿様は、誰はばかることなく好き勝手を行う。市民の目に市長の実像が見えないように、職員も、市民も彼の目には入ってなどいない。



追記:
情報提供をいただきました。
14日 2時に退庁した後の足取りのようです。

http://archive.is/uB2P0


*1:佐藤夕子市議や余語さやか市議は耳が痛いのではないだろうか

*2:佐藤夕子市議や余語さやか市議は通帳を握って脂汗でもかいているのだろうか

大村知事リコール運動について

 昨年のあいちトリエンナーレ騒動に対して、名古屋市河村たかし市長や高須クリニックの院長であり、テレビタレントでもある高須克弥氏が大村愛知県知事に対するリコールを行うそうである。

 河村市長や高須氏の主張は全くのデタラメであり、まさに「亡国の暴論」でしかない。

 河村市長の主張の欺瞞と幼稚な誤りについては、河村市長が大村知事に宛てた「公開質問状」におけるやり取りで十分立証されている。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

 この中で河村市長は大村知事への「公開質問状」であるにも関わらず、津田監督の意見を求めるなど、おおよそ正常な社会人としての常識すらわきまえていない悩乱を見せている上に、自身が主張の根拠として引いた一橋大学の阪口教授に「河村市長の行為は公権力の行為として誤っている」と明確に否定されている。

gendai.ismedia.jp


 自身が主張の根拠とした有識者から明確な否定をされたのであれば、それは論駁であり、つまり河村たかしは大村愛知県知事からの反論を待たずに、みずから論争において敗北を喫している。にも関わらず、そうした「事実」を見ようともせず、大村知事の正当な反論に対し、一方的な主張を重ね、恥の上塗りをしているのであり、河村たかしの主張に論理的正当性がないことは明白であり、大村愛知県知事には瑕疵は認められない。

 それでいてこの度、大村愛知県知事に対してリコールを求めるならば、それは大義名分も無い行為であり、河村、高須というテレビタレントの集客力を政治的利用する劣悪なポピュリズムでしか無い。

 しかしそれでも「直接請求」という行為はすべての有権者に認められた権利であり、いかに歪んだ主張であろうと、それが特定の個人への誹謗や、民族、宗教に対する憎悪表現(いわゆる、ヘイトクライム)でない限りは、自由に表現する権利は認められるべきだろうと思われる。

 しかし、そういった主張に対して、また反論する表現の自由も認められるべきであるし、彼らが事実と異なる主張をしているのであれば、それを指摘し、正す行為は有権者、県民、市民が民主主義を守るための義務でも有るだろう。

 そうした「中身」についての議論は別稿に移し、本稿ではリコールと呼ばれる、いわゆる「直接請求」の為の手続きについて確認をしておきたい。

 そして、こうした手続を確認していくと、実はとても楽しい結論が導き出せる。まったく、保守リベラルを自認する私にとっては、この結論は素晴らしく、河村たかしや高須某には足を向けて眠れなくなるかも知れない。

 最初にお礼を申し述べておくべきだろう。

 いや、河村たかし高須克弥、本当にありがとう。

 まず、本稿の元ネタを紹介しよう。


横浜市会 議会局政策調査課(法制等担当)平成26年12月編集・発行
「市会ジャーナル 平成26年度 Vol.11  (通算138号)」
「直接請求について」

https://www.city.yokohama.lg.jp/shikai/gikaikyoku/journal.files/0081_20180809.pdf


が情報源となる。

 有権者の署名によって知事リコールを求めるためには、解職の権限を持つ「条例の制定」を求めなければならない。署名が一定数集まれば、条例が制定され、その条例に基づいて住民投票が行われる、この住民投票において解職を求める有権者過半数を超えれば知事は解職となり、すなわち、知事を決める知事選挙が行われることとなる。(愛知県知事選挙の選挙費用(県が用意している予算)は4億5,635万円(2010年実績)であり、住民投票と2回で9億円程度の経費がかかる)

 署名収集(2ヶ月間)
 ↓
 住民投票
 ↓
 知事改選

という流れになる。

 この直接請求の署名を集めるのは「請求代表者」と「受任者」という人しか集めることはできない。誰でも彼でも好き勝手に集めるというわけにはいかない。(特に県外のものにはその権限はない)

 図は、上記横浜市会のまとめた文書から引いたものであるが。
 こうした手続を踏まえなければ署名は無効となる。

追記(7月27日):
この「図」を入れ忘れてました。申し訳有りません。

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請求の流れ


 特に重要なのが「地方自治法施行令」の第91条と92条である。

第91条 地方自治法第74条第1項の規定により普通地方公共団体の条例の制定又は改廃の請求をしようとする代表者(以下「条例制定又は改廃請求代表者」という)は、その請求の趣旨(1,000字以内)その他必要な事項を記載した条例制定又は改廃請求書を添え、当該普通地方公共団体の長に対し、文書をもって条例制定又は改廃請求代表者証明書の交付を申請しなければならない。
2 前項の規定による申請があったときは、当該普通地方公共団体の長は、直ちに市町村の選挙管理委員会に対し、条例制定又は改廃請求代表者が選挙人名簿に登録された者であるかどうかの確認を求め、その確認があったときは、これに同項の証明書を交付し、かつ、その旨を告示しなければならない。

第92条 条例制定又は改廃請求代表者は、条例制定又は改廃請求署名簿に条例制定若しくは改廃請求書又はその写し及び条例制定又は改廃請求代表者証明書又はその写しを付して地方自治法第74条第5項に規定する選挙権を有する者(以下「選挙権を有する者」という)に対して、署名(盲人が公職選挙法施行令(昭和25年政令第89号)別表第1に定める点字で自己の氏名を記載することを含む。以下同じ)をし印を押すことを求めなければならない。

2 条例制定又は改廃請求代表者は、選挙権を有する者に委任して、その者の属する市町村の選挙権を有する者について前項の規定により署名し印を押すことを求めることができる。この場合においては、委任を受けた者は、条例制定又は改廃請求書またはその写し及び条例制定又は改廃請求代表証明書又はその写し並びに署名し印を押すことを求めるための条例制定又は改廃請求代表の委任状を付した条例制定又は改廃請求者署名簿を用いなければならない。
(以下略)



つまり、

 ・署名収集は請求代表者か受任者(92条2における「委任」を受けるもの)しかできない。

 ・署名簿には受任者の氏名、住所の明記が必要となる。

 ・受任者は自身の選挙区(愛知県は69の選挙区に別れている)以外では署名の収集はできない。

 ・受任者が収集できるのは、自身の選挙区内の住民に限られる。

 92条の2の次の文書「条例制定又は改廃請求代表者は、選挙権を有する者に委任して、その者の属する市町村の選挙権を有する者について前項の規定により署名し印を押すことを求めることができる」


 ・署名収集には請求代表者か受任者しかできないのだから、そうした者が立ち会わない「回覧」や「郵送」及び「配置」しての収集は違法となる。


 ・署名簿には請求代表者や請求の趣旨等の表示が必要であり、署名簿をバラバラにして署名収集するような行為や、署名収集後に合本するような行為も違法です。

 ・代筆は認められません。


 すでにこうした動きもあるようだ。

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 この「真日本有志の会」(旧姓「真日本ネット連合」?)の長谷川正という人物は、ネット上のコンテンツについて他者の著作権侵害に無自覚なようで、そうした指摘を受けている。遵法精神に満ちているようには見えないが、愛知県外から来たものが「署名募集」を行う行為は上に述べたように違法である。

 上記のような違法行為を認めたら市区町村の選挙管理委員会か、愛知県選挙管理委員会(電話番号:052-954-6069)に通報をお願いしたい。

 即座に是正されることはないかもしれないが、終了後こうした違法行為の通報数は公表され、その数字が多ければ如何に大村知事リコールを求める者たちが良識から外れているかを示す事ができる。

 そうした啓発チラシも作ってみた。

f:id:ichi-nagoyajin:20200724211152j:plain
その署名は違法です


お近くのコンビニでネットプリントすることもできます。
ユーザー番号は TRMXBC5A6E 

やり方は、
networkprint.ne.jp

署名簿には、署名、印のほか、署名年月日等を記載しなければならないが、署名簿の様式が署名年月日、住所、生年月日欄を全く欠く署名簿 →

法定の様式に違背しているのは明らかであり、署名簿全体が無効。
(昭25.12.1行政実例、昭28.6福島地裁判決)


審査の段階において、原型を留めない程度に改ざんされた署名簿 →

全体の署名を無効。

従前の署名簿と認められるものに他の署名簿の要旨を添付または挿入したことが提出された署名簿の状況から明らかであるとき →

当該添付又は挿入にかかる部分の署名は無効。

請求書又はその写し、直接請求者証明書又はその写しの付していない署名簿、署名収集の委任が行われた場合に委任状を付していない署名簿 →

無効。(昭23.12行政実例、昭25.11.1仙台高裁判決)

請求書又はその写しと称するものが付してあったとしても、その内容が直接請求代表者証明書交付申請書に添付されていた請求書の内容と異なる時 →

無効。(昭25.12.1行政実例)


直接請求者代表者の印のない委任状を添付した署名簿により収集された署名 →

無効。(昭30.12行政実例)

数名の受任者が一冊の適法な署名簿で署名を収集した場合、その中の一人の人物が無資格者であったばあい →

その無資格者が収集したと認められる署名は無効。(昭33.1行政実例)

同一家族、同一地域の者の署名が、同一筆勢で明らかに代筆と認められるもの →

無効。(昭23.6、昭23.8、昭23.12行政実例)

郵便で求めた署名 →

無効。(昭26.9.10行政実例)

回覧で求めた署名 →

無効。(昭28.8.25、昭33.1 行政実例)

http://kenmintohyo.com/record/rec/1/10000.pdf


さて、3000文字を超えました。
そろそろネトウヨ君たちは脱落したかな?

 わざわざ条文まで引用したのは、できるだけネトウヨ君たちを脱落させたかったからなのですが、ここから私が河村たかし高須克弥にお礼を言いたくなる理由を書きます。


 実は、この大村知事リコール運動は、愛知県内におけるヘイトスピーチを振りまく、ネトウヨを撲滅する機会になりそうなんだ。

 すでにお気づきのように、リコール署名を募集するためには、募集者は(それが請求代表者であれ、受任者であれ)氏名や住所を公表しなければならない。

 ヘイトスピーチを繰り返す者たちは「桜井誠」を始めとして本名を隠そうとする。(桜井の本名は高田誠)また、住所や職業も隠そうとする者が多い。

 つまり、本心ではやましいことをしている自覚があるんだろう。

 しかし、この大村知事リコール運動で署名を収集しようとすれば、氏名(本名)と住所(選挙人名簿記載の住居地)を公表しなければならない。(今から変更しても無駄です。今住所地を変えれば選挙権を失いますからね)

 つまり、署名簿収集期間中、その署名活動を観察すればネトウヨ君の個人情報を収集し放題ということになる。

更に、9月末には収集期日が訪れる。

 10日以内に各地(愛知県内69の市区町村)の選挙管理委員会に署名簿は届けられる。その後、選挙人名簿と照らし合わされて、署名簿は「縦覧」に伏せられる。


 つまり、誰でもこの署名簿の請求代表者、受任者、署名者の氏名、住所を自由に確認することができる。

 今後、愛知県内において、ヘイトスピーチを行うような者は、氏名も住所も明示されることとなる。

 私が、河村たかし高須克弥にお礼を言いたくなる理由がおわかりいただけるでしょう。


ただし、縦覧は規定数に近い数が集まらないと行われそうもない。
今の所、とても無理のようです。

署名収集を8月1日より開始すると言っていますが、署名簿の書式について、まだ県の選挙管理委員会に提出されておらず、印刷等のスケジュールを逆算すると、8月1日にはとうてい間に合わない。

更に、ここには書きませんがこの事務局は未だ幾つか忘れていることが有るようで、そうした手続きをクリアして署名収集(ネトウヨ個人情報開示大会)がはじまるのは、8月の中旬頃からということになるかもしれません。

追記:
困ったもんだよね。

https://pbs.twimg.com/media/EdvolC6U0AA-PbZ?format=jpg&name=medium


やっぱり「隠したい」んだね。
しかし、「縦覧」があることを知らないのだろうか?

知らないとすれば、直接請求のための署名を求める中心人物としては不用意だし、
知っていてこんな 嘘 を言うなら、本当の嘘つきということになる。