市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

リチャード・クーさんの本を読んでみた2020

名古屋市は今、市民税を3.75%減税している。法人への減税は止めており、公式には5%減税していると言っているが、愛知県より移管された地方税は現在、名古屋市市民税であり、これを分母に入れない減税比率の主張には根拠などない。

もちろん、この市民税減税は名古屋市河村たかしの「独自の」主張であり、経済学的には正しくない(歳出を削減して地方税を減税しても、経済効果はマイナスに出るだけだ)
当ブログでは様々な検討を行ってきた。

減税に対する単純で明白な3つの質問 - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0
「正しい経済学」が導く減税の意味(前編) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0
「正しい経済学」が導く減税の意味(後編) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0


今まで、名古屋市河村たかしは、なぜ減税政策を行うのか。まともに回答をしてこなかった。当ブログも、最初から減税政策に対して否定的だったわけではない。しかし、検討し、説明があやふやであったり、明らかな間違い、嘘が並べられていた結果として否定しているに過ぎない。

減税検証シミュレーションに対する疑惑 - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0
霞と消えた1128億円 - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

そして、現在では明確に言える。名古屋市が実施している河村流減税政策は明白な誤りであると。その証明は簡単な唯一の事実を提示するだけで十分だろう。

「日本において、河村流減税政策を実施している地方自治体は名古屋だけである」

つまり、議論はすでに終了している。これ以上「河村流減税政策に効果がある」という主張を続けるのであれば、それは単なる嘘だ。

減税日本の減税政策への「怪説」はこちらになる。

政策Q&A | 減税日本

ポイントはここだろう。

Q.そもそも減税政策とはどういうものですか。
A.一般的に減税政策には以下のいくつかの観点があります。
 1)経済政策として
 2)プライスキャップ(料金上限規制)による行革の推進として
 3)小さな政府論として

果たして、こういった主張は、クー氏の論理と合致するのか?

名古屋市河村たかしが自分の口から減税政策の説明を行わなかった頃、経済評論家である「リチャード・クーさんの本でも読んだってちょうだい」と名古屋市会本会議で発言があり、言葉のとおりに読んでみた。


リチャード・クーさんの本を読んでみた(前編) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0
リチャード・クーさんの本を読んでみた(中編) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0
リチャード・クーさんの本を読んでみた(後編) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0


先日次のようなツイートが流れてきた。


お言葉のように読んでみましょう。


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THE OTHER HALF OF MACROECONOMICS AND THE FATE OF GLOBALIZATION
(写真)


昨日丸善で買ってきて、ひと晩かけて読んでみた。

「要は 皆が借金返す社会」なんて、クー氏は言っていない。というよりも、これは彼の言うバランスシート不況の姿であって、問題とされる状況を言っている。名古屋市河村たかしのこのツイートでは、主語が不明確であるために「この経済学に立つ 新政治勢力出ないかん」と期待される政治勢力は「要は 皆が借金返す社会」(=財政均衡論)であると解釈できてしまう。しかしそれは同書の趣旨をまるで真逆に理解していることになる。

また、この書籍には名古屋市河村たかしに直接語りかけているような部分もある。(もちろん、論理的帰結としてという意味であって、クー氏がわざわざ名古屋市河村たかしを意識して書いているという意味ではない。また、これももちろん、名古屋市における減税政策についての言及は一切ない)

THE OTHER HALF OF MACROECONOMICS
AND THE FATE OF GLOBALIZATION


本書の概要は、今までの経済学では経済主体は常に拡大を求めるのであって「資金需要」は常に存在するという前提に立っていた。しかし、バブル崩壊後、各経済主体はバランスシートが毀損され、個人や企業経営者は財務健全化のために資金需要を無くした。さらに被追国(後述)として資本流出が起こっている。これらを認識し、対策を立てなければならない。

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第3章の議論を p.114 の図表3-1を軸に展開してみる。

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図表3-1

図は、水平線が労働者数で、右に行くほど労働者が増えることを表す。
垂直線は賃金で、上に行くほど賃金が上昇することを表す。

青い線が、段階ごとの賃金状況と労働者数を表す。

起点はDで、工業化・都市化以前の状況で、企業規模が大きくなるごとに(労働者数が増え、点Dから点Gに移行すると)労働者の収入(=消費額)は四角形DEFGの面積によって表されるように、拡大していく。労働者の総収入(=総消費額)は拡大していくが、労働者数が拡大しただけで、賃金自体は上昇していないために、青い線は水平のままだ。

ここで、黄色い線D1を引いてみると、三角形BDGが現れる。これが経営者・資本家の利益を表す。資本家は自らの収益を拡大するためにより企業規模を拡大させようとして、点Gを点Hへと移行させようとする、すると、線D1は線D2に移行し投資収益を得ることができる。こうして投資が連続して起こることによって企業はより拡大し雇用が生まれ、労働者数が上昇し、総賃金収入=総消費額も増えていく。これが工業化の姿である。

こうした傾向が進むとやがて「ルイスの転換点」と呼ばれる現象が起こる。
工業化が進み、都市が生まれ発展すると、単位労働者賃金の上昇が始まる。ルイスの転換点である点Kから点Lへの移行は、労働者数の上昇以上に、労働者の総賃金である四角DEJKが四角CEMLへ面積の拡大を見せるように、経済は拡大する。これが米国における「黄金の60年代」や日本における高度経済成長期の姿となる。

こうした局面では従来までの経済政策が的を射ることができる。
ここで p.35 に示された図表1-3 に移る。

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図表1-3

経済の拡大局面においては常に資金需要があるのだから「借り手」は常に「あり」であり、問題は「貸し手の有無」ということになる。従来の経済学はこのケース1からケース2の状態を推し量って、貸し手と借り手がバランスするように調整をすれば良かった。

ここでまた図表3-1に戻ると、経済の拡大は永遠には続かない。天井がある。それが賃金水準が他国に追われる段階まで上昇した時となる。先進国は必ずこの段階を迎える。

これがこの本で繰り返し述べられている「被追国の経済状態」となる。(本の日本語タイトルである「『追われる国』の経済学」として考慮すべき問題がここになる)
日本も、バブル崩壊後、うかうかしていたら台湾、韓国、中国に追い上げられて、この段階に陥っている。

ここでまた図表1-3に戻ると。
こうした経済が頭打ちになった国においては、資金需要は減速する。国内に投資するよりも、賃金の安い周辺国に生産拠点を求めた方が企業は有利となり、国内投資よりも海外への資本流出が起こる。この状況がケース3,ケース4の状況であり、「従来の経済学では語られてこなかった世界」となる。、(本の英語タイトルである「THE OTHER HALF OF MACROECONOMICS」の「OTHER HALF」とは、この右側のケース3とケース4の事である)

これがクー氏がこの本で述べたかった主な主張の元となる現状把握、問題意識である。

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図表4-3

これに対してクー氏が主張する対応策を最も簡便に表した図が p.189 の図表4-3となるだろう。ルイスの転換点前の「都市化の時代」からルイスの転換点を迎え「黄金時代」を享受し、「他国に追われる時代」になると「物価と賃金は低迷」し、金融政策は通常時よりも効果を見せなくなる。こうした場合は「民間の過剰貯蓄を国債利回りより高いリターンの公共投資によって吸収すべき」であると提言されている。

「そして被追国の経済政策の担当者には、次の二点を期待したい。まず、金融政策に対する過剰な期待と、財政政策に対する過剰な嫌悪といった黄金期の発想は、勇気を持って捨て去ること。そして、追われる段階の経済にとって死活問題となった、将来の国民の負担にならない公共事業プロジェクトを見つけ出すこと。この二つができれば、被追国の国民にもそれなりの生活水準を提供することは可能であると思われる。」(同書 pp.234)

「将来の国民の負担にならない公共事業プロジェクト」
木造の新築観光建築物は、果たして年間どの程度の維持管理費が必要なのだろうか。
姫路城の例を引くまでもなく、20から30年ごとに、確実に20億円から30億円ほどの改修費がかかる。それ以外にも毎年のように細かな改修費は必要となるだろう。相手は「生き物」なのだから。
更に、様々な方向から木造計画実現のために「圧力」を受けて設立した「屋上屋」とも言える「名古屋城調査研究センター」などの維持費は木造化のコストとしては考慮されていないが、「将来の市民の負担」ではないのか。
更に、なんだろう。「子どもたちが喜ぶ」からと、蒸気機関車B6の動態展示を科学館・白川公園で行う?これにつける予算が3億6千万円。これも維持管理費は考慮されていない。「将来の市民の負担」を無視した計画だ。こんな動態展示で喜ぶ「子ども」は70歳を過ぎて、国会議員年金をもらっても「お城だ」「SLだ」とダダを捏ねて満足しない「子ども」ぐらいのものだろう。本当の子どもは、そんな予算があるのなら、まともな給食を食べさせろ。と言うだろう。

名古屋めし・プレミアム小学校給食 - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

本当に河村たかしはこの本を読んだのだろうか?

または、彼はすでに言葉の意味を真っ当に解釈し、受け入れるという知的行動が取れなくなっているのではないのか?

次のようなセンテンスもある。題も「減税か、歳出拡大か」だ。

「一口に財政刺激策と言っても、その手段には大まかに言って、歳出拡大と減税の2種類がある。(略)バランスシート不況下で政府の歳出拡大が不可欠なのは、民間部門が借金の返済を優先している時に減税を行っても、その大半が借金返済の原資に回ってしまうからである。そのような減税は個々の企業や個人の財政健全性には役立つかもしれないが、経済のデフレ・ギャップを埋めることにはならないのである。」(同書 pp.102)

前回の「リチャード・クーさんの本を読んでみた」でも同様だが、クー氏の主張は修正ケインジアンであり、バランスシート不況を認識した際には、歳出の拡大、財政出動が必要であると主張されていた。翻って減税日本における「減税」の役割は、すでに引用したとおり「 2)プライスキャップ(料金上限規制)による行革の推進として、 3)小さな政府論として」であり、歳出削減、財政均衡論である。

「1990年代にバブルの崩壊を経験した日本である。(略)地下地価が暴落した結果、民間部門のバランスシートは大きく傷つき、経済はきりもみ状態に陥った。
 当時の自民党政権は直ちに財政拡大策を取りまとめ、経済の崩壊を防ごうとした。(略)
 政府が自らおカネを使う財政刺激策が実施されると景気は上向いたが、財政政策が取り下げられると景気は失速した。期待された財政の呼び水効果がいつになっても実現しなかったのは、不動産価格が87%も下落した結果、民間部門が債務の健全性を取り戻すのに必要な時間が膨大なものとなり、その間の企業や家計は節約したおカネをすべて借金返済に回し続けなければならなかったからである。
 しかもメディアや学会を支配する伝統的な財政再建派は、ことあるごとに財政刺激策を中止させようとした。彼らは大幅な財政赤字はすぐに金利の上昇と財政危機を招くという持論を延々と展開したのである。こうしたタカ派は、財政出動で景気が息を吹き返すや否や財政刺激を中断するように政治家に働きかけ、それが新たな景気の失速を招く原因となった。そして景気が失速すると再び財政刺激策が打たれたが、その効果が出てくると再度、財政再建派がそれにブレーキをかけた。こうした一貫性を欠いた景気対策の結果、日本の不況は不必要に長引き、一般国民の政府の経済運営に対する信認は低下していった。」(同書 pp.91)

河村たかしもオピニオン・リーダー(笑)として、この財政再建論に乗っかっていたわけだ。
そして、本人にはなんの反省もない。

「先進国が被追国という今までとはまったく違う経済発展段階に入ったことが認識されなかった結果、既存政党の景気回復の約束はいつになっても達成されず、多くの人々は回復とはほど遠い生活を強いられた。そのために国民は既成政党を信用しなくなり、アウトサイダーや過激論者を支持し始めた。これはどの社会にとっても危険な兆候である。社会的な安全網がきちんと整備されている現在の民主主義は、1930年代よりも不況に対する抵抗力は高い。しかし中道左派あるいは中道右派の指導者たちが致命的な欠陥のある経済政策を追求し続ける限り、一般庶民の不満を解消することはできない。またそのような状態が続くと、民主主義の基礎も蝕まれていくことになる。」(同書 まえがきⅳ)

霞が関、及び政権の経済政策が外れ続けると、あやふやな「アウトサイダーや過激論者」の言説が歓迎される。しかし、実は経済はそのようなあやふやな態度で取り組んで良いものではないのだ。(これは、減税の経済効果が1128億と新聞一面にデカデカと載せた中日新聞にも猛省を促したい)

「私は経済学という学問を『日常生活の科学』として、大変真剣に受け止めているつもりである。その理由は、人類が経験してきた多くの悲劇のかなりの部分は、当時のエコノミストたちが状況を正しく把握して、それに見合った政策を提言していれば回避できたと思われるからだ。このことは、エコノミストたちが経済の状況をどう理解しているかで億人単位の人々の生活が良くも悪くもなったりすることを意味している。」(同書 あとがき pp.615)


ところで、同書には突然「名古屋」の文字が出てきて驚かされる。

「日本には数百年の歴史を誇る企業が京都や名古屋とその近郊に数多く見られるが、その大半は無借金経営に徹している。」(同書 pp.31)

こういった事柄も、もっと取り上げれば名古屋の観光の資源になるのだろうけどね。



追記:
この本に河村たかしの名前が出ているとのことで、私も読み飛ばしていた。


 索引も当たってみたが 河村の名前は無い(例えばP.602に記載されている加藤紘一氏は索引に記載がある)ので 「記載などされていない」 と 報告したが 今日の動画ではp.258であるとしている 確かにあった 次のように記載されている 

 そもそも論点は「学生のドロップ・アウトを減らす努力をせよ」という論点で p.258で次のように記述されている「日本でも名古屋市では、同市の河村たかし名古屋市長の強力なリーダーシップのもとでスクールカウンセラー制度の導入が進んでいる(以下略)」というもので 

 河村の施策(減税制度)ではなく スクールカウンセラー制度について語っている 逆に 名古屋市スクールカウンセラー制度について リチャード・クー氏は論述しているのに 本命であるだろう 河村流減税政策については 一文字も書かれていない。チャンチャン


さよならテレビ

年明けの3日に名古屋シネマテークでやっと 東海テレビ制作のドキュメンタリー「さよならテレビ」の映画版を見ることができました。予期せぬことで、監督の土方さんやプロデゥーサーの阿武野さんの挨拶や質疑応答もあり、楽しい視聴となりました。

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舞台挨拶
eiga.com

また、たぶんご本人たちはご存じないような形で知り合いの方々が映り込んでいるシーンもあり、今度、その人たちに会ったときに伝えるのが楽しみです。

作品は、東海テレビのディレクターであり、「やくざと憲法」を作成された土方監督が、自身の所属する東海テレビの内部をドキュメンタリーの対象として取材するという作品で、衰退が予感されていたり、その在り方が時に社会の批判を受けるテレビの現場における今日的在り方を問うもので、その射程は、マスコミやメディアの在り方を論点とするだけではなく、働き方改革など、労働時間の短縮が要請される中で、視聴率という数字目標は揺るがされることがないという矛盾が露呈されたり、コンプライアンスという枠組みがより厳しくなっていたりと、今日的な「労働とは何か」とか、そうしたコスト重視の帰結として導入される「契約社員」の増加から「契約労働」といったものの在り方も抉り出している。

上映後の質疑応答の中で、作品に出ている3人の主要な対象の内、2人は契約社員(契約記者)であり、1人はアナウンサー(社員/出役)であり、一般の正社員が対象となっていなかったのは何故か、特に会社の上層部にもインタビューは行われていたそうだが、それらの素材が使われていなかったのは何故かとの質問に、土方監督が「契約社員を素材にしたのではないかという批判も受けた」と吐露され、「正社員を取材する際に、どうしても本当のことを話してくれない。彼らもメディアの人間なので、何が使われ、何が使われないか計算もしているし、なかなか本音を語ってくれない。正社員の素材を見ても、自分はそこに『本当』があるようには見えなかった。そんなものを視聴者にお見せしても、またメディアの人間が自分たちの都合のいいように『良い話』をでっちあげているようにしか見てもらえないような気がした」というような話をされ、契約社員の澤村記者や渡辺記者については、その言動から「本当」が感じられ、こういった構成になったというような話がされました。

また、この作品は最後になかなか「攻めた」内容が含まれているのですが、そこについても制作メンバー内で議論があり、この最後の部分の為に賞を逃したのではないかという意見もあったとも披露されました。

「やくざと憲法」でも感じましたが、この土方監督というのはなかなかクレバーで一筋縄ではいかなさそうな人ですね。

作品からはいくつもの論点が汲み取れると思うのですが、その中の主要な論点である「メディアの在り方」について、作品の中でも「テレビの闇」という表現が使われ、上映後のお二人の質疑応答でもテーマとなりました。

メディアを作っている人々が、こうした自問自答や呻吟をもって事に当たっている姿は、誠実で良いことだろうと感じます。しかし、人が自分の行動に対して、確たる確信を抱けないということは、ある意味では非常に「しんどい」ことであり、どうしても何かに仮託したり、責任回避の言葉に逃げ込んだりしてしまいがちですが、最前線に立つものが、こうした誤魔化しをしてしまえばその仕事はどんどん無責任で厚みのないものに堕していくことでしょう。

100%の確信のない中でも提示し続ける勇気や、成果に対する責任を引き受ける覚悟がなければ、価値ある仕事は成立しないでしょう。

逆に、ご自分の仕事に100%の確信を持っている人が居たら、その人には「それは過信なのではないか」と問いたいものです。単に確信を揺るがすような要素を無視しているがために、100%の確信が成立しているように見えるだけなのではないか。

「テレビの闇」について考察する際に、阿武野プロデゥーサーが質疑応答で面白い話をされた。「映画の中で出てくる、●●の部屋、あれはセットです」「東海テレビの制作室として出てきた部屋、あれもセットです」「映画の中の●●君も、役者で、最後のあのセリフも私が書いたものです」これらの発言に一瞬会場はざわつきましたが、もちろんこれらは「嘘」です。

思考実験の為に出した話に過ぎません。が、実は私には、この言葉を否定するだけの材料を持っているわけではない。つまり、阿武野プロデゥーサーが言ったことが事実で、ドキュメンタリーであるとした「事実」が全くの虚構である可能性もあるわけだ。

私はここに「テレビの闇」はあると思う。

ラジオはその誕生とともに政治的プロパガンダに利用された。戦前の日本でもそうだったし、世界史的にも最もラジオの普及に熱心だったのがナチスであったということを考えれば、ラジオというメディアが、特定の意思を持った政治勢力に使われないと考える方が異常だろう。H.G.ウェルズ宇宙戦争という騒動(1938年)を引き合いに出すまでもなく、ラジオというメディアは「嘘」の物語を「本当」と信じ込ませる悪魔的な魅力を持つ。
つまり、歪んだ政治的意図や宗教的偏見でも、人々を信じ込ませ、動かしてしまう。
こうした、悪魔の牙は様々な場面で散見され、最近でもルワンダ虐殺における「千の丘自由ラジオ」における扇動(1994年/被害者推計50万人~100万人)という形で現出している。


ラジオの拡張であるテレビも同様であって、こちらは映像を率いているだけにより事態は深刻となる。

今も、トランプ・アメリカ大統領によるイラクのソレイマニ将軍暗殺についての報道や、その直後に起こったイランでの旅客機墜落事故について、それがイランによる攻撃であったのか否か、様々な言葉が飛び交っている。(米国の中東における軍事行動の言葉を、頭から信じるヒトってなんなのだろう。<あの>パウエルでさえ、国連において散々捏造報告(2003年)をしたわけだ。それをトランプの発言を信じる?)

また、日産のゴーン国外逃亡についても、様々な意見が飛び交っている。

つい先日も、ある場所で隣のテーブルに座っていたサラリーマン3人が、ビールを飲みながら政治談義に花を咲かせていたようだが、口を突いて出てくる言葉は、どこかで聞いたような言葉ばかりが並んでいた。

テレビの闇、ラジオの闇、そして活字メディアの闇。すべてのマスコミの闇はここにある。

私たちは、こうしたメディアを通して様々な事柄を知る。遠く離れた、見たこともない国や地域のことを知り、逢ったこともない人々の行動や言葉を知ることもできる。人間の活動域が有限であれば、それを拡張するメディアの力は、素晴らしい恩恵だろう。

しかし、私たちはこうした情報に触れる際に、非常に大切な前提を忘れてしまう。

それは、それらを事実として、頭から信じてはならない。という、実は当たり前のことだ。

ヒトが触れる情報は「事実」と「嘘」の二元論ではない。その前に膨大な「保留」があるはずだ。ヒトはこれを忘れてしまう。数学(小学校における算数や、高校程度の数学)ですら公理を前提とした「保留すべき事実」の中での(限定的な)「事実」でしかない。・・・しかし、現実には有用な事実である。

インターネットの世界では有名な匿名掲示板である「2ちゃんねる」の創設者とされている「ひろゆき」が「嘘は嘘であると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」と言ったそうだが、そもそも彼自身「嘘は嘘であると見抜け」なかったために、自身の座を追われたのだろう。数多の詐欺被害というのは、その大部分が「自分だけは、嘘は嘘であると見抜ける」と思った末の末路であって、彼らが特段の愚か者であったわけではない。ヒトは本質的に「嘘を嘘であると見抜け」ない。

重要なのは、自分が「嘘」と断定したものを「嘘と見抜いた」と信じてしまうのではなく、「保留すべき嘘」と「保留すべき事実」を置くこと。そして(生きるためには)時としてこの「保留すべき事柄」に全体重をかける「必要」があると知ることである。

こうした前提にたてば偏頗な排斥主義にも陥らないし、短絡的な狂信からも自らを律することができる。難しく言うなら、こうした「保留」を成立させることが「知性」であろう。好きな作家である杉浦日向子の描く江戸前でいうなら「よしやがれ、しゃれにならねぇ」ということだ。この「しゃれ」が判らない、「やぼ」が多いから、こちらも敢えて「やぼ」を承知でグダグダと駄文を書かねばならないのだ。


・テレビで映し出される映像は本当に「真実」なのだろうか。そしてそれを「真実」として(慌てて)確信する必要があるのだろうか?
・よく知りもしないヒトを「許さない」と排除する言葉には、どのような根拠があるのだろうか。
・果たして私たちは、トランプの言葉を信じる事ができるのだろうか、逆に、それを嘘と断じる根拠がどこにあるのだろうか。
・果たして名古屋市が行っている減税政策は、市内に1000億円の経済効果をもたらしたのだろうか。
・一国の首相が国費で「桜を見る会」を開いて、そこに地元後援会の人々を大挙招き、飲食を饗応する行為を容認する社会は正常なのだろうか。
・果たして「昭和天皇の肖像を焼いた」という作品は存在するのだろうか。
名古屋市民の内、どの程度の比率で名古屋城を木造化したいと願っているのだろうか。
・ゴーンは単なるコストカッターで、私的には会社の公費を流用もしていた、挙句の果てにそうした企業を他国に売り飛ばそうとしていたのか。また、かといって彼に対する司法の対応は正しかったのか。
・本当に名古屋農林総合庁舎は移動するのか(笑)。

実は、私たちは色々なことを「知らない」のではないのだろうか。しかし「知らない」事を忘れてしまい、「知っている」と勘違いしてしまう。

最近の脳研究で、人間は様々な事柄を聞いて、それについて好悪、善悪、真偽の判断をするのではなく、脳は予め判断を下しており、後に得られた情報は、その判断を元に「受け入れる/拒否する」という手順を踏んでいるという報告がある。*1テレビの出演者がなぜ身なりを整えるのか。ラジオの出演者にとって声のトーンがどのような意味を持つのか。つまり、画面の「絵面」が受け入れがたい場合、そこで語られた言葉をヒトは受け入れ難い。

実は、各メディアは事実を構築しない。事実を再構築するのではなく、すでにある事実(思い込み)を強化補強するに過ぎないのではないのか。「千の丘自由ラジオ」は人々の恐怖を言語化し、その漠然とした意志を具体化したに過ぎないのではないか。

「テレビの闇」というのは、テレビの中ではなく、それを見る者の中にあるのではないか。


*1:演芸における、いわゆる「あるあるネタ」も、こうした「受け入れる」情報と、観客の自己肯定(立川談志は「業の肯定」と呼んだ)が弛緩を生み、笑いを誘う

名古屋めし・プレミアム小学校給食

名古屋市長 河村たかしは嘘つきである。
こう言うと、私がなにか河村市長に個人的な恨みがあるから、殊更小さいことでも取り上げて、それを針小棒大に主張し、こうした個人的な「恨み」から河村市長の評判を落とそうとしている。と考える人もいるだろうし、実際、そのように主張する人も居るようだ。

そうした、河村市長に個人的な恨みを持った者が、その解消のために書いているだけに過ぎないと考え、そう信じ込みたいヒトも居るだろう。

しかし、当ブログの過去の記事を読んでもらえれば分かる通り、私は何も最初から河村市長の発言を疑問視したり、否定したりはしていない。

地域委員会について。その疑問を投げかけてみても、ろくな回答をせず、論点をずらして逃げ回っていたから、それを否定しただけで、その当時は、それが「嘘」とは思っても居なかった。

また、減税政策についても頭から否定していない。私も自身をリバタリアンと認識していたので、新自由主義的な市場原理を導入した効率的な行政運営というものが成立すると考えていた。

しかし、亡くなった宇沢弘文さんの論考や、神野直彦さんの著書などを読んでいくうちに、効用を計測できない(平たく言うと、販売価格を決定できない)行政サービスに市場原理など導入すべきではないし、図書館や学校教育に新自由主義的な「生産性」やら「効率」を持ち込むと、馬鹿な結論ばかりが導かれることに気がついた。*1

そうした論考からやがて、「歳出削減を行って、減税する」という「河村流減税政策」が、実は単なる「緊縮論」でしかなく、経済自体を収縮させる効果しかないことを知った。至極当たり前のことだ。一般に言われる「減税政策」では歳出側の話は出てこない。減税によって民間の可処分所得を増やしても、それが消費に回るか確定的ではない(つまり乗数効果は低い)しかし、その分の歳出(公共支出)が減らされるのであれば、公共支出というのは、単年度の確実な消費なのであるから、その分経済は確実に収縮する。つまり、経済が小さくなる。もっと平たく言うと「景気が悪化する」わけだ。名古屋市はこの気の触れたような経済政策を延々と続けている。

河村たかし名古屋市長は、こうした「河村流減税政策」の誤りについて、説明をしていない。というか、そもそも地元紙である中日新聞自身が、完全に「提灯」を付けて減税政策(緊縮財政論または、財政規律論)を称揚してしまったのだから、後には引けなくなってしまったのかもしれない。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com


今なら私は胸を張って言える。
「河村流減税政策は間違っている」いや、

「河村流減税政策は絶対に間違っている!」

その動かぬ証拠がある。

日本全国、どこを探しても、「河村流減税政策」を行っている、県、市、町、村はない。
地方税を独自に減税して、地域の経済を減速させようとするような馬鹿な地域は、日本全国中、名古屋市以外にないのだ。

全国と名古屋市の相違は何か。

河村たかし名古屋市長の存在と、中日新聞の購読シェアだ。

河村たかし名古屋市長の愚かな失政と、中日新聞の誤った報道姿勢が、名古屋市民の貴重な税金、数百億円をドブに捨てさせたことになる。

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「減税ナゴヤ街宣車

日本全国中、名古屋市以外実施していない「河村流減税政策」
つまり、この経済政策が誤っているというこれほど明白な証拠はあるだろうか?

最近でも河村市長は「減税政策は間違っていない、リチャード・クーさんの本でも読んでください」というような発言を繰り返しているらしい。*2

リチャード・クー氏も、減税政策よりも財政出動のほうが効果が高いと言っている。(リチャード・クー氏は修正的ケインジアンということらしい、なら当然だ)

リチャード・クーさんの本を読んでみた(前編) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0
リチャード・クーさんの本を読んでみた(中編) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0
リチャード・クーさんの本を読んでみた(後編) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0


さて、こうして馬鹿げた歳出削減、行政の効率化、選択と集中名古屋市においては行われている。

名古屋市内の市営図書館の「なごやアクティブ・ライブラリー構想」も、単なる撤退と縮小でしかない。碌な議論もなく進められようとしている。これについてはもっと事態が深刻になってから取り上げよう。

そして、最近、全国的に耳目を集めたのが、「名古屋市の給食の粗末さ」だ。

matome.naver.jp

blogos.com


この問題は、昨年11月、つまり一年以上前に、自民党の横井利明議員(南区選出)が名古屋市議会において議題として取り上げている。

横井利明オフィシャルブログ:小学生の給食が質素に?


つまり、政令指定都市でも最低の給食費では品質を維持する限界に達しているということなのだ。(給食について、市から支出するのは、設備や人件費などの経費であり、食材については保護者負担金で賄うことになっている)

給食費給食費保護者負担額)を3,800円から引き上げる議論を起こすべきだったが、それをしなかった。(公共交通における「敬老パス」議論同様、ポピュリストが、有権者の顔色を伺い、値上げを打ち出せなかった結果、決断が遅れたということだろうか)

しかし、指摘をされて一年間も放置するとはなんとも遅い。


そして、何よりここにも河村たかし名古屋市長の嘘があり、うんざりさせられる。

河村たかしは平成29年市長選挙マニフェストに給食の「質の向上」を謳っている。
これについては全く守られてこなかったということだろう。

平成29年 市長選挙 第1次確定マニュフェスト | 減税日本


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河村たかし 平成29年 市長選挙マニュフェスト

平成29年 市長選挙 第1次確定マニュフェスト | 減税日本

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名古屋めし・プレミアム小学校給食?

また、このマニフェストにあるように「政令市で最安の給食費」を誇るのであれば、今回の給食費値上げについて「マニフェスト記載事項を守れませんでした」というような謝罪や説明が必要なのではないだろうか?

つまり、ここにも嘘がある。


ちなみに、市長会見で給食費に触れた事はない。
つまり、謝罪はない。

更に言うと、給食の無償化も考えては居ないようだ。

こうしたキャンペーンも行われている。

www.change.org


ちなみに、値上げされる保護者負担金は4,400円。一年で52,800円ということになる。名古屋市内の児童数を約11万5千人とすると、総額で約60億7千万円となる。

60億円程度の予算で名古屋市内の全児童の給食費が無償化できるのだ。

これは、現在行われている、河村流名古屋市市民税5%減税に使われる約150億円や、例えば、いつ使われるかわからない名古屋城天守木造化の木材購入費94億円と比較すると、どちらが有効なお金の使い方か、明白な気がするのだが。



www.facebook.com


*1:一つ例を上げると、こうした「効率化」の方向性として「選択と集中」という言葉があるが、「成果が期待できる研究分野に対してのみ、研究の助成金を「選択と集中」して与える。というのは、「宝くじを買うときには、当たるくじだけを買う」と言っているのに等しい

*2:つまり、自分で説明できないので論点をはぐらかしているに過ぎない

事実に立脚した議論を

伊藤某さんの裁判で判決が出されたようだ。

www.huffingtonpost.jp

こうした問題は微妙な要素があることだろう。
誰も本当のことは判らない。下手をすれば当事者だって判らないんじゃ無いかと思う。

それだけに、訴えた側が主張することが全てであるとか、訴えられた側が一方的に悪いとか。推測でモノを言うことは控えるべきで、そこで迂闊にモノを言うか否かで、その人物の「リアリティライン」が判る。(しかし、山口某の記者会見を見て、少々モノが言いたくなったので、欄外に述べる)

まあ、それでもこうして判決が出たということは、社会的にはこの出来事の、一定の「事実」が認定されたということだろう。(まあ、確定ではないかもしれませんが)

実は私のメモには、この判決期日が記載されていました。
なぜかといえば、この裁判に注目していたからです。

それは、 #MeToo 運動に興味があったからでも、この加害者とされる山口某や安倍首相を「許さない」からでもない。

この裁判で、山口某の代理人を務めているのが、愛知県弁護士会の北口弁護士だそうだからだ!

そして、その北口弁護士こそ、私が関わっている名古屋城裁判(河村城裁判)で、名古屋市側の代理人を務めている弁護士なのである!!


なんでも北口弁護士は、この裁判に絡んで、伊藤某さんへの誹謗中傷をブログに書いて、愛知県弁護士会から「懲戒審査相当」との判断が出されたそうだ。

www.sankei.com

札弁主催のフォーラムに係争中のパネラーがいるから『大丈夫か』と電話をし自分のブログに当時者の主張を投稿し「懲戒相当」となり自分は大丈夫でなかった?愛知の弁護士 – 弁護士自治を考える会

mybouzu.info

北口弁護士はブログ記事で被害女性である伊藤某について「過度に侮蔑的な表現を頻繁に交えながら具体的詳細に述べた」(県弁護士会綱紀委員会)らしいのだが、その理由は「虚偽の事実の宣伝広告によって男性の名誉が毀損されていることに対する正当防衛」なのだそうだ。

う~ん、判らない。

綱紀委は「男性弁護士(北口弁護士)の主張によっても男性の社会的評価はすでに低下しているため正当防衛には該当しない」と判断したそうだ。そうだろうなと私も思う。

これによって、北口弁護士に「懲戒」が出るかもしれない。

北口弁護士ほど "優秀" な弁護士を失うのはなんとも惜しいので、なんとか軽い結果が出てくれることを願ってやみません、ましてやこれを期に名古屋市側の代理人が交代するなどという事がないように、祈っております。

先日、東京の日本ペンクラブでですかね、河村名古屋市長が「あいちトリエンナーレ」の件で記者会見を開いたようですが、この席でも北口弁護士は同席していましたね。(会見後津田っちと名刺交換していたようですが)


なんでも、今回「あいちトリエンナーレ」問題で、これほど河村名古屋市長が発言を続けるのは、後ろに北口弁護士が居て、河村名古屋市長が大村愛知県知事に提出している質問状なども、北口弁護士が書いているという観測もある。

するって~と、ここで

河村たかしの公開質問状について - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

「引用判例を間違えてる」と指摘して、「法学部出身なんだろうか?いや違うだろうね。こんな判例の参照は学部生でもしないだろう。」なんて失礼な事を申しましたが、東大法学部から、最高裁判所研修生であらせられた北口弁護士の書かれた文章であった可能性があるんでせうかね?

まあ、いいや。

さて、ここでちょっとおもしろい情報が私の耳に飛び込んできた。

なんでも、最近トミに「ネトウヨのカリスマ」と目されている高須克弥氏が
自分の私財を全て擲って、大村知事のリコールを行うと主張しているようだ。

大丈夫なんでしょうかね?
高須氏は最近、第二次世界大戦の南方戦線に従軍して、片腕を失う体験をされた水木しげるさんを「落伍兵」と批判して、軽く炎上もしている。

togetter.com

matome.naver.jp


戦争の現場に居たヒトを、平和な後の世から評価するというのは、よほどの根拠がなければできることではないが、「パプアニューギニアの現場検証」をしたからと、その狭い視野の中から水木しげるさんを批判できると思える傲慢さはどこから出てくるのだろうか?(お母様も草葉の陰で心配されていることでしょう)

余計なことをいうと、私は付き合う男性でキャラクターが代わる女性が哀れに思える。
あまりに自我が脆弱じゃないか。ましてや付き合う女性で性格が変わる男性というのは、底が浅いというか、なんというか。まあ、余計なことだった。

この高須克弥氏の私財で大村知事のリコールが行われるとすると、その実現度はどの程度だろう。
愛知県内の有権者数は約620万人。

集めるべきリコール署名数は87万5千人程度となる。
これを2ヶ月間で集めることになる。

ただ、これは住民投票を求める署名となり、本当に知事を解任しようとすれば、その住民投票過半数を獲得する必要がある。もちろん、住民投票の経費は県民の公費となる。

過去に市町村長のリコールが成立した件数は19件だそうだ。住民投票を行ったものの過半数の賛成を得られず不成立だったのは4件で、都道府県知事でのリコール成立事例はない。

こうした住民投票直接民主主義の実現に見えるが、実はそんなものではない。
結果としてポピュリズムの弊害が現れる「プレビシット」にしかならないと、当ブログでは平成23年に指摘しているが、元愛知大学、現在沖縄大学におられる小林武氏も分析をされている。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

住民投票制度のプレビシット的運用⑴ 小林武

名古屋市において河村たかしによって煽られ、実現した「名古屋市議会リコール」が何を生み出したのだろうか?

結果としてくだらない議会劣化を生み出しただけであり、市政の停滞は目を覆うばかりだ。(地域委員会、誤った減税政策、相生山問題、そして名古屋城の問題や名古屋市における学校給食の劣化。それらも問題のほんの一部でしか無い)

そして、その市議会リコールによって集められた署名簿は、流出を起こし、その原因である減税日本河村たかしには反省もない。本当に、市民の署名をなんと心得ているのだろうか。ヒトの心を踏みにじる行為を繰り返して恥じない。

追記:署名簿の流出も大問題だが、その後、問題を報告した後にも、中村孝道元市議の事務所に「放置」してあった署名簿が存在していた。
さらに、署名収集時に、河村事務所において署名簿が1箱紛失していたという事例も報告されている。
また、11万人の署名が無効になりかけた事情は、河村事務所が制度を理解していなかったからであり、その11万人分においてはおおよそ非現実的な主張によって適法と無理強いさせても居る。
さらに、署名収集時の違法行為も複数報告されており、結果としてなんの為の署名であるか理解せずに署名した人々も多い。
この署名簿を作成する際に、河村たかし名古屋市長は氏名と住所だけで十分なはずの記載事項に「電話番号」を加えるように要請したそうだ。つまりは、選挙の際の「電話作戦」に利用しようとしたのだ。
河村たかし名古屋市長の行動は、時に理解しがたく見えるが、「選挙」を軸に眺めてみると、よく理解できる。参議院選挙なども敗北の連続だが、それでも立候補者を立てる。その理由は「選挙」それも「自分の選挙」の為であると解釈すると、合理的な判断であることがわかる。きわめて合理的で、利己的な判断だ。


最近の話題としては、平成28年の4月に議会リコールを求めて署名が集められたようだが、結果としては不発に終わった。もう一度言おう、なんの効果も産まなかった。結果としては参議院選挙に向けての河村たかし一派の選挙に利用されただけだろう。(つまり、リコールの成果や運動そのものはどうでもいい。それによって河村の名がメディアに載り、それによって若干なりとも参議院選挙の票を動かそうとしているに過ぎないだろう)

ichi-nagoyajin.hatenablog.com

河村たかしにとって(知らない間に、敬称を除いていますね、自分)全ては選挙のための行動でしか無い。名古屋城の問題やあいちトリエンナーレもそうだ、それらが問題となりメディアに自分が載ればいいと考えているだけだ。本心では名古屋城を木造化など、実現しようがしまいが関係ないし、あいちトリエンナーレの問題など、何も考えていないに等しい・・・論点が少女像から天皇コラージュにずれていく様子も、何も考えていない証左だ。

河村たかしは、あいちトリエンナーレについて、あれだけ騒いで、では何をどうしたいのだろうか?単に自分が気に入らないということを「気に入らない」と言っているだけに過ぎず、こんなものは大人の、ましてや政治家のやることではない。9歳児の行動だ。

その9歳児の選挙基盤の為に、高須克弥が私財を擲つというのなら、それはそれで見ものだ。残念でしたね、西原さん。ぐらいしか言うことはないだろう。

引っ掻き回される県民こそいい面の皮だが、ネタになるメディアは大喜びだろうし、在特会の周辺組織も喜ぶことだろう。そして何より、この数億円の予算を商売にする者たちは、よだれを垂らして居るらしい。

本当に、河村たかしは、この名古屋に何を生み出したのだろうか。結果として健全な政治や市民運動の基盤を毀損させ、名古屋市の市政から議論を、熟議を奪っている。

そして、その河村たかしを生み出したのは、マスコミであり、有権者だ。

民主主義は、現代社会において最高の制度であると思っている。それは独裁政治や寡頭政治よりも優れているだろう。しかし、時としてその制度が生み出す社会は最低のクズにもなる。つまりは、最高の制度でも、最低のクズを生み出すのであり、制度だけで成果が得られるわけではないという当たり前の結果を目にしているに過ぎない。最高の制度から、最高の結果を得るためには、その制度を有効に「まわす」構成員が必要となるのだろう。

それには、熟議が必要であり、そこから「虚言」を排し、事実に即した議論を行わなければならない。

追記:
札幌であいちトリエンナーレ、表現の不自由展・その後の騒動を踏まえて、企画展「北海道・表現の自由と不自由展」が開催されたようだ。

www.chunichi.co.jp

札幌で「表現の自由と不自由展」 愛知芸術祭踏まえ、21日限定
 愛知県で開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が一時中止になった騒動を踏まえ、身近にある不自由について考えてもらおうと、北海道内の有志でつくる実行委員会が21日、札幌市の施設で企画展「北海道・表現の自由と不自由展」を1日限定で開いた。

 実行委によると、約10団体が参加。元慰安婦を象徴した「平和の少女像」のミニチュアや、7月に札幌市で安倍晋三首相の演説中にやじを飛ばした聴衆が排除された問題を振り返る映像を放映するほか、アイヌ民族の権利を訴える展示も。

札幌で「表現の自由と不自由展」 愛知芸術祭踏まえ、21日限定:社会:中日新聞(CHUNICHI Web)

河村たかしの行動が、「図に当たった」形となってる。
つまり、ああいった「(形式的な)反対行動が」こうした展開を生み出し、こうした展開がまた新たな「反対行動」を生む。問題は拡大、拡散するばかりで、何も解決などされない。
しかし、河村たかしのような扇動家には、こうした状況こそが目的であり、「飯の種」になる。
北海道におけるこうした展示へ「反対」する者たちは、河村たかしを呼んで講演会でもするかもしれない。

反対運動をするなと言っているわけではない。
何が目的であり、その目的のためにはどのような行動をするべきなのか。もっと理性的で民主的な方法を取らなければ、扇動家に任せ、感情の赴くままに動いていては、却って状況は悪くなると言っているのだ。

これは、北朝鮮における拉致被害者の問題にも共通する。
合目的的な行動を、粘り強く続けられる者が、本当の政治家であり、問題を先鋭化し、対立を深めさせ、解決を遠のかせるものは、政治家ではない、単なる扇動家に過ぎない。




欄外に述べるいいたいモノ:

この出来事について、具体的にアレコレ推測でモノを言う気はない。
私の目の前に見えた、加害男性とされる山口某について言いたい。

覚悟がなさすぎる。

取り敢えず、「ヤルことはやっちゃっている」ってのは認めているようだ。

よしんば、「ハニートラップ」であったとしよう。
しかしそれでも、その判断をしたのは誰か。自分ではないのか?それならば、その結果を引き受ける以外にない。

ヤルことをヤルっていうことは、その人物に人生なり、命なりをかけるってことだろう。

こんな事言うと、あまりに「重い」とか「ガキ臭い」と言われるかもしれないけれども、例えば異性を一時の性欲を晴らす「道具」のように扱うということは、その人物はその程度の人物であるという事だ。その評価を甘んじて受け入れなければならないだろう。

こうした事情には、男女で明白な相違がある。
やっちゃった結果、女性は人生を左右する結果(妊娠→出産)を引き受けなければならない可能性がある。

ならば、男性も同等の結果を受け入れる覚悟がなければ「手を出す」べきではないだろう。その相手とともに、或いは地獄の業火に突き落とされても仕方がないというような覚悟がなければ「手を出す」べきではない。地獄の業火の覚悟があるからこそ、天国の愉楽を味わえられるのだろう。一瞬の天国の愉楽のために、永遠の地獄の業火を厭わない。その決断の瞬間こそが、最高のエロティシズムの筈であって、これを乗り越えない人物には、ヒトとして人生に用意されたエロティシズムを味わうことはできない。

自分の判断を受け入れ、その責任を引き受けることこそが「自由」なのであって、事が至って責任を求められた時に、それを回避するのであれば「放佚」でしかなく、自由を享受することはできない。言葉を替えるのなら、様々な関係の束を失うかもしれない。そうした事を自覚しつつそれでも決断をするから行動を味わえるのであって、決断にまつわるこうした関係を無視し、耳をふさぎ目を閉じてしまうのであれば、同時に行動に伴う享受も受けることはできないのは当然だ。自由と放佚の差はここにある。

こうした覚悟の自覚がない。覚悟の自覚がないもの、自我のないものの主張は聞くに値しない。山口某の髭面もスケベ臭かったが、その髭をそったのっぺりした面が、なんともこの覚悟の無さを表しているようで、日本の文化を浅くしているように思えてならない。

恥知らずが多すぎる。


虚言を並べるものに、公職者たる資格はない

名古屋市河村たかしには、問題を解決するという能力がない。いや、そもそも、課題が与えられても、それに取り組むという習慣がない。問題を誰かに丸投げするか、課題から逃げ回ることしかできない。

つまり、名古屋市河村たかしは無能であり、不誠実だ。
そして、口を開けば嘘ばかりを並べる。つまり、事実と異なることばかりを口にする。

現在、「あいちトリエンナーレ」問題で、全国的に注目されているようだが、その結果は全国的な失望に変わるだけだろう。どうぞ、どんどん持ち上げてやりなさい。

南京発言問題

名古屋市河村たかしが「なんちゃって右翼」っぽい言動で持て囃された事例に「南京問題発言」というのがあった。
平成24年2月20日名古屋市を訪れた中国共産党南京市委員会の表敬訪問団との会話の中で「南京事件というのは無かったのではないか」と発言し、騒ぎとなった。国内の右翼勢力から支持されて、支援会合が開かれたり、中日新聞に意見広告が掲載されようとした(そして、それを中日新聞が蹴って騒ぎになったりした)わけだ。

本人は「南京事件は無かった」などとは言っていない。「いわゆる南京事件というのは」と言ったなどとトーンダウンしており、「否定発言をしたと伝えたマスコミが悪い。伝え方に曲解がある」というような発言もした。

これも責任回避であり嘘だ。

その為、現場を取材をしていた「メ~テレ」が素材動画をノーカットで掲載した。(今は、引っ込めているようだ)
私はその動画をダウンロードしているのだが、それをそのまま掲載することは著作権上の問題があるのでできない。
しかし、書き起こしであれば掲載可能だろうと思い、できるだけ正確に書き起こして掲載している。

南京問題発言の検証(前編) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

「いわゆる」などという表現は使われていない。明白に南京事件を否定している。
さらに、恥ずかしいことに「通常の戦闘行為はあるけどね」などと意味不明の事を口走っている。*1

そして名古屋市河村たかしは「議論をしたいのだ」などと空々しい事を言いつつ、市民団体などが主催した議論の場には出てこない。挙句の果ては「回答」を役人に丸投げする。*2

南京事件について議論をしない河村たかし - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

卑怯者、という言葉しか浮かばない。

名古屋市河村たかしは卑怯者である。

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卑怯な在特会のお友達 河村たかし

そして繰り返される嘘

さて、私は11月28日に中村文化小劇場で行われた「名古屋城市民説明会」に参加した。

この席上「2022年12月の竣工予定が守れなかったら、市長は切腹と言われた。その責任はどうするのか」と質問が飛んだ。当然の質問だろう。

そうしたところ、名古屋市河村たかしは、「2022年12月の竣工予定が守れなかったら、切腹だなんて言っていない。木造化ができなかったら切腹と言った」と回答した。

これも嘘だ。

平成31年4月1日 市長定例記者会見

(記者) 市長はどうなったら切腹ということですか。
(市長) そんな変なふうになったらですよ。これは本当に木造がつくれんようになって、何かわけがわからんということでとめられたりしたら。それはそういうことじゃないですか。
(記者) 別に間に合わなければという意味ではないということですか。
(市長) 間に合わなければも同じですよ。同じですよ、そんなの。
(略)
(記者) 切腹関係の確認なんですけど、2022年の12月末の今のスケジュールに間に合わなかったら、もっと近い日付で言うと、今年5月の文化審議会での審議で、答申までいかなかった場合は、ご自身を含め関係者の方が責任をとられるという。
(市長) 責任をとったって何もならへんでしょう、これは。つくるほうが大事なんで。そうでしょう。そんなん誰かが辞めて済むような話じゃないでしょう、これは。物をつくるんですから。普通の何か、この間、財務省がいんちきの報告を書いたとか、ああいうのは誰か責任をとらないといけないけど。これは違いますので、それは相当の決意を持っているということです。それを伝えてもらわなければいかん。文化庁に言ってありますけど私、ちゃんと。
(記者) 切腹とは、どういう行為を指すのでしょうか。
(市長) そんなものは自分で考えちょうだい。切腹もんだぞと。
(記者) それぐらいの強い意思で臨んでいますよという。
(市長) ああ、そういうことです。そういうことですよ。本当にこれ3億2,000万円も集めてですよ、小学生に10円募金でもしてもらってですよ、これ。実はプロセスが間違っていましてすみませんなんて、とんでもない詐欺になっちゃいますよ、そうなったら。本当にこれ。名古屋市を挙げて詐欺をしたのかということになりますよ、これ。違いますから、本当に。

名古屋市:平成31年4月1日 市長定例記者会見(市長の部屋)

「間に合わなければも同じですよ」と自分で言っているじゃないか。

名古屋市河村たかしは無能であり、不誠実であり、卑怯だ。


「あいちトリエンナーレ」の問題で、名古屋市河村たかしを持ち上げている方々。例えば少女像の問題にしても、こんな人物に何を期待しているのだろうか。日本国内の嫌韓派が少女像を嫌い、ことさら(嫌がらせのように)旭日旗を振り回せば、韓国国内の反日派が勢いを増す。両国の国交が困難になればなるほど、日本国内の嫌韓派、韓国国内の反日派という、敢えて言えば「歪んだ政治勢力」に力を与え、彼らの商売を繁盛させるだけだ。そして、問題がいよいよ困難になれば、この人物は一目散に逃げていく。

名古屋市河村たかしの言動で、世界中にばら撒かれている「少女像」について、それが一体でも減るということがあるのだろうか。彼の言動は単に、居酒屋でクダをまき、一時のウサを晴らす効果ぐらいしか無い。そんなものは政治ではない。単なるショーだ。

虚言を並べるものに、公職者たる資格はない

国政においては、政府主催の「桜を見る会」が「詐欺商法」に利用されていたのではないかという疑いまで飛び出している。「詐欺商法」を規制する消費者庁の活動に、政治が介入し、その被害を拡大させていたとするならば、こんな破廉恥なことはない。恥を知るものであれば、自ら身を引くだろう。そうした判断もできないような者が、国の舵取りをしているのであれば、この国の先行きなど危うい。

そして、政治的思惑から、こうした問題に対して批判を加えないとするならば、その感覚は「歪んでいる」

政治家が自らの後援者を接待し、飲食を提供していたとするならば、その飲食の提供が私費であっても、現在の選挙制度下ではアウトだ。ましてや国の公費を使って行われている行事を使って飲食を提供するなど、けじめのなさも極めつけ、無節操にも程がある。公費を預かる資格はない。首相官邸内閣法制局内閣府、安倍事務所、そして自民党。誰か疑問に思わなかったのだろうか?疑問に思っても声を上げられなかったのだろうか?

そこが問題だろう。

現場や末端が「おかしい」と思うような事が、堂々とまかり通る。先の大戦で、「大日本帝国」という国が亡くなった背景には、誰が見てもおかしな判断が、堂々とまかり通ってしまった「狂気」がある。誰が見てもおかしいと判るべきことが判らなくなる。「これはおかしい」と思った者が声を挙げられなくなる。声を挙げても集団に圧殺されていく。こうした集団、組織、社会、国の行く末が危ういのは、誰が見ても明白だろう。

名古屋市を挙げて詐欺をした」

「実はプロセスが間違っていましてすみませんなんて、とんでもない詐欺になっちゃいますよ」
名古屋市を挙げて詐欺をしたのかということになりますよ」

どちらも名古屋市河村たかしの発言だ。現に今事業が頓挫しているのは、プロセスが間違っているのではないのか。
なら、「とんでもない詐欺」なんじゃないのか?

「3億2,000万円も集めてですよ、小学生に10円募金でもしてもらって」その過程に嘘があれば

名古屋市を挙げて詐欺をした」のではないのか?

名古屋城天守を木造化すれば「国宝になる」だとか「世界遺産になる」と発言したのは誰だ。そしてその発言の根拠はなんだ?

厳然たる事実の提示

厳然たる事実の提示として、以下の資料から引きたい。

平成29年12月8日 文化審議会 第一次答申
文化財の確実な継承に向けたこれからの時代にふさわしい保存と活用の在り方について」
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/sokai/pdf/r1391804_01.pdf


史跡等における歴史的建造物の復元の在り方に関するワーキンググループ 令和元年8月
天守等の復元の在り方について(取りまとめ)」
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kondankaito/shiseki_working/pdf/r1411441_08.pdf

文化審議会の第一次答申が平成29年12月8日。
復元ワーキンググループの取りまとめが令和元年8月であることには、特に注意が必要だろう。

なお、残存する遺構は再現不可能な貴重な遺産であるため、再現に当たって、史跡等の遺構を破壊しないということは前提であり、再現の検討に先立って、遺構への影響について検証しておくことが必要である。

天守等の復元の在り方について(取りまとめ)」pp.3

https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kondankaito/shiseki_working/pdf/r1411441_08.pdf

つまり「残存する遺構」である石垣、及び堀を蔑ろにした現在の名古屋城天守木造化計画は、そのプロセスの起点で間違っていたということだ。

4.再現された歴史的建造物について
(1)再現された歴史的建造物の価値について

史跡等において再現された歴史的建造物は文化財保護法上直ちに文化財として扱われるわけではなく、史跡等の文化財に準じた、価値を伝えるための手段(プレゼンテーション)としての複製品(レプリカ)と捉えられる。
(略)

天守等の復元の在り方について(取りまとめ)」pp.9

https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kondankaito/shiseki_working/pdf/r1411441_08.pdf

つまり、再現された歴史的建造物を「本物」と言ってみたり、ましてや「国宝になる」「世界遺産になる」などと虚言を弄して金員を集めるのであれば、それは重大な嘘だ。「小学生に10円募金でもしてもらって」その虚偽性を恥じないのであればヒトとして疑う。

「3.文化財の魅力の発信強化や先端技術との連携」

史跡における復元建物は,史跡の本質的な価値を構成するものではないが,その価値を広く知ってもらうためのものであり,適切に行われるのであれば,文化財の積極的な活用に資するものである。例えば史跡に存在する鉄筋コンクリート天守の強度の問題や,天守復元の動向など,地方公共団体の実態を含め全国的な動向を把握した上で,復元建物の在り方について積極的に調査検討することが必要である。

文化財の確実な継承に向けたこれからの時代にふさわしい保存と活用の在り方について」pp.22

https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/sokai/pdf/r1391804_01.pdf

「適切に行われるのであれば,文化財の積極的な活用に資するものである」
現在の鉄筋コンクリート製の名古屋城天守こそ、この言葉にふさわしいものではないのか?

3.「復元」に合致しない、現存しない歴史的建造物の史跡等における再現について
(1)意義

個別の事案によって意匠・形態の詳細な部分の忠実度や整備手法は多様であるものの、「復元基準」にいう「復元」に合致しないものも含めた再現により、史跡等の魅力向上等に繋がっている例があることなどが確認された。

天守等の復元の在り方について(取りまとめ)」pp.4

https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kondankaito/shiseki_working/pdf/r1411441_08.pdf

現在の鉄筋コンクリート製の名古屋城天守はこの基準で言う「復元」ではない。
外観の再現でしかないかもしれない、しかし毎晩のように隣接するホテルが、夜間にわざわざ投光機によって夜景を顕している。優れた外観復元は名古屋市民の誇りであり、様々に引用されるその姿こそ名古屋のシンボルそのものである。60年以上の永きにわたって、これほど「積極的な活用」をされた文化財はないだろう。

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(2)再現された歴史的建造物の評価の在り方について

歴史的建造物の再現には、質の確保が必要であり、このため、例えば、以下のような仕組みについて検討すべきである。
利活用等の観点から再現された歴史的建造物について、再現後数年間が経過した後に評価する仕組み

天守等の復元の在り方について(取りまとめ)」

https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kondankaito/shiseki_working/pdf/r1411441_08.pdf

文化財の重みは、時の重みだ。
半世紀以上、60年の永きに渡って守り続けられてきた現在の鉄筋コンクリート製の名古屋城天守
一体誰が、これを壊そうというのだろうか?

それは本当に、真っ当なことなのか?

もう一度問おう。

誰が見てもおかしいと判るべきことが判らなくなる。
これはおかしいと思った者が声を挙げられなくなる。
声を挙げても集団に圧殺されていく。
こうした集団、組織、社会、国の行く末が危ういのは、誰が見ても明白だろう。


*1:南京事件について知っているものなら常識だが、旧日本軍の起こした南京事件は、当時の中国政府の首都である、南京に日本軍が入城した以降に行われた「逸脱行為」を言うのであって、侵攻した先の首都が陥落し、政府組織が瓦解していたわけで、もはや通常戦闘行為などない。元々邦人保護を名目に上海に入った日本軍は、内陸に侵攻する予算を獲得していなかった(こうした兵站の軽視、ロジスティックの無視は、この戦争の端緒でこのようにすでに見られ、戦争の至るところで散見され、そして、呆れたことに現在に至るまで続いている)。そのために、食料等を「現地調達」つまりは、略奪を繰り返しながら侵攻を続け、遂には首都南京まで陥落させたのであって、こうした「通常戦闘行為」の中でも逸脱は繰り返され、近代戦では当然とされる、現地住民の保護(つまり、侵略者が現地住民に略奪、暴力を奮えば、現地住民の反発を生み出し、統治コストが嵩む)を無視していたわけで、こうした非文明的な旧日本軍の姿勢が、やがて日本自体を苦しめ、敗戦に至ったわけであって、こうした事実に対して、批判し、反省を行わないのであれば、また、この国は同じ過ちを繰り返すのだろう。

*2:市の公式見解でないのなら、政治家河村たかしが責任と信念を持って回答し、議論の矢面に立つべきではないのか

令和元年12月5日午後3時、名古屋地方裁判所1102法廷の風景

名古屋城住民訴訟(正確には、平成30年(行ウ)第124号 名古屋城天守閣整備事業における基本設計代金の支払いに対する返還請求、及び同事業の差止請求事件。またの名を「河村城要らない訴訟」)の第5回公判が行われました。

・会のHP
peraichi.com

かねてから情報公開された基本設計図書について、「全証拠を提出しろ!」という意見もあり。また、後述するような事情*1で、「竹中提案書も証拠提出しろ!」という意見もあり、また、被告名古屋市側が「保存活用計画」について言及してきたことを受けて、それへの反論のために「保存活用計画」の全ページと、問題となった保存活用計画に対するパブリックコメント(たった一ヶ月あまりで非開示となり、情報隠蔽が指摘された)も証拠提出したために、甲号証だけで3000ページに迫る勢いです。

ちょうど、アスクルのA4コピー用紙の箱があふれるぐらいの量となっています。
(これを裁判所向け、被告向け、原告控えと3部用意するのですから「裁判とは肉体労働だ」ってなもんです)

・24号証
https://drive.google.com/open?id=1eRXwl_GXCR8_kgghHtvPwgmCuQFURDvB

甲第24号証-0  名古屋城天守閣整備事業基本設計その他業務委託 行政文書一部公開決定通知書(PDF)
甲第24号証-1 名古屋城天守閣基本設計業務 基本設計説明書(PDF)
甲第24号証-2 B:石垣現状調査等(PDF)
甲第24号証-3 名古屋城天守閣整備事業基本設計その他業務 石垣測量(PDF)
甲第24号証-4  名古屋城天守閣整備事業基本設計業務 調査業務(PDF)
甲第24号証-5 積算(PDF)
甲第24号証-6 名古屋城天守閣整備事業基本設計その他業務 地盤調査報告書(PDF)
甲第24号証-7 名古屋城天守閣整備事業基本設計業務 施工技術検討業務 関係法令等行政手続き(PDF)
甲第24号証-8 名古屋城天守閣整備事業基本設計業務その他業務 関係法令等行政手続き 天守閣部会 議事録 (1)(PDF)

・竹中提案書
https://drive.google.com/open?id=14xywXKq0I6BeZnTFAN2g-Oi7dRXvyQ6z

甲第25号証 名古屋城天守閣整備事業 技術提案書 竹中工務店(PDF)

・2万人アンケート報告書
https://drive.google.com/open?id=1cLlwxoE216IKWcqRg2D-PHRhCNwuSPhX

甲第27号証 名古屋城天守閣整備検討「名古屋城天守閣の整備 2万人アンケート」報告書(PDF)

・保存活用計画、乙号証、甲号証
https://drive.google.com/open?id=1IvWN62knQo3ZcEPUXcCdv6WNg6THAIlY
https://drive.google.com/open?id=1vCJw7dRngzNbO5HgT-NYrTnW1yr4O5QW

乙第19号証 特別史跡名古屋城跡保存活用計画(抜粋)(PDF)
甲第26号証 特別史跡名古屋城跡保存活用計画(全文)(PDF)

・保存活用計画、パブリックコメント
https://drive.google.com/open?id=11VaqgH1oA0gQe-UuuhQQbSWVjSUzIbTh

甲第30号証 特別史跡名古屋城跡保存活用計画(案)に対する市民意見の内容及び市の考え方 平成30年5月(PDF)

これで名古屋城天守木造化計画について、業者の募集(要求水準書)から、基本設計に係る文書、2万人アンケートや保存活用計画まで、殆どの文章が公判に示されたことになります。

名古屋市オンブズマンが、並行して情報公開を論点として裁判を起こしており、そちらは主に文化庁とのやり取りに係る文書の情報公開であるようなので、それとセットで捉えると、名古屋城天守木造化事業の異常さが浮き彫りになるのではと思えます。

名古屋市オンブズマンお城関係ページ
http://www.ombnagoya.gr.jp/tokusyuu/goten/index.htm

テレビなどの裁判シーンでは、原告、被告の代理人(弁護士)が丁々発止の議論を展開しますが、一般的な日本の裁判では、こうした議論は「文書」で行われます。双方が互いに文書によって主張を展開するので、ああいったドラマに出てくるような議論のシーンは見られませんし、公判と言っても、たいていお互いの文書のやり取りが正常に行われたかの確認と、次回期日、スケジュールの調整だけ話し合われるので、傍聴していても面白くありません。

しかし、今回は少々違っていました。

まず、そこそこ私たちの「準備書面(2)」(主張)が、名古屋市に対して危機感を呼び起こしたようで、それまで3人程度の職員が傍聴していたに過ぎませんでしたが、今回はそれが7人に増えました。

現在、国会において、いわゆる「桜の会」問題から波及した「ジャパンライフ消費者庁」問題の追求がなされており、ここで原口一博代議士が、「職員に対して、被告であるかのような追求はしない、職員も職務として行ったことであって、被害者なんだ」というような主張を繰り返していますが、私も同様に思います。

名古屋城天守木造化を進めている観光文化交流局の職員も、名古屋城総合事務所の職員も、本気で天守を木造化したいとは思っていないでしょうし、ましてや違法行為を行ってまでこの事業を進めたいとも思っていないでしょう。

インパール作戦戦艦大和の査定、沖縄戦、そして何より真珠湾攻撃

後から考えてみれば無謀でバカな作戦。しかし、組織や集団という「たこ壺」の中にいると、その異常性に気が付かない。その時大切なのは、深い知性と、自分自身をも否定できる勇気、決断力です。

軽佻浮薄に時流に流される、付和雷同に乗って、自分自身正しいのか間違っているのか判らないような流れに巻き込まれる。そうではなく、しっかりとした根拠と信念を持って、左右どちらへ舵を取るのか。その竿先が川底を捉えるのか否か。それこそ職業人として、プロとして、自身のレーゾンデートルを捉えているか否かの問題となる。全体の奉仕者として、公務に就くのであるなら、その川底は首長ではない。市民である。
それも、今、生きている市民だけではない、今のこの街を作った先人たちであり、自分たちがこの街を残す子どもたちや、まだ生まれていない市民たちだ。そうした人々のために、全体の奉仕者は居るのである。「たこ壺」の中で視野狭窄してはならない。

今回の第5回公判で、私は余分なことも書いた。どうせと思って好き放題書いた。2万人アンケート、保存活用計画、そしてそのパブリックコメント隠蔽問題。すべて書いてやった。これ以上名古屋市側が余分な事を書くのであれば、なんなら議会リコールやら減税政策、地域委員会にも言及したって良い。つまりこれらは現在の名古屋市の信憑性への否定であり、河村たかしの嘘に発した、名古屋市そのものへの懐疑を顕すからだ。

何を論点として持ち出してきても、最後にはその事柄に対する矛盾点を明示してやる。その矛盾点の明示は被告としての名古屋市の発言、釈明への最大の攻撃となるだろう。

名古屋市が自身で「検査」を行っていないことを告白し、監督だけでよいと誤認していた。監督だけで完了の確認として、支出命令を行っているとしたら、明白な規則違反、違法行為である。

今回の裁判で注目したいこと。

名古屋市職員が7人も詰めかけたこと(すでに述べた)
・またまた1時間に及ぶ公判となったこと
代理人弁護士が、傍聴席に居る名古屋市職員の意見を3度も確認するという行為に出た
・裁判長が、陪席判事とともに一旦休廷し、合議に入った(約10分程度)
・最後に裁判長より、次回公判に向けて名古屋市代理人弁護士へ質問事項が告げられた

これについて、正確には文書が提示されるそうですが、私がメモをした内容では。

1.名古屋市文化庁に申請書を出したというのであれば、その立証をしてください
2.3月28日の市の職員の発言にある「未完成の基本計画書」と納品物の「基本計画書」の相違を立証してください
3.基本計画書が基本設計説明書の一部として納品された理由を明示してください
4.要求水準書の1,2章と3章が異なるとされる立証をしてください

(追記:「名古屋地方裁判所から12月16日、被告宛に提示された質問。」として下記)

つまり、すでに「スケジュール感」なんて概念はどうでもよくって、「基本計画書」は名古屋市も納品物として必要と認めてしまったのだから(だから、基本設計説明書の中にあるなんてわけのわからない説明をしてしまった)この「基本計画書」が存在していなければ、基本設計は欠品があり、その欠品を「検査」しなかったために見逃してしまった。

ということになるのではないのですかね?



北区にある「北生涯学習センター」で「名古屋城有形文化財登録を求める会」の月例勉強会を開きます。

   12月11日(水)18:30~20:30 第3集会室

※どなたでもご参加いただけます、参加費無料。

ここに書けなかった事も話します。



良記事

headlines.yahoo.co.jp



追記:

名古屋地方裁判所から12月16日、被告宛に提示された質問。

(1) 「各階各室面積表」の提出の有無に関し,乙20は,各階の面積が記載されていることはうかがわれるが,各室の面積が記載されていることに関する説明。

(2) 文化庁長官に対する文化財保護法125条1項に基づく現状変更許可の申請の申請 書類が竹中工務店から納品されていることの立証を,基本計画書の提出立証と同じようにしてもらいたい。
具体的には,甲10の番号15,.35,34の中身が,申請書類であることがわかるように部分開示をしながら主張して欲しい。

(3) 平成30年3月28日の,事務局において基本計画は策定中であり,同年7月に完 成する趣旨の発言(甲21【10頁)。以下「蜂谷発言」という。)における「基本計画」(被告において文化庁基本計画書と定義されたもの)が,委託仕様書(甲6) における「基本計画」と異なること(答弁書10頁)に関する主張立証。

(4) 委託概要書(甲5)において,成果物として提出されるべきものとして,基本設計説明書と基本計画書が分けて記載されている(前者は5項(1)),後者は5項(1)ク)) ところ、納品に当たっては前者に一本化されている。その理由について。

(5) 要求水準書(甲1)の第1及び2章が義務でなく,第3章は義務であることに関し,原告の反論に対する再反論。

(6) 基本計画書に関する原告の主張は,次のとおりであるところ,これに対する反論

ア 本件基本設計契約において,竹中工務店は,基本計画書を提出することとされているが,提出されていない。 このことは,蜂谷発言があり,同時点において基本計画が策定されていない以上,同月30日に基本計画書が完成しているはずがないことから明らかである。

被告は,「基本設計説明書」(甲17)として提出されている旨主張するが, 委託概要書(甲5)において,基本計画書と基本設計説明書とは別のものとして規定されているのであって,提出されるべきは「基本計画書」であるから,成果品目録に基本計画書がない以上,提出されていないと考えるべきである。

イ 仮に,「基本設計説明書」が基本計画書だとしても,次の理由により,基本計画書として不十分である。

(ア) 基本計画書には,文化財保護法125条1項に基づく文化庁長官に対する現状変更許可申請の申請書類及び文化審議会に提出されるべき申請書類が含まれなければならないにもかかわらず,これらが含まれていない。

(イ) 基本計画書の作成に当たっては,後に建築審査会の同意等を要する以上,技術提案書 (甲25)のとおり,文化庁との協議,消防協議,建築指導課との協議を経ていることを要するところ,これがされていない。

(7) その他,後に送付する裁判所による主張整理案において,被告において,反論の補充を要すると考える事項


*1:書き漏らしましたが、竹中提案書は証拠物件としては弱いと思っていましたが、「基本計画書」の定義については、非常に効果があったようです。裁判中「0フェーズ」という言葉が飛び交っていました

名古屋市は名古屋城裁判において自らの違法性を告白している

12月5日追記:
公判が行われましたので、準備書面を公開します。

https://drive.google.com/open?id=1VUphyoD2kJ8l_ds7oWT-cH9YGhaaK_bl
証拠文書等
一般公開フォルダ - Google ドライブ
https://app.box.com/s/ff3ykt80mtkbmfcvoo27khekujr296id


12月5日に名古屋城住民訴訟の第5回公判が行われます。(午後3時、名古屋地方裁判所1102法廷)

bit.do

1、2回公判において私たち原告住民側の訴えが整理され、3、4回公判において名古屋市側の答弁が行われ、両者の主張が出そろった段階での私たちからの反証の番です。

そもそもこの裁判は、平成30年3月30日に名古屋城天守閣木造化事業を請負っている事業者から納品された基本設計業務について、その内容が揃っておらず、基本設計が完成していない。業務完了をみないままの代金の支払いは違法である。との、住民監査請求に引き続いての住民訴訟となります。

河村たかし名古屋市長が「命をかける」とまで明言しつつも、とん挫している事業だけに、この住民監査請求においても非常に珍しい(名古屋市においては初の)「合議に至らず」という結論になるほど、灰色の代金支払いでありました。

名古屋市において、これだけ騒がれている事業であり、住民監査請求でこれほど珍しい判断が出ているにも関わらず、市民の関心は低いままです。その理由は簡単でしょう、中日新聞が書かないからです。この裁判で、ひょっとするとひょっとするような結果になるかもしれませんが、その時にも中日新聞は書かないつもりでいるんでしょうか。それならご立派です。特落ちしたいということなら、特落ちすればいい。(東京新聞がすっぱ抜いたりしてね)

12月5日の公判における原告側からの主要な指摘事項は次の3点であり、これらが認められれば、基本設計代金の支払いの違法性が立証されるものと思われます。

この中で被告、名古屋市河村たかしは、基本設計代金の支払いが違法であることを告白しています。

§1.要求水準書に記載された条件が満たされていないこと
§2.基本設計業務として求められている基本計画書が存在しないこと
§3.検査が行われていないこと

§ 1.要求水準書に記載された条件が満たされていないこと

名古屋市は、要求水準書に書かれた。

「②木造復元に際し、実施設計に着手する前の基本設計の段階において、文化庁における『復元検討委員会』の審査を受け、文化審議会にかけられる」

という条件を、「スケジュール感」を表したものに過ぎず、「契約や設計に係る条件、水準を一般的・抽象的に示したものに過ぎない」と主張していますが、要求水準書の他の記載などと照らし合わせてみても、その主張に正当性は見られません。

要求水準書( https://drive.google.com/open?id=1QfTcew8KM7AmY_q6PBTZ1eouct6hW6yz )
https://app.box.com/s/gcxzbw0zxrhf2mmu259n2at4mozguona


被告書面(3)( https://drive.google.com/open?id=1uspTrxc9SCfP0sjKWYhIlctoTnBguBg1 )
https://app.box.com/s/4q8tx22y74524f0uly7rn1idembmaav4

被告書面(3)の第3

-- 再参照先 --
→ 被告書面(2)第1の1(p.2)
→ 被告答弁書第3の2(3)(p.5)
→ 被告書面(2)第1の2(p.2) (文化庁の内部手続きだから、受注者の債務ではないこと)

ここで名古屋市は次のように主張します。

「要求水準書の第1章及び2章は受注者が履行すべき義務を定めたものではなく、一般的・抽象的な条件、水準を示したものであり、第3章は受注者が履行すべき義務を定めたものである。」

1、2章と3章を分けた理由は、3章の中に「(1) 受注者の役割(適切なプロジェクトマネジメントの実施)」の記述があり、そこに

① 受注者は、提案事業費と完成期限を遵守し、本施設を本業務要求水準書及び技術提案書のとおりに完成させるため、施設整備を実施する設計、施工の段階において十分に能力が発揮できるように体制整備を図る

つまり「本施設を本業務要求水準書及び技術提案書のとおりに完成させる」という「受注者の役割」が明記されているために、それを3章にだけ係るものであって、1、2章に対してはかからない。と、解釈させようとしているのでしょう。けれど変な主張です。

例えば、第2章の第3節には「関係法令の遵守」が掲げられ、「本事業の実施に当たっては、適用を受ける関係法令等を遵守しなければならない」と明記されているのですが、これを「義務」ではなく「一般的・抽象的な条件、水準」であると主張されても、その「義務」と、「条件、水準」の相違が私にはわかりません。

被告書面(2)( https://drive.google.com/open?id=11i0jiwCA26m8bSpP6WCsLT2_asAiF5Lq )
https://app.box.com/s/mhwju61oghxhrw4cap1ys765fji1865m

被告書面(2)第1の1(p.2)

「発注者である名古屋市が受注者に対して要求する水準その他の事項を定めている」

「このように、当該方式における「要求水準書」の位置付けは、受注者が履行すべき義務や満たすべき要件を具体的に定めたものではなく、あくまで受注者に対して実施を要求する業務の概要や必要最小限の業務の範囲、契約や設計に係る条件、水準を一般的・抽象的に示したものに過ぎない。」

名古屋市は主張しますが、上に続く要求水準書の第4節の「1.敷地条件」には、「具体的」に地図を描いて敷地を示していますし、「(2)法規制」では、関連法令を「具体的」に示しています。

今回問題となっている文章は「第2章 業務の概要及び計画条件」の「第4節 敷地に関する事項」の「1.敷地条件」の「(6)特別史跡における条件」の中の「その他、下記事項による」とされる項目です。つまり「計画条件」の「敷地条件」の「特別史跡における条件」を記載している事項であって、「受注者が履行すべき義務や満たすべき要件」ではないとするには無理がありすぎます。

また、名古屋市は被告書面(2)第1の2で「文化庁の内部手続きだから、受注者の債務ではない」と主張しますが、要求水準書には予め「第1章 総則」の「第3節 要求水準書の変更」の中に「(5)関係法令等を所管する機関との調整・協議において変更が必要となったとき」「要求水準の変更を行うことがある」としており、実際に今回のように文化庁への提出書類が整わなかったのであれば、全体の納期を遅らせるなり、納品物から除外する(もちろん、除外した変更契約の手続きと、どの時点で納品がなされるかの明記が必要。納品されないのであれば業務量自体の変更があったのであるから、請負代金の見直しも当然に必要となる)なり、対応は有ったはずだ。そうした手続きを取らずに単に欠品したまま、その欠品を無視して納品を受け入れるなどということが有ってはならない。

(ここから先は、裁判では主張しませんが)

結局、2月末の納期を1月遅らせて、期末ギリギリにした。それでも納品物は揃わない。
竹中工務店としては、基本設計業務の延長を待っていたのではないかと思う。(原告準備書面でも書きましたが、今回、基本設計図書を大量に証拠提出した理由の一つは、その「タイトル」がバラバラであることを示したかったから。各書類のタイトルがバラバラで、竹中社内の納品チェックも満足にされず、関係文書をかき集めた印象がある)
竹中社内では、納品の延長方針でいたものを、名古屋市のというか、河村たかしの政治的思惑、つまり計画が順調に進んでいるかのように市民に見せる必要があったから、急遽関係文書をかき集めて納品した格好を付けたのだろう。
だから担当職員が「まだ検査をしなければなりませんから」「でも、納品として受け取りました」という発言になったのだろう。
そして、手続きをすれば年度をまたいで納品確認、支出命令もできるにも関わらず、そうした納品確認もせずに、即座に出金命令を出して支払いまでしてしまったとすると、法令遵守の姿勢まで緩んでしまったことになる。それは元々「基本設計業務の年度内完了」という大前提自体が、市長河村たかしにおける「政治的課題」であったからで、いよいよ市長一人が責任を負うべき事柄だろうと思われる。それなのに、被告答弁書で市長の責任回避を狙い、担当職員だけに責任を被せるかのような主張があることは、この人物の醜悪さが現れている。

一般的な業務で、職員の懈怠によって地方公共団体が損害を受けた場合、その責任を無条件に首長に求めるのは過酷すぎるだろう。監督責任とはいっても自ずと限界がある。しかしこれは市長自らの「最優先事業」であり、職員に異常なプレッシャーを与えている事業である。以下に述べるような違法な行為もその全責任は、指示書にあるように河村たかし個人にあるだろう。

指示書 ( https://app.box.com/file/775761247282?s=3r64ksgrj3qxaql3zsd0vzmmlzr658ll
 )

§ 2.基本設計業務として求められている基本計画書が存在しないこと

名古屋市は被告書面(2)において、

被告書面(2)( https://drive.google.com/open?id=11i0jiwCA26m8bSpP6WCsLT2_asAiF5Lq )
https://app.box.com/s/mhwju61oghxhrw4cap1ys765fji1865m

「基本計画書」が「基本設計説明書」に含まれていると主張していますが、基本設計説明書とは、基本設計における図書全体の説明をするもので、どういった項目があるかについてすべてを説明しています。(当然、中身については当該箇所に任されて基本設計説明書内にはありません)

「基本計画書」とは、そもそも文化庁、復元検討委員会の審査に供するものであって、そこには様々な関係法令に準ずる手続きや、各行政手続き、またはその準備としての協議が必要となります。これが欠落した基本計画書はあり得ませんし、成果物一覧にも記載されていないこと、並びに。

3月28日の有識者会議において、名古屋市当局自身が「基本計画書の完成は7月になる」と報告していることから、基本計画書は無いと断ずる以外ありません。

「基本設計説明書」に項目として「基本計画書」の構成要素の、それも一部が掲載されているからと言って、「基本計画書」そのものが納品されているとする説明は完全に虚偽です。(裁判ではここまで決めつけて言いませんが)

§ 3. 検査 が行われていないこと

被告答弁書 ( https://drive.google.com/open?id=1yP59x0ube-Q6jk5lqAtK9DMYBDAC4Jpp )
https://app.box.com/s/ut24aqso3f1wpgzyvszneepqhqesqdw1


第4  被告「名古屋市長」及び被告「名古屋市」の主張について
 →2 基本設計代金に係る支出行為の適法性(請求の趣旨第1 項)について
 →→(2)  財務会計上の行為の適法性
 →→→イ  監督(p.18)

において、名古屋市側弁護人は次のように主張しています。

「法第234 条の2 第1 項において、職員は、契約の適正な履行を確保するため又はその受ける給付の完了の確認(給付の完了前に代価の一部を支払う必要がある場合において行なう工事若しくは製造の既済部分又は物件の既納部分の確認を含む。)をするため必要な監督をしなければならないとされている。基本設計業務委託契約における必要な監督とは、受注者である訴外竹中工務店が、契約書( 変更契約も含む。甲第7 号証及び同第9 号証)に基づき適切に履行されるようにするため又は履行しているかを確認するため、契約約款、設計図書等の内容を熟知し、業務日程の管理、指示、協議、承諾等を行う行為である」

つまり名古屋市はこの条文を次のように理解しています。

  <契約の適正な履行を確保するため> 又は <受ける給付の完了の確認>
をするためには、必要な「監督」を行えばよい、・・・・と。

地方自治法第234条の2第1項の条文は次のようになっています。

「契約の適正な履行を確保するため又はその受ける給付の完了の確認(略)をするため必要な監督又は検査をしなければならない」

地方自治法 | e-Gov法令検索


条文としては

  <契約の適正な履行を確保するため> 又は <受ける給付の完了の確認>
をするためには、 「監督」 又は 「検査」 をしなければならない。となります。

これだけを見ると、「監督」による<受ける給付の完了の確認>が適法であるかのように見えますが。違法です。


新版逐条地方自治法<第1次改訂版>【甲第28号証】
( https://drive.google.com/open?id=1nOiX156tTVMAHlMwnGXHNOuLo50AHlmr )(p.798)では
https://app.box.com/s/csfbgf3mzcq93sambe9wwdz08vukhtdz

「この場合の監督は、契約の性質又は目的により検査のみでは契約の目的を達するには必ずしも十分でないものについて、相手方の当該契約の履行途中において、立ち会い、指示その他の適当な方法によってその適正な履行を図ろうとするものであり、検査は、契約の相手方の給付の完了について、その給付が契約の内容どおり適正に行われているかどうかを契約書、仕様書等の関係書類に基づき確認するものである」とされています。

「給付の完了」については「検査」によって確認するものであって、「監督」による<受ける給付の完了の確認>は謳われてはいない。

会計法ではその第29条の11第1項で「契約の適正な履行を確保するために必要な監督をしなければならない」と定め、第2項で「その受ける給付の完了の確認(略)をするために必要な検査をしなければならない」と定めています。

会計法第29条( https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=322AC0000000035&openerCode=1#123 )

すなわち、監督とは契約の適正な履行を確保するために行われるものであり、その完了の確認については検査を行わなければならないものと項を分けて定めています。

また名古屋市契約規則【甲29号証】( https://drive.google.com/open?id=1QFieIs7Nhmw40-kzT7ba27peDtznFMOx )では、
https://app.box.com/s/qh0vnhyv9pmyyms3bxo5swveo20noij6


第53条において

「工事その他の請負及び物件の買入れにかかる契約の契約代金の支払は、当該契約の目的物についての検査を完了(略)したのちでなければすることができない」

とされているのであり、監督のみによって検査を代行する行為は違法、規則違反です。

また名古屋市は、これに続く主張として

ウ  検査
 →(ウ) 事前の点検が原告が主張する「指定部分完了検査」には当たらず、違法なものではないこと
 
において次のように述べます

「指定部分完了検査」は、当該指定部分の業務が完了したのちに検査を行うもので、法第234 条の2 第1 項に規定する「検査」 の一つであるが、本件において行われた事前の点検等は、「検査」にはあたらず 、同項に規定する「監督」にあたる 。
上記イで述べたとおり、本件事業においては、監督員が成果物の納品に先立って、点検・修正を行い、内容を精査することで、適正な契約の履行を図っており、当該「監督」については、その過程に瑕疵はなく、適法かつ適正に行っている。

つまり、「検査」は行わずに「監督」を行ったとの主張であり、違法行為の「告白」です。


私もまさか自分が、法律のプロである弁護士に向かって「あなたの法律解釈は間違っている」なんてセリフを言う日が来ようとは思ってもいませんでしたが、ここまで明白に間違えられると、ある意味清々しい。

しかし、住民監査請求においてもこうした説明がなされているようで、名古屋市の行政事務全体でこうした検査の軽視、監督業務の拡大解釈が行われているとしたら、他の業務においても支障を及ぼすのではないでしょうか。

あいちトリエンナーレの件でもそうですが、もう少し法律の在り方に詳しいか、謙虚に専門家の法律解釈を受け入れる姿勢をもった者を市長にしなければ、名古屋市の行政自体が毀損されます。

河村市長における歪んだ法律解釈と、
「ワシは9回も司法試験受けとるで、法律の専門家だ」という歪んだ自意識。

司法試験に受かってから「法律の専門家」だと言うのならまだしも、9回も落ちている事実から、自身の法律の捉え方のどこかが誤っているのではないか。という謙虚な姿勢が生まれないものだろうか。もっとも、こうした「謙虚」なんてものを欠片も持ち合わせていないことが、この人物のそもそもの誤りで、そんな誤りも70歳を超えてしまった今となっては、もう遅すぎる。

いや、70歳を過ぎても遅くはない。人間の人生に限界はない。とでも言うのであれば、まず即座に市長の職を辞すべきだ。
市民や関係者、大村知事にも謝って、自身の法律解釈や過大な自意識について反省し、訂正し、謝罪すべきだ。

それができずに、自身の誤りを誤魔化し続けるのであれば、残り少ない人生、遂に真実には至らないままであると覚悟すべきだろう。そして、そうした誤魔化しは、自身が死んだ後でもついて回る。死後の評価、笑いものとしての「河村たかし」を容認する以外にないだろう。自分の蒔いた種であり、自己責任だ。